第六節 体配誤謬


前回稽古に続き、今日も真剣な修練が続くなか、吉田の負けじと行射に励む姿があった。そんな鍛錬の中で、時折上地先生が吉田の射を見て、「そうだよ、その調子だ。その射を続ければ、昇段は間違えなしだ。けど、三段は二矢のうち一本中てなければ駄目。いくら体配が良くても不合格となるから、今の行射とゆっくりとした体配を続けることだよ」と、優しく且つ厳しい目でアドバイスする。

すると吉田が頷き、照れながら応える。

「なかなか難しいですね。今の射をやればと言われても、如何射たか体配が如何だったか、はっきりと覚えていないんです」控えめに答えたが、次の射は的を射た前とは異なり、的前安土となり納得いかないのか無口になっていた。

それでも、行射の稽古を続ける。

稽古日によっては、数多く中る日もあるが、不満足な安土となることも多々ある。その都度一喜一憂する吉田の姿があった。その中で、週に一度練習に来る猪口が、吉田の射を見て適切なアドバイスをしていた。それも単刀直入に、「こうした方がいい」と言うものが多かった。

そこで吉田は、猪口の行射を場外の窓越しに覗う。

「うむ、なるほどね。他の射手には見られない、羽引きを行なっているし、よく的に中る。そう言えばある時、俺が二番手で三番手に猪口が入り、本座から射位に同時に進み、甲矢の行射を行なった。俺の場合は立射のため、射た後に本座まで下がる。

そして、落ちの射手が射た後の残心の時に、猪口が上目使いに本座まで下がった俺を覗い、射位まで戻れと目で合図してきた。俺は今迄、落ちが残心から両腰に弓手と妻手を戻す動作に合わせ、射位に戻っていたことから、猪口の要請に戸惑い従わなかった。

その後、そのことを佐々木に尋ねると、「猪口さんの要請は競技時のものであり、審査時のものではない」との答えだった。

吉田は納得し「そうですか、猪口さんの要請も間違いではない。競技の時は落ちの弦音で戻る。しかし審査を前提に修練している俺にとっては、弦音ではなく落ちの残心後の両腕を腰に戻すタイミングで、射位に戻るのが正しい」そう確信した。

その後、たまたま修練のあと、牛尾と雑談する機会があった。

「そう言えば、つい最近、猪口さんから立射での行射の際、甲矢を射て後退した本座から射位へ戻るタイミング赫々云々…」と話したところ、牛尾が頷きながら「そうですよね。審査の時は、落ちが残心から両手を両腰に戻す時に、射位に戻ることで良いと思いますよ」とアドバイスした。

するとさらに、佐々木が解説する。「審査と競技では、根本的に違うところがありますからね。審査の場合は、弦音で戻ったら、後の射手への審査を妨害することになるわけですよ。何故なら、残心の動作を審査員が見れないじゃないですか」すると吉田が納得するように「そうだよ。、まさしくその通りだ」と、正しかったことを誇示すように声を上げた。

それからとい言うもの吉田は、従来通り落ちの残心後の両手を腰に戻すタイミングで、下がった本座から射位に戻るようにしていた。その動作は今も続けているし、審査と競技の違いを知る猪口さんは、その後そのことに何も言わなくなった。

「それにしても」と思いを巡らす。

「しかし、いろいろあるな。弓道は昔からある伝統を重んじる武道だから、今も知らぬことが多々あり覚えるのに苦労をするよ。でも昔に比べれば、それも充分とはいかないが、所作そのものが当たり前になった感がある」

さらに現状の稽古実態を見て、「最近は、江口さんのように女性も多く参加しているし、曜日によっては男子より多い日もある。それに男性は高齢者が多いのに比べ、女性はと言うと若い方の比率が高いように思える」

「また、コロナ禍が落ち着いてきたことで、弓道教室も再開しており女性の参加比率が高くなっているようだ」

「俺が初めて、弓道教室に参加していたこ頃を思い出すよ。なんだか、懐かしい気がするな」

吉田は現状を窺いながら、つくづく実感していた。

そして思いを巡らせた後、ふたたび射位からの行射を始めた。巻藁行射で培ったであろう技量を発揮すべく本気モードで弓を引く。その顔は真剣そのものである。四つ矢を持ち本座から射位に移動し、甲矢と乙矢に持ち直して、一手目の射に入る動作が続く。全神経を弓手の弓と妻手の甲矢に注ぎ、行射態勢へと入った。




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