第4話 アバターウェア・ゴーストデザイナー

「カイル君、君のアバターウェアにはもう魅力がないんだよ」

「先週と話が違うじゃないか!」


 紅茶を楽しむカフェの雰囲気を台無しにする轟音に客が一斉に視線を向けて不快感を表明した。俺は周りに頭を下げて、倒した椅子を戻して座り直した。


「君のアバターウェアの売り上げは落ちている。君との契約はもう打ち切りだ」

「三年も一緒にやって来たのに、あまりにも薄情じゃないですか、クレハさん」


 アバターウェア――メタバース内のアバターに着せる服のファッションは目まぐるしく変化する。一時バズっても一年すら続かないこともザラな残酷な業界で、その最大手DEP-eデップ社所属のプランナーのクレハとは三年も一緒に駆け抜けてきた相棒と呼べる仲だと思っていた。

 だが、それは俺だけの一方的な想いだったらしい。

 電話一本で急に俺を馴染みのカフェに呼び出したかと思えば、低下する週間売り上げの棒グラフを見せて、いそいそと帰る準備をしていやがる。初めて顔を合わせた時の金の卵を見つけたかのような目の輝きは何処へ行ったのかと内心悪態をつく。

 クレハのくたびれたスーツの左袖に手を伸ばした。


「なぁ、契約打ち切りの件、もう一度考え直してくれないか?」

「すまんね、カイル君。これも上からの指示だ。文句があるなら上に伝えてくれ」

「なら、上の連絡先を教えろよ。随分と他人行儀だな」

「それに……」


 クレハは俺の手を容赦なく振り解くと、大きく咳を払った。


「君の代わりはいくらでもいる。デザインしたアバターウェアをSNSに毎日披露する連中を見たことがないとは言わせないよ」

「そうやって、フォロワー数が多い奴を使い回すつもりか?」

「使い回すだなんて……まるで売れなくなったらポイ捨てするみたいな発言は止めてくれよ。私は契約遵守を重んじる大手企業の社員だよ」


 杓子定規な回答ばかり押し付けるクレハに、俺は「そうかよ」と吐き捨てる。

 請求書をクレハに押し付けてカフェを飛び出した。

「ちょっと会計は……」と戸惑うクレハの声を無視して、ダイバーシティの外側へ一人歩き出す。

 俺の心の内と真逆の天気に舌打ちしていると、町の景観が徐々に淀み始める。恥ずかし気なくよだれを垂らす浮浪者の視線に気づき、もうダイ―シティに着いたのかとため息をついた。

 この瞬間もアバターウェアの潮流は変わり続けている。


「他の会社に早く営業をかけないと」


 小走りで無法地帯の路地裏を通り抜けると、薄汚れたバーに辿り着いた。

 その扉に付いた小さなベルが激しく鳴り響く。

 昼前のバーは営業していないが、二階部分がアパートになっている。

 俺の部屋に帰るためにはバーの中にある階段をわざわざ登らなければならない。夜中になると、溢れかえった客を縫うように通る必要があるし、階下から響く喧騒で睡眠に耳栓は欠かせない。

 引っ越したいが、俺には引っ越せない訳がある。


「お帰り、カイルちゃん。景気悪そうね」


 当然、筋肉隆々なバーの店主であるアネゴと顔を合わせなければならない。

 カウンターで爪の手入れに勤しむアネゴに、「気のせいっすよ」と空元気を見せる。階段を登り軋む床を通り抜けた一番奥の部屋にカードキーを差し込むと、一人の幼女が俺を出迎えた。


「どーだった、カイルちゃん」


 間延びした幼女の言葉が狭い室内に響く。薄紫の髪を束ねたオッドアイと言った奇抜な格好の幼女の名はリーリエと言う。一階にいる場末のスナックのババア、もとい、アネゴに大層気に入られているが、彼女のような年の取り方はしてほしくないものだとつくづく心配してしまう。


