9 淡い若草色の絹のドレス


 昼食を手早くとった後、モリーに手伝ってもらって着替えたレニシャは、


「伯爵様はすでに馬車でお待ちになられています」

 と告げられ、モリーとともに急いで玄関へと向かった。


 見送りのためだろう。玄関前にいたジェキンスが、レニシャを見て穏やかな微笑みを浮かべる。


「よくお似合いでいらっしゃいますよ。ヴェルフレム様は中でお待ちです」


「あ、ありがとうございます……っ」


 蚊の鳴くような声で礼を言い、立派な馬車に乗り込む。


 聖都からラルスレード領に来るための馬車も長旅用のしっかりした馬車だったが、この馬車は濃い紅で塗られていることといい、燃え上がる炎を模した装飾が施されていることといい、それ以上に立派だ。


 レニシャなどが乗ってもよいものかと不安になる。


「お待たせして申し訳ございません。失礼します……」


 詫びながら乗り込むと、座席に座っていたヴェルフレムが視線を上げた。レニシャが借りてしまったので上着だけ着替えているが、馬車にふさわしい立派な衣装だ。

 むしろ、ヴェルフレムが乗っていることで、馬車がよりいっそう豪華にさえ見える。


 ヴェルフレムの視線を避けるように顔を伏せ、向かいの座席にそそくさと座る。しっかりと綿が詰められた座席は座り心地も抜群だ。


 レニシャが座ったのを見計らったように、馬車が動き出す。


「あの……。立派なドレスをお貸しいただきまして、ありがとうございます」


 うつむいたまま、レニシャは対面のヴェルフレムに深く頭を下げた。


 土いじりをしたままの服で出かけるわけにいかないのはレニシャも承知していたが、昼食後、モリーが持ってきたドレスを見て、度肝を抜かれた。


 淡い若草色の絹のドレスは思わず見惚れるほど綺麗で……。


 同時に、レニシャなどがこんなドレスを借りるわけにはいかないと、固辞したが無駄だった。


「レニシャ様に質素なドレスを着せては、わたくしが伯爵様に叱られてしまいます。大丈夫です。レニシャ様はとってもお可愛らしいですもの。絶対にお似合いになりますわ!」


 モリーが言葉を尽くして勧めてくれたが、お世辞とわかっていて頷けるわけがない。結局、


「伯爵様をお待たせするわけにはまいりませんでしょう?」


 と言われ、仕方なく袖を通したのだが、本当に着てよかったのだろうかという不安で、顔を上げられない。


 ヴェルフレムからどんな叱責が放たれても、真摯しんしに謝罪しようと、緊張に身体を強張らせてうつむいていると、かすかな溜息が耳に届いた。思わずびくりと肩を震わせる。


「ドレスなど気にするな。それより……。もう一台、馬車を用意させればよかったな。俺と一緒の馬車では気がふさぐだろう?」


「え…………?」


 あまりに予想外すぎる言葉に、呆けた声がこぼれる。


 驚いて顔を上げると、苦みを帯びた金の瞳とぱちりと視線があった。その瞬間、自分でもよくわからぬ感情に突き動かされるまま、ぶんぶんぶんっ! と千切れんばかりにかぶりを振る。


「と、とんでもありませんっ! 気がふさぐだなんて……っ! そんなことありません!」


「だが、浮かぬ顔をしているぞ」


「こ、これはその……っ! 緊張しているのです! 私なんかがこんな綺麗なドレスを着てよいはずがありませんのに……っ!」


 『聖婚』のための聖女のドレスも立派だったが、それとはわけが違う。聖女のドレスはレニシャが役目を果たすための道具のようなものだったのだから。


 レニシャの言葉に、ヴェルフレムがいぶかしげに金の瞳を細める。


「うん? 何を言っている? お前が着てよいに決まっているだろう? ああ、それとも……。お前のために用意したドレスでないのが気に食わなかったか? ならば、いくらでも好きなドレスを作るがいい」


