4 自分から罠に飛び込む気か?


 獲物を見下ろす獣のような金の瞳。さらりと広い肩からすべり落ちた真紅の髪がレニシャの身体に落ちかかり、レニシャは炎にふれたようにびくりと身体を強張らせた。


 緊張に喉がひりついて声が出せない。動けば、一瞬で喉を喰い破られるのではないかとさえ思う。


 息をひそめて、感情のうかがえぬ金の瞳を見上げていると。


「が、今夜はここまでだ。もう遅い。寝ろ」


 さっと身を翻して寝台から下りたヴェルフレムが、ばさりと掛布をレニシャに投げかける。


「わぷっ」


 視界をふさいだ柔らかな掛布を、あわてて押しのける。


「俺は隣室にいる。この部屋は好きに使っていいが、部屋の外へは出るなよ」


「ま、待ってくださいっ!」


 一方的に告げて立ち去ろうとする背中に、あわてて身を起こして叫ぶ。


「こ、このまま寝るなんてできませんっ!」


「……見逃してやろうと言ったのに、自分から罠に飛び込む気か? ほとほと愚かだな」


 立ち止まり、振り返ったヴェルフレムの金の瞳が不快そうに細くなる。


「罠……?」


 きょとんと首をかしげたレニシャに、ヴェルフレムが呆れたように鼻を鳴らす。


「愚かなうさぎは、自分が獣の巣穴にいることもわからんか?」


 一歩、寝台へ踏み出したヴェルフレムの手が、寝台の上に座るレニシャの顔へと伸ばされる。あたたかく大きな手のひらが頬を包んで上を向かせる。


 身を屈めたヴェルフレムの美貌が間近に迫り。


「もう少し怖がらせれば、己の立場を自覚できるか?」


「たち、ば……? そ、そうですっ! この聖女の正装のドレス、一着しかないんですっ! 着替えないと、このまま寝たら、しわくちゃになって大変なことになっちゃいますっ!」


 一着きりの絹のドレスなのだ。神殿で『聖婚』の誓いを立てる時にも必要だろうし、皺だらけにするわけにはいかない。


 こくこくこくっ! と大きく頷くと、ヴェルフレムの動きが止まった。


「ですので、玄関ホールに置きっぱなしの荷物をいただけると嬉しいんですけれ、ど……? あの、ヴェルフレム様……?」


 大きく首を振ったせいで外れた手のひらもそのままに、ぴたりと凍りついたままのヴェルフレムを見上げ、首をかしげる。途端。


 ぶはっ、とヴェルフレムがこらえきれないように吹き出した。


「そうか……っ! 本気で『寝る』つもりか……っ!」


「えぇぇっ!? 寝ろとおっしゃったのはヴェルフレム様では……っ!?」


 なぜ、これほど大笑いされているのかわからない。

 あわあわと尋ね返すと、さらにぶはっと吹き出された。


「そうか……。愚か者は愚か者でも、素直すぎる愚か者か……っ!」


 くつくつと笑い続けるヴェルフレムに、どうすればよいのかわからず戸惑っていると、こんこん、と遠慮がちに扉が叩かれた。


「ヴェルフレム様。神官のご案内は済みました。ですが、レニシャ様のお荷物はどちらにお運びいたしましょう?」


「ああ、ちょうどよいところに来たな」


 ジェキンスの声に、ヴェルフレムが扉に歩み寄る。


「聖女の荷物は俺が受け取ろう。ジェキンス、夜分までご苦労だったな。もう休んでよい」


「ありがとうございます。では失礼いたします」


「ジェキンスさん! ありがとうございます!」


 恭しく一礼したジェキンスが扉を閉める寸前、急いで寝台から降りて頭を下げると、ジェキンスが驚いたように動きを止めた。


「いえ。おやすみなさいませ、レニシャ様」


 にこり、と穏やかな笑みを浮かべたジェキンスが、今度こそ扉を閉める。


「お望みの荷物だ。これでもう、休めるだろう?」


 どさりとレニシャの両腕に布袋を載せたヴェルフレムが、もう用は済んだとばかりに内扉でつながった隣室へ足を向ける。


「ま、待ってくださいっ!」


 ふわりと翻った上衣の裾を、レニシャはあわてて掴んだ。


「まだ何かあるのか?」


「そ、その……っ」

 眉を寄せて振り返った美貌を、おずおずと見上げる。


「も、申し訳ないんですけれど……っ! 宿ではなんとか一人で着られたんですけれど、留め金を一人で外せる自信がなくて……っ! すみませんけれど、装飾品を外すのを手伝ってもらえませんか……?」


