第3話 定年を過ぎた男の忘れたい記憶

「記憶を消して欲しい」


 紅葉をあしらった着物姿のポニーテールの女に告げる。


「ご来店は初めてですね。こちらのアンケートに答えていただけますか?」


 タブレットを渡され、アンケートと名ばかりの問診票に記入していく。

 たらい回しにされて五件目。すっかり慣れたものだと苦笑がこぼれた。


 名前はジェラード・トロイ。年齢は九十二歳。育毛剤のお陰で三十才近く若く見られることが多い。二年前まで勤めていたアークテック社の下請け会社時代の稼ぎと、HーUberヒューバー社の短期バイトで今は辛うじて生活している。手術経歴は背骨を五本インプラントしている。恥骨から数えて二、四、六、九、十一本目の背骨にシリコンとチタンの合金製人工骨を敷き詰めている。


 最後の自由記述欄に『親愛なるミランダへ』と書き込んで受付に提出した。受付の女が問診票を持って奥に姿を消す。

 政府が監視していないダークウェブに書かれた情報通りだ。

 政府が管理する都市、ダイバーシティの外に広がる無法地帯のダイーシティにある裁縫屋。衣服の綻びを修繕すると言う看板も、ジパングテイストの装いも、あの店員も表向きの顔に過ぎない。


「ジェラードさん、診察室にお入りください」


 まるで病院のようなアナウンスが裁縫屋に響くのが何よりの証だ。確証を得た私は診察室へ続く扉を開けた。

 先程見た店員の女が丸いすに座っていた。前髪を髪止めクリップで上げ、初対面では見せなかった鋭い眼光に私の胃が静かに悲鳴をあげた。


「裁縫屋へようこそ、本日はどのようなご用件でしょうか?」

「私の記憶を消して欲しい」


 丸いすに腰かけながら、裁縫屋を騙る闇医者の女を見やった。

 他の医者と同じキョトンとした女は得心した表情に変わったが、他の医者と同じ解釈をしているのだろう。


「政府が埋め込んだ管理タグの摘出手術ですね。お代は仮想通貨で六十万になりますが……」

「違う!」


 診療台しかない小部屋に響く怒鳴り声に女が身構えた。「どういうことでしょう?」と咳を払いながら平静を装う女に、私は半ば諦めの気持ちで依頼をぶつけた。


「私の脳みそにある記憶を全部消して欲しいんだ」


 こめかみに指を突きつける私に、女は口元を押さえて考え始めた。うんうんと唸る女に私は「できるんですか?」と身を乗り出して尋ねていた。


「知り合いに脳科学専門の外科医がいます」

「すぐに紹介してくれ」


 またたらい回しにされるのかと内心愚痴ったが、藁をもすがる思いだった。

 だが、女は首を横に振る。脅してでも居所を吐かせたい気持ちを必死に抑える。


「その人に紹介できるかどうかを私が問診します。彼は気難しい人で、問診や施術前の説明を飛ばしたがるんです」


 突拍子もない闇医者の存在を信じられなかった。

 彼女の顔が、失敗や嘘を上司に隠したがる部下と同じ顔だったからだ。扱い慣れた部下と同じ類いの輩と確信し、女の問診に応じることにした。


「まず一つ目ですが、どんな記憶を忘れたいのですか?」

「この九十年近くの人生の全ての記憶を消したい」

「それはできません」


 ピシャリと否定する女を鼻で嘲笑う。その後に続く言葉は心療内科で何度も聞いた説法だった。


「脳には元々忘却する機能があります。管理タグには生まれてから死ぬまでの記憶が記録されますが、人の脳にそこまでの容量はありません。次々と忘れて、新しい情報を詰め込めるように脳はできています」

「それは知ってる。君のところでもう病院は五件目なんだから」


 できる限りの皮肉を込めたが、女は何事でもないようにカルテをめくった。二枚同時にめくる間違いをするほど内心緊張しているくせに、平静を装う女に苛立ちだけが募る。


「今は、HーUberヒューバー社のバイトをされているのですか?」

「高級料亭の食事を食べて月五万のくだらない仕事だ。この前はジパング料理の豪華な料亭だったよ、きっと君の舌に合うだろう」

「くだらないだなんて、職業に貴賤なしです。人と人を繋ぐ大切なお仕事じゃないですか」


 自分よりも半世紀以上も若い女に説教され、舌打ちが出てしまった。だが、女の言い分はただの皮肉だ。


「今はメタバース、仮想空間の時代です。あなたもご存じでしょう?」


 HーUberヒューバー社、通称、人間ウーバーは膝を付き合わせて話をしたい人向けにサービスを提供している。身体は私だが、お面のように着けたモニターにお客様が映り、モニター越しからお客様が会話するシステムだ。イヤホンから流れるショパンの曲でお客様の会話は聞こえず、時々入るお客様の指示に従って身体を動かすだけ。私から見れば、生産性のない単純労働だ。