「えぇぇっ!? どうしてそういう話になるんですか!? 新しくドレスを作るだなんて……っ! このドレスでも私なんかにはもったいないほどだというのに……っ!」


 確かに、いま着ているドレスはレニシャの身体には少し丈が長い。だが、十分に着られるのに、新しいドレスを作るなど、レニシャにはヴェルフレムの考えていることが理解できない。


 馬車の中に奇妙な沈黙が落ちる。


 ややあって、確認するように口を開いたのはヴェルフレムだった。


「……つまり、そのドレスが気に入らないわけではないと?」


「もちろんですっ! こんな綺麗なドレス、うっとりしてしまいますっ! ただ、私などが高価なドレスを着ても、ちぐはぐでみっともないだけでしょうから、それが申し訳なくて……っ」


「何を言う?」

 ヴェルフレムが虚をつかれたように瞬く。


「可憐で、よく似合っている、まるで、これから花ひらこうとするつぼみのようだ」


「っ!?」


 真っ直ぐなまなざしでてらいもなく告げられた言葉に、一瞬で頬が熱くなる。


「あ、あああああり……っ」


 お世辞とわかっていても、ばくばくと鼓動が騒いでうまく言葉が出てこない。


 ふしゅーっ、と顔から湯気が立ちそうだ。鏡を見なくても、顔が真っ赤になっているだろうとわかる。


 モリーもジェキンスも「似合っている」と言ってくれたが、まさかヴェルフレムまで言ってくれるとは、予想だにしていなかった。


 見目麗しく、立派な衣装を纏ったヴェルフレムの言葉は、破壊力が違う。


 ぱくぱくとうるさい心臓をドレスの上から押さえ、必死でなだめすかしていると、ヴェルフレムが言を次いだ。


「仮にもお前は伯爵夫人だからな。領民達の前に立つのならば、それなりのドレスが必要だろう。足りぬのなら、他にもドレスを作るといい」


 淡々と告げられた言葉に、ふわふわと浮き上がっていた心がぺしゃんとしぼむ。


 確かに、言う通りだ。ヴェルフレムも伯爵の身分にふさわしい立派な衣装を纏っている。『聖婚』で伴侶となった自分がみすぼらしい格好をしていれば、ヴェルフレムまであなどられかねない。


 だから、わずかなりとも身なりをつくろえるよう、ドレスだけでも立派なものを用意してくれたのだろう。


 厚意に感謝するべきだと、わかっているのに……。なぜか、胸の奥がつきりと痛む。


 レニシャには少し丈の長いドレス。品の良い仕立てはきっと。


「このドレスは、以前の『聖婚』の聖女様のものなのですよね……?」


 心に浮かんだ言葉をろくに吟味ぎんみせずに口にすると、途端、ヴェルフレムの美貌が不快げにしかめられた。


「そのドレスは……。いや、お前が知る必要はない」


 氷柱つららのように、冷たく硬い声。


 明らかな拒絶をはらんだ声に、レニシャは失言を悟って口をつぐむ。


 前回、《聖婚》を行った聖女がどんな人物だったのか、レニシャはくわしいことは何も知らない。噂では、ある日突然失踪したため、聖都の大神殿が大騒ぎになったらしいが……。


 ただ、今回の《聖婚》まで、約五年もの空白期間があったために、神殿はレニシャが成人を迎える日を首を長くして待っていたと聞いている。


 スレイルも懸念していたように、神殿はヴェルフレムが神殿のくびきを脱する事態にならぬよう、神経を尖らせているらしい。


 今まで、ヴェルフレムには《聖婚》で何人もの聖女が嫁いでいる。レニシャはそのうちのひとりに過ぎないと、頭ではわかっているはずなのに。


 なぜか心の奥がもやもやする。ほとんど袖を通した様子がない若草色の綺麗なドレス。このドレスの持ち主は、どんな人物だったのだろう。


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