17 魔霊伯爵と真夜中のお茶を


「いや……」


 振り切るようにひとつかぶりを振ったヴェルフレムがレニシャを見下ろす。


「それがお前の望みというのなら、叶えよう。食事自体は不要だが、味や香りを楽しめぬわけではないのだ。……ああ、そういえば」


 ヴェルフレムがくるりと室内を振り返る。


「ジェキンスが持ってきたカモミールティーなら少し残っているぞ。とうに冷めているが、それでよければ……」


「で、では、いただいてもよいですか?」


 せっかくのヴェルフレムの気遣いを無にしたくなくて、笑みを浮かべて尋ねる。


「ああ、こちらへ」


 部屋の中へと招き入れてくれたヴェルフレムがソファを指し示す。その向こうにあるのは大きな執務机だ。その上にどさりと置かれているのは。


「ヴェルフレム様……っ! あの書類の山は何ですかっ!?」


 小山のように積み上げられた書類に、思わず驚きの声が飛び出す。


「うん? ああ、いまの時期は各村からの収穫の報告やら、冬に向けての備蓄の確認やら、処理すべき案件が多いからな。なに、順に処理していけば、そのうち終わる」


「で、ですが……。もしかして、ヴェルフレム様が夜、睡眠をとられないのは、書類仕事があるからですか!?」


「別にそんな風に考えたことはないが……。だが、どうせ暇なのだから、するべきことをしたほうがよいだろう?」


 ヴェルフレムはあっさり言うが、レニシャはとてもではないが頷けない。


「そうはおっしゃっても、ずっと働きづめではそのうちお身体を壊してしまいますっ! 私にもできることがあれば、お教えください! そ、その、書類仕事はしたことがありませんが……。ですが、神殿で読み書きと簡単な計算は習っていますので、少しずつ覚えていきますっ!」


 ぐっ、と両手を握りしめ、気合いを込めて宣言する。が、ヴェルフレムから返ってきたのはいぶかしげな表情だった。


「なぜ、そこまで俺を気遣う?」


「え……?」


 わけがわからない。そう言いたげな響きの声に、きょとんと長身のヴェルフレムを見上げる。


「だって……。ヴェルフレム様がおっしゃったのではありませんか。『領主の妻として、ラルスレード領についてしっかり学ぶ必要がある』と……。馬車でも申しあげたように、私もラルスレード領のことをもっとよく知りたいです! ですから、お手伝いさせていただけたらと……っ!」


「……なるほど」


 頷いたヴェルフレムが、ティーポットの中身をそそいだカップをレニシャに差し出す。


「あたため直したから熱いぞ。気をつけろ」


「ありがとうございます……」


 礼を言いながら受け取ったカップは、ヴェルフレムが言うとおり、ほんわかとあたたかい。炎の魔霊の力は本当に便利だなぁと、感心する。


「立って飲むのは落ち着かぬだろう」


「あ、はい。失礼します」

 うながされるままソファに座ると、ヴェルフレムも対面に腰かけた。


「いただきます」

 とカップを傾け、口をつける。ふわりと林檎に似たすがすがしい香りが漂った。カモミールティーの熱さが胃に落ち、空腹を訴えていた身体にじんわりとみわたっていく。


「おいしいです。ありがとうございます」


 カップから立ちのぼる湯気と爽やかな香気に、気持ちがほぐれる心地がする。


 ちびちびとカモミールティーを味わっていると、対面に座るヴェルフレムが口を開いた。


「ラルスレード領について学ぼうとするお前の姿勢は嬉しいが、温室の手入れもあるだろう? 大変ではないか? ……いや、一日中、手入れをしているほうが大変か……?」


「では、午前中は温室の手入れをして、午後からお手伝いさせていただくというのはいかがでしょう? その、どこまでお役に立てるかはわかりませんが……」


「その辺りはジェキンスにも相談しよう。だが、その予定では、お前が一日中働く羽目になるではないか」


「何をおっしゃいます! ヴェルフレム様こそ、夜もずっと働いてらっしゃるではありませんせんか! それに比べたら、私は夜は寝るのですから半分です!」


 美貌をしかめて告げるヴェルフレムに、とんでもない! とかぶりを振る。


「本当に、魔霊の方はまったく眠らなくても大丈夫なのですか……? 魔霊の方については、知らぬことばかりなので、お恥ずかしい限りですが……」


 『聖婚』のことも魔霊のことも、ラルスレード領のことも。何も知らぬ自分が恥ずかしくて情けない。


 無意識にカップを包む手に力が入る。


 聖女になった時も、『聖婚』の相手としてラルスレード領に来ることになった時も、いままで、周りに命じられるまま、望まれるままに動いてきた。


 他の誰でもないレニシャ自身のことなのだから、本来は自分で調べて自分で決断しなければならないのに……。


 ただ、命じられるまま、流されて日々を過ごしてきた。


 魔霊伯爵と呼ばれ、領主としてラルスレード領を立派に取り仕切っているヴェルフレムを前にすると、自分がどれほど取るに足りない存在なのか、嫌でも自覚させられて情けなくなる。


