8 俺の不在が嬉しいか?


「ヴェルフレム様があまりにお優しいので、つい、恐ろしい力を持った魔霊伯爵様だということを忘れてしまうのです……」


 家族はともかく、神殿に引き取られてから、レニシャに優しくしてくれた人なんていなかった。


 いや、最初はいたのだ。


 聖なる力を持つ者を見出みいだすため、巡礼神官が『聖別せいべつの水晶』をたずさえて村を訪れた時、レニシャが手をかざした途端、水晶から発された輝きは、村の神殿の外まであふれ出るほどだった。


 これほど強い力を宿した聖女は滅多にいないと、その日のうちに神殿に引き取られることが決定し、レニシャが聖女となることを心から喜んでくれた家族とは、ろくに別れを惜しむ間もなく、あわただしく聖都に出発し……。


 だが、レニシャの身に起こった奇跡は、そこまでだった。


 実際に聖都で聖女としての教育を受け始めてすぐ、レニシャは癒やしの力を使えないことが判明した。


 何度祈りを捧げても聖なる力が発現することはなく……。


 期待外れもはなはだしいとなじられ、呆れられ、果ては『聖別の水晶』の光は何かの間違いだったのではないかとまで疑われ……。


 そんなレニシャを誰もがみな、期待外れの落ちこぼれだとさげすんだ。


 魔霊伯爵を教会のくびきもとに留めておくためのにえとして、辺境の地に遣わすくらいしか使い道がない役立たずだと。


 だというのに。


 寝台を譲ってくれたり、風邪をひかぬよう上着を着せかけてくれたり、レニシャのわがままを叶えてくれたり……。


 口調こそぶっきらぼうなものの、こんな風に気遣ってもらったことなど、聖女になってから初めてだ。


 心に浮かんだままに言葉を紡ぐと、ヴェルフレムが凍りついたように動きを止めた。信じられないと言いたげに見開かれた金の瞳に、不快にさせてしまったのだと血の気が引く。


「も、申し訳――」


「……魔霊伯爵をつかまえて『優しい』とは……。やはりお前は、愚か者だな」


 謝罪を紡ぐより早く、低い声で呟いたヴェルフレムがくるりと背中を見せる。


 会話を打ち切るような広い背中に、レニシャは何も言えなくなって唇を噛みしめる。


 きっと呆れ果てられたに違いない。呆れ果てられることなど、いままで神殿でもさんざんあったはずなのに……。


 なぜだろう。いまは、やけに胸が痛い。


 ヴェルフレムが足を止めたのは、温室からさほど離れていない井戸だった。


 レニシャが動くより早く、井戸の中へ桶を落としたヴェルフレムが縄を引き上げる。


「あのっ、自分でしますから……っ!」


「その細腕では重いだろう? この程度、たいした手間ではない」


「だ、大丈夫です! こう見えて力はありますっ!」


 言い合っている間にもヴェルフレムの腕はよどみなく動き、なみなみと水を満たした桶を苦もなく引き上げる。


「ほら。洗え」


「ありがとうございます……」


 深々と頭を下げて、肩にかけてもらった上着を濡らさないように気をつけながら、桶の中に両手を入れる。桶の水は冷えていて気持ちよいが、ヴェルフレムを待たせるわけにはいかないと、大急ぎで手を洗う。


「お待たせしました……っ」


 桶の中から手を引き抜くと、「おい」と呆れたような声が降ってきた。


「顔を忘れているぞ」


 声と同時に、ちゃぷ、と片手を水で濡らしたヴェルフレムの指先がレニシャの頬をぬぐう。


「っ!?」


 冷たい水がふれたはずなのに、一瞬で頬が熱を持つ。ヴェルフレムの手のひらの熱がうつったかのようだ。


 固まっているレニシャをよそに、もう片方の手でハンカチを取り出したヴェルフレムが、濡れたままの頬をぬぐう。頬にふれる絹のなめらかさに、レニシャは今度こそ肝を潰した。


「だ、だだだだ大丈夫ですっ! 自分のがありますから……っ」


 ごわごわした麻のハンカチを取り出し、ヴェルフレムの手を押しのけてぐいぐいと頬をぬぐう。たとえそれが本来の用途といえど、絹のハンカチを濡らすだなんて、とんでもない。心臓に悪すぎる。


 レニシャが顔と手をき終えたところで、ふたたびヴェルフレムが歩き出す。


「お手数をおかけして、申し訳ありませんでした」


 ヴェルフレムの後に続いて屋敷の扉をくぐりながら、白いシャツに包まれた背中を見上げ謝罪を紡ぐ。


「ヴェルフレム様のご公務のお邪魔をしてしまったのでは……?」


「気にするな。午後からはロナル村へ行く予定だが、まだ馬車の用意が整っておらんからな。時間潰しだ」


「えっ!? 村へ行かれるのですかっ!?」

 思わず食いつくと、振り返ったヴェルフレムが唇を吊り上げた。


「ああ、そうだが。……何だ? 俺の不在が嬉しいか?」


「いえっ、そうではなくて……っ。あの……っ」


 どうしよう、言ってもよいだろうかと逡巡しゅんじゅんする。だが、こんな機会、次にいつあるかわからない。


「その……っ! ご迷惑でなければ、私も一緒に連れて行っていただけませんか……っ!?」


 祈るように胸の前でぎゅっと両手を握りしめ、思い切って頼み込むと、ヴェルフレムが虚をつかれたように目を瞬いた。


「一緒にだと……? なぜだ?」


「えっ!? それはその……っ」

 詰問するような声音に、焦りながら説明する。


「ラルスレード領は、北方にも関わらず農業がとても盛んなので……っ! 来る時も馬車の窓から豊かに実った畑が見えましたし、作物がよく育つ秘訣ひけつがあるのなら、ぜひこの目で見て、確認したいんですっ!」


 射貫くようにレニシャを見据える金の瞳を、おずおずと見上げる。


「だめ、でしょうか……?」


「ついて来たいというのなら、別にかまわんが――」


「ほんとですかっ!? ありがとうございますっ!」

 食いつくように言い、がばりと頭を下げる。


「だが、その格好では行けまい。ひとまず、昼食をとって着替えろ」


「はいっ!」

 弾んだ声で、レニシャは大きく頷いた。


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