3 『聖婚』の聖女としての務めを果たしましょう


 青年の名乗りを、レニシャは信じられない思いで聞いていた。


 かつて逃げ出そうとした聖女もいたほどの恐ろしい『聖婚』の相手。


 それが、見惚れずにはいられない美貌の持ち主だなんて。


 確かに、人あらざる美貌は畏怖いふを覚えるほどだ。けれど、それ以上に目を奪われて視線が外せない。


「うん? 聖都からの訪問者は、口上すら知らんのか?」


 ヴェルフレムの声が険を帯びてわずかに低くなる。炎のように揺らめいた金の瞳に、スレイルがはじかれたように姿勢を正した。


「わ、わたしは聖都より派遣された神官のスレイル! こちらは『聖婚』の聖女、レニシャである!」


「ふぅん。スレイルとレニシャ、か……」


 芥子粒けしつぶほどの興味もなさそうな呟きとともに、金のまなざしがレニシャへそそがれる。


 それだけで、不可視の圧に喉がひりつく。


「せ、『聖婚』の盟約に従い、参りましたレニシャ・ローティスと申します……っ! ま、魔霊伯爵のおそばで、『聖婚』の聖女としての務めを果たしましょう……っ!」


 道中、スレイルに叩きこまれた口上を、なんとか間違えずに言い終える。声が震えてしまうのは、抑えようとしても抑えきれなかった。


「ああ、好きにしろ」


 心底どうでもよさそうに告げたヴェルフレムが、階下に控える執事服の青年に顎をしゃくる。


「長旅で疲れただろう。部屋でゆっくり休むがいい。ジェキンス、案内を」


「かしこまりました」

 ジェキンスと呼ばれた青年が恭しく一礼する。


「ではな」


 もう用はない。言外にそう告げてきびすを返した広い背中に。


「待てっ!」

 スレイルが鋭い声を投げつけた。


「我々は『聖婚』のために、聖都からはるばる辺境くんだりまでやってきたのだぞっ!? だというのに、それだけで終わりかっ!?」


 非難を隠そうともしないスレイルの声音に、振り返ったヴェルフレムの金の瞳が不快げに細まる。


「俺が来てくれと頼んだ覚えはない。勝手に来たのはそちらだろう? しかも、陽も落ちたこんな時間に。だというのに歓迎しろと?」


「か、勝手に来ただと……っ!? 神聖なる『聖婚』を何だと思っている!?」


 スレイルの額に青筋が立つ。


「『聖婚』を避け続ければ、聖アレナシス様の封印を解けると思っているのだろう!? 浅はかな! 神殿がそのようなことを許すわけがないだろう!?」


 針のような視線でヴェルフレムを貫いたスレイルが糾弾する。


「神殿に歯向かう気がないというのなら、行動で示してもらおうか! いまここで、『聖婚』を行う意志があると示してみろっ!」


「っ!?」

 レニシャは驚いてスレイルを振り返る。


 『聖婚』が何をするのかは知らないが、今ここでできるようなものだのだろうか。こんな時間では、神殿だって閉まっているに違いない。


「お前が主張するのは勝手だが」


 氷片を散りばめたような冷ややかな声に、レニシャはあわてて階上のヴェルフレムを見上げる。


「『聖婚』を行うのはお前ではなく、聖女だろう? 聖女の意思はないがしろにしてもよいのか?」


 金の瞳が、真っ直ぐにレニシャに向けられる。まるで、心の奥底まで見通そうとするかのように。


「わ……」


 ヴェルフレムに見つめられるだけで震えそうになる身体を叱咤し、レニシャはわななく唇を必死に動かす。


「わ、私が『聖婚』のためにこちらに参ったのは、スレイルさんがおっしゃった通りです……っ。で、ですから、いまここでヴェルフレム様が意志をお見せくださるというのなら……。私に否はありませんっ!」