 情けなさに涙がにじみそうになりながら懇願すると、はぁぁっ、と特大の溜息が降ってきた。


「まったく、世話の焼ける……。仕方がない。今回だけは手伝ってやる。だが、次からは侍女に頼めよ」


「じ、侍女っ!?」


 すっとんきょうな声を上げると、ヴェルフレムがいぶかしげに片眉を上げた。


「何を驚くことがある? 神殿にも侍女はいるだろう? それに、『聖婚』の相手であるお前は、肩書の上では伯爵夫人になる。専属侍女のひとりや二人、当然だろう? まあ、魔霊伯爵である俺が社交の場に招かれることなどないがな」


「は、伯爵夫人……っ!?」


 考えてもいなかった肩書に、気が遠のきそうになる。言われてみればその通りだが、まったく、全然、考えたこともなかった。


 そもそも、落ちこぼれのレニシャには専属の侍女などいたことすらないのだ。むしろ、侍女の手を借りた経験は、成人を迎えた時に正装の着付けを教えてもらった一度だけと言っていい。


「で、どれを外せばいいんだ?」


「あ……っ」


 ヴェルフレムの問いかけに、あわてて荷物を床に置き、くるりと背を向ける。


「えっと、首の後ろ辺りに首飾りと、あと肩から下げている綬章じゅしょうとか装飾品の小さな留め金があると思うんですけれど……」


「これか……? おい、髪の毛が絡まっているぞ」


「えっ!?」


 あわてて頭の後ろに手をやると、結い上げていたはずの長い栗色の髪がばらりと落ちている。抱き上げられた時に暴れたせいか、寝台に降ろされた拍子で崩れたらしい。


「す、すみません……っ、いたっ」


 あわてて髪をかき分けようとすると、つん、と髪の付け根が引っ張られた。


「動くな、取ってやる」


「は、はいっ」


 ぶっきらぼうに告げたヴェルフレムの声に、ぴしりと背筋を伸ばして、両手を身体の横につける。


 不思議だ。先ほど、無理やりくちづけられた時は、喰われてしまうかと思うほど恐ろしかったのに、髪を傷ませぬよう、丁寧に外してくれる指先は、驚くほど優しい。


「取れたぞ」


 声と同時に首飾りがずり落ちる気配がして、レニシャはあわてて両手で受け止めた。


 円形の金剛石を中心に、放射線状に線が伸びる光を模した図案は、光神ルキレウスの象徴だ。


 宝石と金でできた装飾品なんて、『聖婚』に際して下賜されたこの首飾りが初めてだ。万が一落としたりしたら、心臓が止まってしまうかもしれない。


「あ、ありが……、ひゃっ」


 長い指先が首筋を撫で、くすぐったさに声がこぼれる。


「他のも全部外すぞ」


「は、はいっ。ありがとうございます……」


 留め金を外すかすかな音が聞こえるだけなのに、なぜだかどんどん顔が熱くなってくる。


「こんなものか?」


「あ、あのっ、本当にありがとうございました……っ」

 じゃらりと渡された装飾品を腕に抱え、深々と頭を下げる。


「気にするな」


 あっさり告げたヴェルフレムが今度こそ、内扉を通って隣室へ去る。


 頭を下げ続けていたレニシャは、ぱたりと扉が閉まった音に身を起こすと、丁寧に装飾品をしまい、ドレスから夜着へと着替える。


「あれ、でも……?」


 着替え終えてから、あることに気づき、レニシャは困って首をかしげた。


 広い部屋だが、寝台は先ほど寝かされた天蓋付きのものひとつしかない。


 レニシャが寝台を使ったら、ヴェルフレムは寝る場所がなくなってしまうのではなかろうか。


(二人……。ううん、三人くらい並んで眠れそうな寝台だけど……)


 まさか、一緒の寝台で寝るつもりなのだろうか。


 そう考えた瞬間、一瞬で頬が熱くなり、レニシャはぶんぶんとかぶりを振って熱を追い払う。


 昔、実家で暮らしていた頃は、寒い冬には家族みんなで身を寄せ合って寝たものだが……。


 先ほどレニシャを抱き寄せた力強い腕や硬い胸板を思い出すと、わけもなく顔が火照ほてってくる。


 無理。無理だ。絶対に安眠できない。


 困り果て部屋を見回した視界に、ソファが目に入る。ふっくらした座面はいかにも寝心地がよさそうだ。


(よし! あそこで寝よう!)


 部屋の中はしんと寒いが、マントにくるまって眠れば大丈夫だろう。


 いそいそと荷物の中からマントを取り出し、すっぽりと身体を包む。


「光神ルキレウス様。どうぞ、明朝にすこやかな目覚めをお恵みください」


 手を組んで就寝前の祈りを呟くと、レニシャはソファに横たわった。予想通り、いい寝心地だ。少し足が出てしまうが、曲げればなんということもない。


 いろいろと気を張っていて疲れ果てていたらしい。


 横たわると同時に襲ってきた睡魔に、レニシャはあらがうことなく身をゆだねた。


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