2 俺が、魔霊伯爵のヴェルフレムだ
「ふわぁぁ~っ!」
聖都から、馬車で旅して約二十日。ようやく着いた辺境領ラルスレードの伯爵邸の前で、レニシャは感嘆の声とともに壮麗な建物を見上げた。
聖都に立ち並ぶお屋敷にも負けない立派な建物。いまはすでにとっぷりと陽が暮れているため、細かい部分までは見えないが、優に三階はあるだろう。前庭を見下ろす窓の数は、両手両足の指を合わせても足りないに違いない。
「口を閉じなさい! みっともない!」
スレイルから針より鋭い叱責の声が飛んできて、レニシャはあわてて口を閉じた。
いまレニシャが着ているのは、旅装ではなく聖女の正装である白いドレスだ。
夕食を取った宿屋で湯浴みした後、頑張ってひとりで着付けたものだが、じゃらじゃらと装飾がついているので、本当にちゃんと着られているのか、
スレイルもまた、高位の神官であることを示す、立派な神官服を纏っている。
北の辺境である上に、秋も深まってきた夜更けのため、身体に吹きつける風は冷たい。だが、いまだけはマントを羽織ってせっかくの正装を隠すわけにはいかない。
「よいですか。わたし達は大神官様の命により、魔霊の封印を保持するという重要な役目のために、このような辺境の地にまで遣わされたのです! 伯爵などと呼ばれていても、魔霊は魔霊! 聖アレナシス様が施した封印が万が一にでも解かれるような事態になれば、本性を
「は、はいっ!」
レニシャが今宵、嫁ぐことになる魔霊伯爵ヴェルフレム。ヴェルフレムの他にも、かつて神官や聖女によって封じられ、神殿の配下となった魔霊は幾人かいる。
だが、魔霊でありながら伯爵となって領地を治め、代々『聖婚』が執り行われているのはヴェルフレムしかいない。
いったいどんな相手なのだろうかと、レニシャは壮麗な屋敷を見上げ不安に思う。ヴェルフレムは炎の魔霊だと聞いているが、レニシャは魔霊になんて会ったことがない。
いちおう人に近い姿をしていらしいが、角や牙が生えていないとも限らない。
(それに……。『聖婚』の聖女に選ばれたものの……。『聖婚』って、いったい何をするんだろう……?)
昔、村で見た結婚式では、神殿で立ち合いの神官が光神ルキレウスに祈りを捧げ、新郎と新婦が誓いの言葉を宣誓していたのだが……。
ラルスレード領に来るまでの馬車の旅の間、スレイルは魔霊に決して侮られるわけにはいかないということや、魔霊の甘言に決して心を許してはならないことなどについては口を酸っぱくして教えてくれたが、『聖婚』の具体的な内容については、ひとことも教えてくれなかった。
つい先ほど、宿を出る寸前になって、ようやくスレイルが明かしてくれたところによると、かつて事前に『聖婚』の内容を知った聖女が、恐れおののいて逃げようとしたことがあり、それ以来、内容を伝えることは禁じられているのだという。
そんな事情があったとは、レニシャはまったく知らされていなかった。
逃げ出したいほど恐ろしい『聖婚』とは、いったいどんなものだろう。きっと、お祈りを捧げるだけではあるまい。
(でも……)
ここまで来て、逃げるなんてありえない。何より、レニシャには叶えたい夢があるのだから。
そのためにも。
(しっかり聖女の務めを果たさなきゃ……っ!)
ぐっ、と両の拳を握りしめ気合いを入れたところで、スレイルが打ち鳴らしたノッカーの音に応じて、大きな玄関扉が重々しい音とともに開いた。
馬車に下げられた明かりの他は闇に沈んだ庭に、邸内からこぼれ出た光の筋が差す。
「ようこそ、遠路はるばるいらっしゃいました、伯爵様がお待ちでいらっしゃいます」
きっちりと執事服を着こなした二十代半ばの青年が、恭しく一礼してレニシャ達を出迎えてくれる。「うむ」と尊大に頷いて歩を進めたスレイルに続き、レニシャも「失礼します」とあわてて一礼して後に続いた。
扉をくぐった先は広い玄関ホールだった。中央に二階へと続く大きな階段があり、天井には見事なシャンデリアまで備え付けられている。だが。
(あれ? 暗い……)
就寝間際の時間に来てしまったからだろうか。壁際の燭台にわずかな
(やっぱり、翌朝に訪問したほうがよかったんじゃ……?)
ラルスレード領に着いたのが夕暮れの頃。レニシャはてっきり、今夜は宿に泊まり、翌朝、魔霊伯爵の屋敷を訪れるのだと思っていたのに、今夜のうちに訪ねるのだとスレイルが強硬に主張したのだ。
不安に駆られ、スレイルに声をかけようとした瞬間。
不意に頭上のシャンデリアに炎が灯った。
「え……?」
ぽっ。ぽぽぽぽぽっ。
息を呑んでシャンデリアを見上げたレニシャとスレイルの頭上で、シャンデリアに立てられた蝋燭に、炎が次々と灯ってゆく。
「な……っ!?」
スレイルも目にしている光景が信じられないのだろう。
暗いと思った玄関ホールは、いまや真昼のように明るい。と。
ぽぽぽぽぽっ。
今度は階段の手すりに炎が灯る。顔が映りそうなほど丁寧に磨き上げられた手すりには、蝋燭など立っていないというのに。
空中にゆらゆらと揺らめきながら、小さな炎が下から上へと手すりの上に灯ってゆく。
無意識に炎の行方を視線で追って。
「っ!?」
いつの間にやら階段の上に端然と立っていた青年に、レニシャは息を呑んだ。
黒とも見まごう深い紅の衣装に身を包んだ長身は、まるで彫像のように姿勢がよい。背中の中ほどまである波打つ豊かな髪はあざやかな真紅で、まるで炎が
北方では珍しい浅黒い肌。彫りの深い顔立ちは、野性味にあふれながらも思わず見惚れるほど端正で。
瞬きも忘れて見上げていると、青年がわずかに目を細めた。
人ではありえない――
「ようこそ、辺境領ラルスレードへ」
深みのある声が、形良い唇から紡がれる。
「俺が魔霊伯爵のヴェルフレムだ」
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