「何もなかったよ」


 平然と嘘をつく――そんな自分が嫌になる。


「新しいウェアのデザインを作ったぞー、見てくれよー」

「ほぅ、どれどれ……」


 部屋の奥の買い替えたばかりのパソコンのモニターにはこれまでにない斬新なアバターウェアが映し出されていた。それが担当プランナーに見捨てられたなんて純真に瞳を輝かせるこの子の前で言えるはずがない。


「いい出来じゃないか、リーリエ。今度、プランナーに見せてみるよ」


 にへらと笑う彼女にまたもや嘘をつく。

 頼むからそんな笑顔を向けないでくれ――彼女に懇願できたらどれほど気が楽になるかと何度も後悔してきたが、俺は自分の心に眠る自己承認欲求と言う名の悪魔に打ち勝ったことはない。

 彼女は無法地帯のダイ―シティで一人彷徨っていた捨て子だった。可哀そうに思って彼女を拾った俺は、彼女にアバターウェアの制作を一任している。


 リーリエは俺のゴーストデザイナーだ。


 俺は無垢な彼女の才能を利用してきた悪者だ。

 その悪者にとうとう天罰が下った。めでたし、めでたし。

 ――だが、皆が求めるハッピーエンドで終わらせるわけにはいかない。





「最近、元気ないわよ。カイルちゃん」

「アネゴ、水を一杯いただけますか?」

「はい、水ね」と角氷を注いで並々と入った水が俺の前に差し出される。


 一杯煽って、ため息をつく。

 辺りもすっかり暗くなったにも関わらず、今夜のバーはどこか寂し気だ。ジパング風の着物姿の女とシスターがカウンターで静かに酒を飲んで語り合う姿しかない。


「今日は珍しいですね」

「何よ?廃れてると言いたいわけ?その水で金取るわよ」

「違いますよ。ただ、アネゴに相談するならちょうどいい日だなと思ってね」

「新しいアバターウェアの会社は見つかったの?」


 いきなり核心に迫るアネゴを俺は思わず二度見した。「どうしてそれを……」と思わずこぼしてしまった俺に、アネゴは「そりゃ、もちろん」と優しげな声をかけて言葉を続けた。


「ここ一週間、ずっと朝帰りじゃない。リーリエちゃんを寝かしつけるアタシの身にもなってよ」

「迷惑かけてすいません」

「元はと言えば、リーリエちゃんの面倒を見るようにカイルちゃんに押し付けたのはアタシだし、それは別に構わないけどね。ところで、食べていけそう?」


 心配するアネゴに俺は首を横に振ってカウンターに突っ伏した。

 二十社回ったが、全て門前払い――何度も出したため息が顔前にこもる。

 角氷が弾ける音が聞こえる。顔を上げると、澄み切った水が新しく注がれていた。

 一気に呷ると口内にアルコールの香りと塩辛さが広がった。えずきそうになるのを堪えて、アネゴにおかわりを要求すると、濡れタオルを出してくれた。アネゴが出してくれた濡れタオルで顔を拭くと、鼻水がこびりついた。