「アバターの成りすまし詐欺や情報漏洩も多いですから、メタバースはあまり使いません。やっぱり、対面が一番です」


 ああ言えば、こう言う。

 嫌な女だと言う愚痴をグッと堪える。


「だが、モニターマスクを付けて密室の料亭で打ち合わせなんて、きっと悪どい使い方をしているに決まってる」

「身体の不自由な方に代わって役所に申請するような使い方もされてます。決して悪いことばかりじゃありません」


 穿った見方をするなと暗に私に伝えたいのだろうか。何でもポジティブに物事を捉えていては、蹴り落とし合う実力主義が蔓延るダイバーシティで、ジパングに伝わる定年まで働くことすらままならない。

 小馬鹿にされているとは知らずに、女はカルテにメモを取りながら次の質問を投げかけた。


「次に、記憶を消したとして、あなたは何をしたいのですか?」

「今までやってこなかったような新しいことをやってみたい」

「はぁ……」と女は一つため息をついた。


 言動の一つ一つが馬鹿にされているようで実に不愉快だ。

 女も私の不快感に気づいたのか、表情を改めて「ジェラードさん」と声を張り上げたが、すでに手遅れだ。お客様の機嫌を一度損ねると、信頼を再構築する難しさは誰よりも心得ている。


「記憶を消すとは、今までやってきたことを忘れてしまうと言うことですよ」

「何をしたいかはここにメモしてある。あなたに心配される筋合いはない」


 胸ポケットから取り出したSDカードを女は興味深そうに見つめていた。探求心が詰まった彼女の瞳は近頃の若者にはない輝きを放ち、その光は心の内に眠る黒いもやを照らすかのようで胃痛が走る。


「例えば、新しい会社を立ち上げたい」

「前職で、アークテック社の下請け会社にお勤めの頃にそのような経験はなかったのですか?」

「所詮、私は一つの部署の部長止まりだよ。上からの無茶な命令に対応するだけで精一杯だったよ。そう……精一杯だったんだ」

「ジェラードさん?」


 下請けの宿命で、常に納期に追われる日々だった。

 部下を動かし、上司に頭を下げてを繰り返す毎日。説得もむなしく日に日に辞めていく若手社員、代わりに補充しようとキャリア採用の面接に出て空振りに終わり、訳の分からぬ人事研修や何の目的もない会議に振り回されて、ノー残業デーには勤怠時刻を偽って仕事の遅れを取り戻す日々。