 そうだ。そのためにレニシャは来たのだから。


 期待外れの落ちこぼれだと、六年間も嘲笑され続けてきたレニシャが、唯一、役に立てること。ならば、この身をさぬ理由がどこにあろう。


 ヴェルフレムを見上げ、きっぱりと答えると、形良い眉がぎゅっと寄った。だが、それはほんの一瞬で。


「神殿に命じられたままに動くとは、愚かだな。だが……。お前の意志は承知した」


 こっ、とヴェルフレムが一歩踏み出した靴音が高く響く。かと思うと、手すりを掴んだ長身が、ひらりと舞った。真紅の髪が炎のように揺らめく。


「っ!?」


 驚愕に息を呑んだレニシャの前に、二階から飛び降りたヴェルフレムが平然と降り立つ。


 二階から無造作に飛び降りて無事だなんて、やはり人間ではないのだと思い知らされる。


 階下から見上げた時も思ったが、かなり背が高い。レニシャの身長では肩まで届くかどうかだろう。近くで見ると、いっそう鮮烈な印象を与える人ならざる美貌に、目が離せなくなる。


 と、不意にヴェルフレムが唇を吊り上げた。魔霊にふさわしく、人を喰らう獣のように獰猛どうもうに。


「悔やんでも、もう遅いぞ?」


 言葉と同時に、大きな手のひらが腰の後ろに回る。


 ぐいっ、と引き寄せられ、たたらを踏んだ身体がとすりと広い胸板にぶつかった。香水だろうか、香草を燃やしたような、ほのかに甘く同時に苦みのある香りがふわりと揺蕩たゆたう。


「あの……っ!?」


 驚いて見上げたあごを、長い指先に掴まれる。かと思うと。


「っ!?」


 美貌が大写しになると同時に、唇があたたかなものにふさがれた。


 混乱に、頭が真っ白になる。


 瞬きも忘れてみはった視界に、炎のように揺らめく金の瞳が映る。黄金色のまなざしに、肌がちりちりとあぶられる心地がする。


 くちづけなんて、いままで誰ともしたことなんてない。


 それを人前でされているのだと気づいた瞬間、レニシャは両手で思いきりヴェルフレムを突き飛ばしていた。


 渾身こんしんの力で突き飛ばしたのに、ヴェルフレムの身体はびくともしない。だが、唇が離れてほっとする。


「な、何を……っ!?」


「お前が言ったのではないか。『聖婚』のために来たと」


 くつり、と喉を鳴らしたヴェルフレムが、やにわにレニシャを横抱きに抱き上げる。


「ひゃっ!?」


「ジェキンス。神官を部屋に案内しておけ」


 一方的に命じたヴェルフレムが、返事も待たずにきびすを返す。


「ど、どこへ連れて行く気ですかっ!?」


 必死に足をばたつかせて暴れても、たくましい腕は緩む様子がない。ヴェルフレムが呆れたように鼻を鳴らした。


「どこへだと? 決まっている。俺の部屋だ」


 レニシャを抱き上げていても、ヴェルフレムの足取りに淀みはない。レニシャは助けを求めるように、首をねじってスレイルを振り返るが、スレイルは愕然がくぜんとした表情のまま、呆然と立ち尽くしている。


 階段を上ったヴェルフレムがいくつもの扉が並ぶ二階の廊下を進み、そのうちのひとつを押し開ける。


 ヴェルフレムが入った途端、暗闇に閉ざされていた部屋に、ぽっといくつもの明かりが灯った。


 年代物の重厚な家具が配置された豪奢ごうしゃな部屋。


 窓のそばに置かれている天蓋てんがい付きの寝台へ、ヴェルフレムが迷いなく歩を進める。


「ま、待ってくださいっ! 『聖婚』はあれで終わりじゃないんですか!?」


 さっきから心臓が壊れそうなくらいばくばく鳴っている。

 みつくように問うと、ヴェルフレムが初めて足を止めた。


「……今回は、ずいぶんと物知らずな聖女が来たものだ」


 呆れ混じりの吐息とともに、とさりと寝台に降ろされる。ほっ、と息をつく間もなく。


 ぎ、とかすかに木枠をきしませ、次いで寝台に乗ってきたヴェルフレムが、両手をついてレニシャを見下ろした。


「あの程度で、『聖婚』が終わりだと思っていたのか?」


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