 けれど、そんなレニシャをヴェルフレムは責めないでいてくれる。それだけではない。寒くはないかと気遣ってくれ、これからラルスレード領のことを知ればよいと励ましてくれ……。


 さらには、ずっと癒やしの力を使えなかったレニシャが、力を使えるようにしてくれた。


 それが、まがりなりにも『聖婚』することになった相手への儀礼的な気遣いだとわかっていても。


 この恩を少しでも返したいと、心から思う。


「魔霊であっても、無理をしたら体調を崩されることもあるのでは……? 人間と違って、お医者様もいないでしょうし……。あっ! それとも癒やしの力は効くのでしょうか!? もしそうなら教えてくださいね! せっかく使えるようになりましたし!」


 身を乗り出し、勢い込んで告げると、ヴェルフレムが金の瞳を瞬いた。と、ふはっと吹き出す。


「まさか、魔霊相手に癒やしの力を行使しようとは……」


 子どもの他愛ない冗談を聞いたかのように、ヴェルフレムがくつくつと喉を鳴らす。


「大丈夫だ。癒やしの力を必要とするほどの無理などしていない。心配は無用だ」


「は、はい……」


 きっぱりと告げられた言葉に、こくんと頷く。なぜか心臓がぱくりと跳ねたのは、いつも以上にヴェルフレムの笑顔が柔らかいせいだろうか。


 もしかしたら、夜の気配がそう見せているのかもしれない。ヴェルフレムが灯したのだろう炎が揺らめく部屋は、冬が迫っているとは思えないほどのあたたかさで、カモミールティーの爽やかな香りと相まって穏やかで優しい空気が揺蕩たゆたっている気がする。


「ごちそうさまでした」

 飲み終わり、ぺこりと一礼すると、ヴェルフレムが立ち上がった。


「どうだ。眠れそうか?」


「はいっ、ヴェルフレム様のおかげです!」


 カモミールティーを飲んだだけだが、あたたかいものをおなかに入れたおかげか、空腹感は減っている。


 ヴェルフレムに続いて立ち上がると、長い指先がそっとカップを取り上げた。


「では、もう一度休むといい。朝まではまだ間があるからな」


 穏やかながらも有無を言わせぬ声音に素直に頷く。


「あ、上着を……」


 肩にかけられていた上着を脱いで返そうとすると、「よい。そのまま着ておけ」と止められた。


「その下は夜着だろう? 脱いだら寒かろう」

 言われて初めて、夜着だったことを思い出す。


「す、すみませんっ。お見苦しいものを……っ」


 呆れられただろうかと視線を伏せると、ぽふぽふと大きな手で頭を撫でられた。


「おやすみ、レニシャ」


 柔らかな微笑みに鼓動が跳ねる。


「あ、あのっ。名前、を……?」


 レニシャを前にして名前を呼ばれたのは、初めてな気がする。

 びっくりして問うと、ヴェルフレムの眉が心配そうに寄った。


「……俺に名前を呼ばれるのは嫌か?」


「と、とんでもありませんっ! その……っ、嬉しいですっ!」

 はじかれたようにかぶりを振る。


 名前を呼ばれただけ。


 ただそれだけなのに、なぜか心臓がどきどきする。


「お、おやすみなさいませ……」


 ぺこりと頭を下げ、内扉から執務室を出る。


 私室は火が落とされているが、ヴェルフレムの上着があるせいか、寒さはまったく感じない。


 私室には明かりがないからだろう、内扉を開けたまま、ヴェルフレムが見送ってくれているのが差し込む光で振り返らずともわかる。


 やっぱり、燃え立つ炎のような威圧感のある見た目に反して、とても優しい方だ。

 ヴェルフレムの私室を横切り、自分の部屋に通じる内扉の前で、ふとヴェルフレムを振り返る。


 執務室の明かりを背にした美貌は影に隠れていて、どんな表情をしているのかはわからない。


 けれども、見守ってくれているというのが素直に信じられて、レニシャはもう一度ぺこりと頭を下げると、くすぐったい気持ちを感じながら、扉を開けた。


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