「ジェラードさん、どうかされましたか?」


 成績が日に日に落ちていく中、会社は私に解雇を言い渡した。老いていく背骨をインプラントで誤魔化しながら必死に働いてきた九十歳の私を、会社はあっさりと切り捨てた。

 そして、代わりをあてがった。


 あれは気の強そうな女だった。

 確か、名前は……


 私の目の前に白いハンカチが差し出されていた。


「涙を拭いてください」


 涙を流していたのかと自覚する。女からハンカチを受け取り、目元から止めどなく流れていた涙を拭った。無言でハンカチを差し出す私に女はかがんで身を乗り出す。


 油断しきった女に飛びかかった。


 椅子がひっくり返る音と同時に、馬乗りになって女の色白の首をつかんだ。


「何を……するんですか?ジェラード……さん」

「随分とよそよそしいじゃないか!ミランダ!」


 苦しそうに声をあげる女に興奮を覚えながら、女の首をじっとりと締め上げる。

 あがき苦しむ女の着物の袖が血だまりに走る波紋のように色鮮やかに揺れた。


「君のその瞳。若く輝き、それでいて人を見下すような瞳!不思議でならなかった!君を見ているだけで、どうして胃が痛むのか、どうして君が憎いのか?」


 さらに首を締め上げる。


「どうして私は君のことを忘れていたのだろうな、ミランダ・ラザリス君!」


 かつて私を蹴落とした女の名前が診察室に響いた。

 私の腕を掴んで抵抗するミランダ。その首を絞める手に怒りのままに力を込めた。


「私が六十年かけてようやく得た地位を、君はどうしてたった二年で捨てた!なぜだ、答えろ!」

「別人です……私はミランダ・シェリー……」

「とぼけるな!そんな理由で私を騙せると思っているのか」


 両手で首に手をかけて締め上げながら、「答えろ」と詰め寄る。魚のようにパクパクと口を動かすミランダを見て手を緩めた。


「あの会社は……もう駄目でした」

「どういうことだ?」

「粉飾決済です。上層部は……私達にその罪を擦り付けようとしていました」

「そんなはずない!」

「六十年も……身を粉にして働いてきたあなたを捨てた会社を信じますか?」


 女が私を正面から見つめてくる。

 死の間際になっても正義感に燃える瞳を向けられ、私の身体は立ち上がっていた。着物の帯を閉め直し座り直す女に「すまない」と呟いていた。


「ジェラードさんが去った後、上層部が話しているのを聞いてしまったんです。このままでは私が捕まってしまうと思い、一年で辞めてしまいました。ごめんなさい」


 女は私に頭を下げると、カルテを握って居座り直した。

 裁縫屋として胸を張る女の逞しさに小さなため息が漏れた。

 殺そうとした患者と向き合うプロ意識に、ようやく負けを認めることができた。「すまない」と何度も呟くにつれて、肩の荷が下りていくようだった。


「ウェルニッケ・コルサコフ症候群をご存知ですか?」


 聞いたこともない言葉に首をかしげる私に女は説明を続けた。


「ビタミンB1の欠乏による逆行性健忘症、最近の記憶を失う記憶障害の一種です」

「最近の記憶……」


 私の呟きが小瓶を置く音と重なった。女はテーブルの小瓶を指差した。


「これはビタミンB1の構造を壊す酵素です。体内に注入すれば、ウェルニッケ・コルサコフ症候群を人為的に引き起こせます」


「待て、あなたは裁縫屋では?」と思わず尋ねた私に女は医師免許と薬剤師免許を見せた。


「免許は一応両方ありますが、私を信用できないですよね?知り合いの外科医を紹介しますね」


 女はぎこちない笑みを浮かべて、どこかに連絡をかけた。

 私と彼女の今の関係なら誰もがそうするだろう。

 だが、施術後には彼女との苦い記憶も全て消えてしまう。


 ならば―――私はあなたに施術をお願いしたい。

 





「ありがとうございます。これは依頼料です」

「振り込み確認。これ、上げるわ」


 ミランダは男に管理タグを渡した。時計型のパソコンにタグを差し込んで、そこに浮かび上がったタグの持ち主の名を見て、男は深く頷いた。


「綺麗ですな。笑っていらっしゃる」

「よろしければ、本人かどうか触って確認されますか?」

「顔だけ見れば大丈夫です。死体にはあまり触れたくない」


 男は棺の覗き窓を勢い良く閉じて、ミランダに頭を下げた。


「イヤホンが壊れてお客様の会話がバイトに漏れてしまうなんて、HーUberヒューバー社のエンジニアも地に堕ちたわね」

「勘弁してください。メタバースのせいで人材不足なんですよ」


 へこへことお辞儀する男の胸元にHーUberヒューバー社の社章が光った。呆れながらミランダは棺に手をかけてなで回した。


「彼、ジパング料亭は覚えていたけど、お客様の会話は覚えてなかったわ」

「ウチの信用に関わるんで。ほら、死人に口無しと言うでしょ」


 自分の言葉に酔いしれているのか、「もう死んでるけど」と腹を抱えて棺を何度も叩いた。しばらく嗤うと、男はミランダの首筋に残った青アザを尋ねてきた。


「彼に襲われたの」

「それまた、どうして?」


 興味津々に聞いてくる男にミランダはため息で返事した。


「解雇されたストレスが原因で、ジェラードさんは元々記憶障害を起こしてたのよ。私のことを赤の他人と間違えて襲ってくるし……鬱陶しかったわ」

「そりゃどうも、ウチのバイトが迷惑かけました」

「迷惑料はさっき貰ったから良いわよ。ビジネスはドライにいきましょ」

「おっしゃる通りです。では、失礼」


 男はネズミのように退散した。

 診察室に残されたミランダは棺を開け、冷たくなったジェラードの頬をなで回した。


「三回もあなたを騙してごめんなさいね」


 ジェラードの首の後ろに手を伸ばすと、コピーした管理タグを取り出す。


 ―――ジパング料亭での密会とは実に興味深い。


 ミランダはほくそ笑みながら棺桶を閉めると、解析屋に足を運んだ。

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