第七節 雑談秘話
過日、あるピソードがあったことに思いを巡らす。
吉田が、記憶をたどる。
「そう言えば、こんなことがあったな…」
恒例のいきがい大学川越学園三十五期生の仲間が催す、毎年十一月に開催する「おひさま同好会による作品展」を、川越市民に告知する手段として川越市役所の広報室を訪問し、広報川越の情報アラカルトへの掲載依頼を行なった時のことだ。毎年開催するので、この掲載依頼も毎回お願いしている。
「掲載依頼書・誓約書」に掲載依頼内容を記入するため、三階にある広報室へと向かうべくエレベーターホールで待っていたところ、ちょうどお弁当を配達する女性と乗り合わせることになった。エレベーターの扉が開き前後して乗る。扉が締まり動き出した時、配達員が俺の袴姿をまじまじと見て告げる。
「素敵ですね。何をなされいるのですか…?」
その姿が異質に見えたのか、遠慮がちに尋ねてきた。
さもあろうと思う。何故なら普段の格好ではない、袴と道着を着けたままで相乗りしたからだ。それも午前の弓道稽古を終え着替えもせず、そのままの格好で市役所の広報室へ向かったためである。
驚くのは無理もないし、興味が湧くのも頷ける。
その問いに、ちょっと照れ隠しをしつつ吉田が応える。
「はい、弓道をやっています。稽古を終え、その足で来たものですから。こんな格好をしていて、さぞビックリしたでしょう」と返した。
すると、弁当の入ったケースを持つ女性が尋ねる。
「弓道ですか。私は習ったことがありませんが、難しいのでは?」と投げかけられる。
「いいえ、そんなことないです。的に向け矢を放つだけですから。ただこの様に、袴や道着を着けて行わなければならないんです。ちょっと厄介ですがね」
すると「そうですか、でも古風でいいんじゃありませんか。私なんか何もしていないので、その姿に少々憧れます」羨ましそうに言われ、応じる。
「女性の方も沢山習っています。勿論、女性陣も袴姿ですがね」
「そうですか、女性の方も多いんですか…」会話はそれで終わる。
エレベーターが三階に着き、扉が開くと同時に「失礼します」と告げ、軽く会釈をして広報室へと向かった。
広報室の担当者に会い要件を告げる。その時の担当者にも、先程の女性配達員と同じように尋ねられる。
「恰好いいですね、何をやってらっしゃるのですか?」
興味深そうな様子に、掲載依頼書に必要事項を記入しつつ応える。
「はい、弓道を少々…」
「そうですか、自分はバスケットを学生時代にやっていましたが、今はご無沙汰です。何か身体を動かすスポーツをやってみたい気もするんですが、なかなか始められなくて。でも、その凛々しい姿にはちょっと憧れますね」
羨まし気に映るのか、目を細め返してきた。その様子を見て、記入中の吉田が誘う。
「如何ですか、弓道でも初めてみませんか?」と誘う。「ええ、でも弓道って難しのではないですか?」逆に尋ねられる。
「いいえ、そんなことありませんよ。最初は誰でも多少戸惑いますが、スポーツをやっていたなら直ぐに慣れますよ。それに、この袴姿は私よりも貴方に似合うと思いますが」振り向けると「そうですか、袴など着けたことないし、やったこともないけれど考えてみようかな。ところで、どこで練習されているのですか?」と尋ねられる。
「こちらの近くに川越武道館があるでしょう。そこの地下一階に弓道場がありますから、是非一度見に来てください。見学は何時でも歓迎します」
「ああ、あそこの武道館ですか。そうですか、機会がありましたら見に行かせていただきます」と返してきた。そうしているうち、情報アラカルト掲載の必要事項を書き終え、コピーをしてもらい受け取とる。その際、「是非、見に来てください」と誘うと、「ええ、分かりました」の返事が返ってきた。
そしてエレベーターホールに戻り、一階へと降りて市役所を後にする。
要件を済ませ自宅へ帰る道すがら、先ほどの女性配達員や広報担当者の眼差しが蘇ってきた。興味があるのか、あるいは袴姿に驚いたのか分からぬが、表情が一応に輝いていたように思う。
そんなことを思い浮かべながら運転していると、またウナギ会席『いちのや』のところの信号機が赤になり止まる羽目になった。すると、香ばしい焼く匂いが車内に漂ってくる。
「またかよ、たまらねえな。腹ペコの俺には、この匂い弓道の稽古よりきついぜ。まったく、この信号機なんとかしてくれねえか。鼻薬にもならねえや」と、愚痴とともに生唾が湧いてきた。
そして、信号機が赤から青へ変わった。ウインカーを点滅させ対向車を窺いながら、右へとハンドルを切る。走り進むうち徐々に匂いも消えて行くが、空腹が収まったわけではない。すると、腹の虫が「ぐうっ」と鳴り出した。
「しかし、腹が減ったな…」と前方を見つつ、吉田がため息を漏らしていた。
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