「汚した分は請求しとくわよ」


 金にうるさいアネゴのハイボールに少しだけ口をつけ、ぼんやりと考え込む。

 ――こうして管を巻いている間にも時代は常に動き続けている。

 居ても経ってもいられないが、今の時間では会社はどこも開いていない。爪を噛んで静観するしかない俺にアネゴが提案を持ちかけた。


「カイルちゃん、リーリエちゃんを売るというのはどうかしら?」

「何を言ってるんですか!見損ないましたよ、アネゴ!」


 立ち上がって背中から倒れてしまった俺をアネゴは笑いながら見下ろしていた。側にいた二人の客も目を丸くして俺の方を見ていたが、すぐに二人きりの会話に戻った。


「勘違いも良い所よ、カイルちゃん」

「どういうことですか?アネゴ」


 ひっくり返した椅子を戻して座り直した俺にアネゴは、あるSNSのサイトを見せた。IT業界に疎い人でも知る大手のSNSサイトだ。


「動画配信できるSNSですか?それがどうしたんです?」

「リーリエちゃんにやらせればいいのよ、デザインしたウェアを着てもらって配信する。そしたら、彼女もウェアも人気が出るかもよ」

「だけど、そうしたら!」


 視界に流れ星が飛んだ。

 かと思うと、すぐにシミだらけのバーの天井が視界一面に広がった。

 何が起きたかすぐには分からなかったが、頬に響く痛みで何をされたか理解した。


 ――アネゴのビンタは強烈だった。


「もう何も言わなくてもアンタは理解しているでしょ?」


 天使のように俺に微笑むアネゴ。


 ――リーリエの才能に限界が来たとは決して思わない。

 ――彼女の作品を売り込めないセールス能力のない俺が全ての原因だ。


「そうですね……」


 俺にはそう呟く以外の選択肢がなかった。

 涙と鼻水でしわくちゃになった俺の前に濡れタオルが差し出された。





「はい、お届け物」

「いつもありがとうございます、ミランダさん」


 着物姿の女性から手渡された袋の中にはリーリエがデザインしたウェアが几帳面に畳まれていた。その色合いはどれも繊細で大胆と言う彼女らしい不思議なものだ。

「裁縫屋の本職だから良いけど……」とボヤく着物姿の女性はミランダと言うらしい。ミステリアスな着物美人だが、迂闊に近寄るなと俺の心のアンテナがなぜか警告してくる。

 まつ毛のケアに余念のないアネゴを見たミランダはどこか恨めし気に呟いた。


「それより、アネゴ。これでツケをチャラにしてくれるんでしょうね?」

「女は嘘つかないわよ」


 手鏡とにらめっこするアネゴに呆れ返ったミランダは、「リーリエちゃんによろしくね」と言ってバーを後にした。俺はその袋を持って自室に戻り、リーリエに出来立てのウェアを渡した。


「うわぁー!どれもピカピカできれー!今日はどれを着ようかなー?」


 自分がデザインした服が仮想空間ではなく、現実の物として目の前にある。

 世界で自分一人だけがその服を現実のものとして着ることができると言う優越感をまだ幼いリーリエが味わって良いのか判断に迷う時がある。

 だが、彼女の雑談配信は想像以上の人気を誇り、フォロワー数もとっくの昔に十万人を超えた。その苦労や努力のご褒美として与える物なら釣り合いが取れているはずだと俺は自分に言い聞かせる。

 SNSに颯爽と現れた幼女は立ちどころに話題になり、彼女がデザインしたアバターウェアも徐々に売れるようになった。

 だが、俺は知っている。

 見捨てられる時は一瞬だと言うことをこの身体がよく理解している。

 リーリエのマネージャーとなった俺は彼女に届くダイレクトメッセージの整理や配信の告知など配信以外の身の回りの世話に勤しんでいる。

 現状リーリエの才能に養われているヒモ男だが、俺にそんなプライドはない。

 才能が全てのダイバーシティに見捨てられた者には愚痴をこぼす時間すら与えられない。今日を生き残るために食えない物はさっさと捨てるのが吉だ。


「リーリエ、少し打ち合わせに出て来る。好きに遊んでて良いぞ」

「うん、わかったー」


 だが、プライドがない俺にも赦せないことがある。

 バーを出た瞬間に吹きすさぶ風に身体を震わせながら、俺は打ち合わせの場所へ向かった。





「おかしいね、君が出て来るとは」

「リーリエのマネージャーのカイルです。よろしくお願いいたします」


 淡々と告げて名刺を差し出す俺に相手は慌てて名刺を取り出して手渡した。


Dep-eデップ社のクレハと申します。本日はよろしくお願いいたします」

「早速、御社とのコラボの件についてですが……」

「ちょっと待ってくれ!」


 クレハの怒声に馴染みの紅茶カフェの給仕の女が肩をピクリと震わせた。

「ああ、すまないね」とクレハが謝罪すると、給仕は紅茶を置いてそそくさと厨房に戻った。彼女の背中を見届けたクレハは咳を払って、俺に疑問を投げかけた。


「君がリーリエのマネージャーをしていたとは驚いたよ。君との関係性は?」

「ただのマネージャーと配信者です」

「そうじゃなくて……」


 どもる相棒に懐かしみながら首を傾げた。

 三年間ですっかり変わり果ててしまったが、クレハには言いにくいことがあるとどもる癖があった。二人でアバター業界の天下を取ろうと語り合う初々しい日々が脳裏をよぎったが、今は企業と個人事業主とのビジネスライクな関係に過ぎない。


