第72話 遠雷 6
フィーアは蛍の丘にいた。
激しく揺れる草の間を歩いていた。
月も星もない暗黒の世界が広がっていた。
雨は矢のように、全身を突き刺す。
「このまま雨に打たれて死ねたらいいのに」
天を仰ぎ、両手を広げて雨粒を全身に受ける。
空よもっと泣けばいい。
ここは、エルンストとお互いの気持ちを最初に確かめ合った場所。
奴隷となった私を愛してくれた人。
幸せな想い出をくれた人。
私の心を鎖でつないだ人。
―—出会わなければ良かった。
貴族と奴隷が愛し合うなんて、やっぱり許されない。
この世界が許してくれない。
激しく全身を叩く雨は、フィーアの涙を流す。
屋敷を出たところで、小娘一人生きてはいけない世の中だ。娼婦になるか、もう一度奴隷に戻るか。
「何度も救って頂いた命なのに、ごめんなさい」
エルンスト様の未来を奪わないために。
——もう、私にはこうするしか。
未来が不安で、苦しくて、永遠に続く深い闇の中に生きることに疲れた。
もう、この苦しみから解放されたい。
フィーアはその場に膝をつくと、胸元から短剣を取り出し自分の喉元に突き付けた。
雷光が光る。
一瞬辺りを明るく照らす。
神も私を歓迎しているのだわ。
「エルンスト様、愛しています」
天が
雷鳴はすべての存在を浄化するがごとく地面に突き刺さった。
空を、空気を、丘を切り裂く激しい音が鳴り響いた。
「——俺を置いて行くのか」
短剣はエルンストの手で押さえられていた。
「言ったではないか。お前のいない未来など意味がないと。お前がカロナバスの舟に乗ると言うのなら、俺はヴァルハラの門をくぐろう。死んだら俺たちはむしろ離れ離れだ。だから生きている今、お前を死ぬほど愛してやる」
そう言うと、フィーアに強引に唇を重ねた。
やがて離れた唇は愛の言葉をつむぐ。
「お前の過去や身分など気にしない。お前も二度と気にするな。俺はお前と生きると決めたのだ。それが天に背くことだとしたら、俺は喜んで地獄の業火にこの身を焼かれよう」
草原に響き渡る霹靂は《へきれき》は祝福なのか、それとも怒りなのか。
「身分を隠して生きていくことが、そんなに辛いか?」
「いいえ。私が辛いのはあなたの邪魔になることです。いずれ私の秘密は陽の元にさらされるでしょう」
「ならば、俺がお前の盾となる」
二人の間には雨さえ入る隙もない。
「俺からすり抜けるな。俺をひとりにするな。俺を孤独から救うとお前は誓ったはずだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます