5 私、お願いがあるんですっ!


「……おい」


「ふぇ……?」

 頭上から聞こえてきた不機嫌そうな声に、レニシャは寝ぼけた声を上げた。


 こんな深みのある美声、誰の声だろう。一度聴いたら忘れられないだろうに。


「なぜソファで寝ている?」


 その言葉に、ここがどこなのかを思い出す。跳ね起きようとした拍子に、がんっ、とソファの肘置ひじおきに足をぶつけた。


「いた……っ」


 痛みに身体だけでなく頭も目覚める。おすおずと目を開けると、ヴェルフレムが、不機嫌な顔でレニシャを見下ろしていた。


「なぜ寝台で寝ていないと聞いている」


 詰問に、マントにくるまったままソファに身を起こして首をかしげる。


「その……。私が寝台を奪ってしまったら、ヴェルフレム様が寝る場所がなくなってしまうかと思いまして……」


 告げると、呆れたように鼻を鳴らされた。


「俺を誰だと思っている?」


「え……?」

 炎の化身のような美貌をきょとんを見上げる。


「ヴェルフレム様は『聖婚』のお相手で、魔霊伯爵様で……」


「そうだ。魔霊伯爵だ」

 レニシャの言葉を途中で遮り、ヴェルフレムが頷く。


「俺は人ではない。ゆえに睡眠は不要だ。ジェキンスが毎日寝台を整えてはいるが、使ったことなど、ろくにない。が……」


 はぁっ、とヴェルフレムが嘆息する。


「お前が変な遠慮をせぬよう、先に伝えておくべきだったな」


「す、すみません……。せっかくのお気遣いを無駄にしてしまいまして……。あっ、でも、このソファもふかふかで、とても寝心地がよかったです!」


身丈みたけに足りなかったのにか?」


 ヴェルフレムがからかうように唇を吊り上げる。足をぶつけたところを見られたのを思い出して、かぁっと頬が火照ほてるのを感じる。


「あ、足を曲げれば大丈夫でしたから……」


 恥ずかしさに視線を伏せながら答えたところで、私室の扉がノックされた。


「ヴェルフレム様。レニシャ様の朝食をお持ちいたしました。それと、モリーを連れて来ております」


「ああ、入れ」


 ヴェルフレムの許可に、執事服姿のジェキンスと、三十歳半ばほどのお仕着せを来た恰幅の良い侍女が部屋へ入ってくる。


 ジェキンスが手に持つ銀の盆に乗っているのは、ほわほわと湯気が立つ朝食だ。柔らかそうなパンにスーブ。オムレツもある。


 見た瞬間、思わずくぅ~っとお腹が鳴った。恥ずかしさにあわてておなかを押さえると、ヴェルフレムがふはっと吹き出す。


「お前付きの侍女のモリーだ。着替えを手伝ってもらって朝食を食え。食欲旺盛なようで何よりだ」


「ええぇっ!? だ、大丈夫ですっ! ひとりでできますっ!」


 くつくつと笑いながら告げられた言葉に、とんでもない! と、ぶんぶんと首を横に振る。


「侍女なんて、私なんかにつけていただく必要はまったくありませんっ!」


 そもそも、侍女なんて何をどう接したらいいのかわからない。


「夕べ、俺に着替えを手伝わせておいてか?」

 からかい混じりに告げられ、かぁっと顔が熱くなる。


「あ、あれは、装飾品がどうしてもひとりじゃ取れなくて……っ!」


 目をむいて固まるジェキンスとモリーに、ぶんぶんと手を振り回して弁明する。ひとりで着替えもできないなんて、呆れられているに違いない。


「なら、やはり侍女はいるだろう? ああ……。だが、ドレスを運び込まねばならんな」


「ドレス!? いえっ、ドレスなんて結構ですから……っ! 神殿からちゃんと着替えを持ってきていますし……っ!」


 かぶりを振って遠慮するが、ヴェルフレムは聞いてもいない。


「ジェキンス。隣室をこいつの部屋にする。荷物を移動させておけ」


 ヴェルフレムが顎をしゃくって示したのは、夕べ、ヴェルフレムが出て行った内扉とは逆側の内扉だ。


「……よろしいのですか?」


 気遣わしげな表情を見せたジェキンスに、ヴェルフレムが唇を吊り上げる。


「夕べ、魔霊伯爵が隣にいると知って、ふつうに寝た図太い奴だぞ? ……隣室のほうが、余計な詮索せんさくを受けずに済むだろう?」


「かしこまりました。では、そのようにいたします」

 ジェキンスが恭しく一礼する。


「あの……っ!?」


 自分を抜きにして、どんどん話が進められている気がする。いや、夕べヴェルフレムが不愉快そうに告げていた通り、『聖婚』の盟約があるとはいえ、押しかけて来たようなものだから、部屋を用意してもらえるだけでありがたいと感謝するべきだろうが。


「……で」


 ジェキンスに指示を出したヴェルフレムがレニシャを見下ろす。金の瞳に見つめられるだけで、無意識に身体が緊張してしまう。


「お前の望みは何だ? 『聖婚』の聖女として来たからには、今後、何十年とラルスレード領で飼い殺しにされるんだ。俺の力で叶えられることならば、お前の望む通りに過ごさせてやる」