「今回のコラボの件に私共のプライベートの話はあまり関係ないと思うのですが?」

「教えてくれないか?」


 釘を刺したにもかかわらずしつこく聞いて来る。

 仕方がなく、「ただの近所づきあいです」と誤魔化すと、クレハは安堵の笑みを浮かべた。少なくともロリコンとは思われていないようだ。

 仕事の話へ戻そう――いや、俺の聞きたいことを聞いてやろう。


「今回のコラボの話ですが、業界最大手のDep-eデップ社のプランナーであるクレハさんは彼女のデザインをどう思われますか?」

「よそよそしいなぁ。あの時のことは悪かった、謝るよ!」


 どこかまだ俺のことを小莫迦にしているらしい。大手企業勤めの社員様は心にゆとりがあるなと内心ほくそ笑む。


「強いて言うなら、常に新しい発見をもたらしてくれる奇抜さかな。彼女の年相応らしい柔軟さの中に計算尽くされたポイントが所々垣間見えるんだ。その絶妙なアンバランス加減が素晴らしいと感じたよ」

「常に新しい発見?リーリエのデザインは?」


 意地悪にほほ笑んで見せた。

 唇を薄めて見つめて来る俺に、「ああ、そうだが」と何も知らないクレハが間抜けな返事を返す。


「実はあなたは見たことがあるんですよ」


 呆気に取られて口を開けた間抜け面のクレハに真実を突きつける。


「俺がお前に見せていたデザイン。あれ、全部リーリエの作品だぞ」

「は?」

「彼女は知らないが、俺の代わりにデザインをしてもらっていた。俺のアバターウェアのゴーストデザイナーだよ」

「いつからの話だ?」

「一年前からだ」


 すっかり冷め切った紅茶を互いにすする。少し視線を落とすと、カップを掴むクレハの手がバイブレーション機能のように小刻みに震えていた。


「俺の……じゃなくて、リーリエのアバターウェアに魅力がないって言ったよな?」


 俺が今から何を言おうとしているかようやく理解したクレハはカップを受け皿に置いた。カチャンと動揺する音が響き、客から非難の目がクレハに向けられる。その視線に気づく様子もなく、クレハはかすれた息を漏らしながら言い返した。


「それは……卑怯だろ!カイル!君にゴーストデザイナーがいるなんて知らなかった!」

「彼女はまだ幼い孤児だ。リーリエが単身で売り込んでも、不当な契約を無効にできる年齢であることも教えずに汚い大人達に丸め込まれるのが関の山だ」

「リーリエを守るためとでも言い逃れするつもりか?」

「言い逃れはしない。だがな……」


 紅茶を一気に飲み干し、クレハに詰め寄る。

 のけぞるクレハを逃さぬよう俺はその左袖を握りしめた。


「お前は一年間見続けた作品を作者の名前を変えただけで見抜けなかった。業界最大手のプランナーの観察眼は節穴じゃないと信じていたが、今起きていることは一体どういうことだ?」


 右手を伸ばしてクレハのネクタイを掴んで引き寄せる。恐怖に満ちた瞳を俺に向け、焦燥に満ちた鼻息が俺の前髪を撫でた。


「お前が見るポイントは一体何だ?デザインか?作者か?確実な売り上げが見込めるフォロワー数か?」


 両手で掴んでいたクレハの身体を手放すと、糸の切れた操り人形のようにその場で項垂れた。俺は事務所となっているバーの住所が書かれた名刺をテーブルに置いた。


「その答えが出るまで、コラボの話はお預けだ」


 ブツブツと何かを呟いているようだが、俺には何も聞こえない。一人呆然とするクレハに請求書を押し付け、俺は元相棒と夢を語った馴染みのカフェを立ち去った。





「それで大手との契約を蹴ってきたの?カイルちゃんも莫迦ねぇ」

「やっぱり俺もプライドは捨てられなかったんですよ」

「そもそもアンタの作品じゃないでしょうに」


 営業前のバーのカウンターに腰かけた俺にアネゴが呆れ口調のまま水を注いだ。

 確かに俺の作品ではないが、リーリエの作品だ。ちょっと容姿が良くて人気者だからと言う理由で近づくのは構わないが、大切なのはデザインだ。

 デザインが良いから物が売れるのだ。

 リーリエだっていずれは年を取り、目の前のババアみたいになる。その時になって態度を豹変させて手の平を返す連中とは友達付き合いとしてもご遠慮願いたい。

 俺の思考が読まれたのか、アネゴからギロリと睨まれる。

 蛇に睨まれた蛙を端的に表した危機的状況を入り口のベルの音が救った。


「あら?いらっしゃい?店の時間はまだなんですけど」

「おい!カイル!」


 数時間前に聞いた声に振り返る。

 肩で息をしながら佇むクレハの姿に俺はため息をついた。


「答えが出たのか?」

「ああ」


 アネゴが気を聞かせてクレハの前に椅子と水を持って行った。アネゴに会釈して水を一気に飲み干したクレハは答えを告げた。


「全部だ!」


「は?」と間の抜けた息が俺の口から漏れた。俺を無視してクレハは言葉を続ける。


「デザインも作者の容姿も顧客数が計算できるフォロワー数も全部大事だ!」

「クレハ、正気か?」

「結婚だってそうじゃねえか!顔、スタイル、年齢、財産、勤め先、学歴、役職、出身地、趣味、家柄、優しさ、丁寧さ、清潔感、安心感、ファッションセンス、トーク力……好きの一言で結婚相手を選べないだろ!それと同じだ!」


 クレハの思いもよらぬ開き直りに俺は思わず声を詰まらせる。静まり返るバーの中、最初に笑い声を上げたのはアネゴだった。


「アンタの負けだね、カイルちゃん」

「勝ち負けなんて……そもそもビジネスをしただけで、勝負はしてませんよ」

「でも何も言い返せなくて悔しいのは事実でしょ?ビジネスならコラボするの一択に決まってるじゃない」


 アネゴにも言われて更に声を詰まらせる。

 黙り込んでしまった俺を元相棒が睨んでくるが、反論の言葉が出てこない。


「うー、寝てたのにうるせーですよー」


 俺の危機を察したかのように二階からリーリエの声がした。リーリエがゆっくりと目をこすりながら降りて来る。


「リーリエ!」


 クレハがリーリエに抱き着いた。


「だれーこの人ー?」


 呑気に喋るリーリエは泣きじゃくるクレハの頭をゆっくりと撫でた。

 誰一人として状況を飲み込めない中、俺は酒の席で夢を語り合った日々を掘り返していた。そして、ようやく一つの真実にたどり着いた。


「お前、バツイチだったよな。仕事人間のお前と折が合わなくなったって」


 二年前、いつも以上にクレハが荒れていた日があった。管を巻きながら出て行った女房のことを涙ながらに語っていたクレハを懸命に慰め続けた苦い思い出の一日だ。


「じゃあ、お前がコラボしようと言ったのって……」

「カイル、俺はプランナーじゃない。仕事しか能のないただの親父だよ」


 リーリエの丸みを帯びた肩をさすってクレハはリーリエを手放すと、一人肩を震わせていた。その背中はあまりにも小さく、一人の弱い人間の姿だった。

 俺はカウンターに座り直して、アネゴを呼びつけた。


「アネゴ。俺が取っておいたボトルを今開けてくれる?」

「まだ昼よ。酒を飲むには早いんじゃない?」


「良いんだ」とシミだらけの天井に向かって長い息を吐いた。


「今日は再結成の記念日だ。クレハにも注いでやってくれ。リーリエにはホットミルクを」


 俺の言葉にアネゴは棚に寝かしていたボトルを開けた。

 その日、祝杯を上げるグラスの音が止むことはなかった。

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