「え…………?」


 信じられぬ言葉に、呆然とかすれた声を洩らす。


「の、望みを言ってもいいんですか……?」


 そんなこと、いままで一度も言われたことがなかった。


 聖女の力があるとわかって、家族から引き離された時も、『聖婚』の聖女として選ばれた時も。レニシャの意志なんて、誰も確認などしてくれなかった。


 いや、『聖婚』については、結果的にレニシャの希望が叶ったので、選ばれたことに感謝しているほどなのだが。


 呆気あっけに取られて人外の美貌を見上げていると、ヴェルフレムが鼻を鳴らした。


「当たり前だろう? 歴代の聖女達もそうしてきた」


 告げたヴェルフレムの面輪が、ほんの一瞬、苦く歪む。だが、それは一瞬で消え去り。


「言え。お前の望みは何だ? ドレスか宝石か? それとも美食の数々か? 無聊ぶりょうを慰めたいというのなら、旅芸人を呼んで――」


「で、でしたらっ!」


 ぎゅっと胸の前で両手を握りしめ、レニシャは思わず一歩踏み出す。


「何でも言っていいとおっしゃるのでしたら、私、お願いがあるんですっ!」


 期待を込めて見上げると、す、と金の瞳が細まった。


「ああ、何でも言ってみろ」


 挑発するような声音に、レニシャはずっと胸の内にしまっていた望みを打ち明ける。


「こちらのお屋敷には、百年前の聖女様が造ったという立派な温室があると聞きましたっ! そこで珍しい薬草や植物を育てていると……っ! そこで働かせてもらえませんかっ!? 私、畑仕事がしたいんですっ!」


「…………は?」


 告げた瞬間、ヴェルフレムが金の瞳を見開いて固まった。


   ◇   ◇   ◇


「温室は、あるにはあるが……」


 ヴェルフレムが苦い声で呟く。


 屋敷の広い裏庭の片隅。

 神殿でも使っていた作業用の簡素な服に着替え、しっかりと朝食を食べたレニシャは、ヴェルフレムとジェキンスに、温室に連れて来てもらっていた。


「うわぁ……」


 感嘆とも驚きともつかぬ声が口からこぼれる。


 民家が三軒は入りそうな巨大な温室。硝子がらす張りなので、外からでも中の様子がよく見える。そこは。


「……ここ十年ほど、誰も手入れしていなかったからな……」


 ヴェルフレムが嘆息混じりに呟いた通り、さまざま植物がこれでもか、と繁茂していた。


「前の庭師が高齢で退職して代替わりして以来、こちらまでは手が回っておりませんでしたからね……」


 ジェキンスもまた、はぁっと溜息をつく。


 昨夜、屋敷へ来る際に馬車の窓から見た前庭は、暗がりの中でもわかるほど美しく手入れされていたが、裏庭のほうはあまり人手が入っていないらしい。温室に限らず、周りも雑草が生い茂っている。


「これでは、入れても奥に進むこともままならないだろう。何日か待て。庭師に手入れさせてからまた――」


「何をおっしゃるんですかっ!?」


 ヴェルフレムの言葉を遮り、ぶんぶんと首を横に振る。


「庭師さんの手をわずらわせるなんて、とんでもないっ! 私が手入れしますっ! お願いですからさせてくださいっ!」


 がばりと頭を下げて頼み込むと、信じられぬと言いたげな声が降ってきた。


「……本気か?」


「え……?」

 顔を上げ、きょとんと金の瞳を見つめ返す。


「ラルスレード領へ来て、やりたいことが荒れ果てた温室の手入れだとは……。信じられん」


「そ、それは……っ」


 真意を見抜こうとするかのようにすがめられた金の瞳に、あわあわと説明する。


「聖都にいる時に、ラルスレード領は北方なのに農業が盛んだと聞いて、すごく気になっていたんですっ! それに、いろいろな薬草が生える温室があるとも本で読んで……っ! わ、私の実家は農家ですから……っ。神殿だと花壇かだんの世話くらいしかできなかったんです! ですから、才能のない聖女の務めより、農作業のほうが向いてますし、土いじりがしたくて仕方がなくて……っ! ラルスレード領へ来れば、夢が叶うと思っていたんですけれど……っ!」


 ジェキンスが用意してくれたくわの柄を、すがるように握りしめる。他にも足元には鎌やら熊手やらも準備してもらっていた。


「その……っ。こんなお願いごとは、わがまますぎますか……?」


 おずおずと問いかけると、ヴェルフレムが呆気あっけにとられたように金の目を瞬いた。


「……そんなわけがないだろう。お前の望む通りにしてよいと言ったのは俺だ」


 不機嫌そうに告げたヴェルフレムが、くるりときびすを返す。


「ジェキンス。他にも入り用の物があれば、望む通りにしてやれ。俺は執務に戻る」


「かしこまりました」


「あの……っ! ありがとうございますっ!」

 歩き去る広い背中に、レニシャは深々と頭を下げた。


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