第71話 遠雷 5

 その夜、エルンストは皇妃ゾフィーの元を訪れた。

 雨は激しさを増し、嵐を予感させた。


「兄さまっ、そのお顔はどうされたのですかっ」


 出迎えてくれたゾフィーは目をしばたかせた。


 エルンストの目は腫れ上がり、口元には血が滲んだガーゼが張られている。


「色男が台無しだな」

「本当ですこと」

「フィーアに会いたいのだが」


 その名前を聞いて、ゾフィーの顔が曇った。


「それが少し前、出て行ったのです。何度も止めたのですが」

「何だと」

「きっと私のせいだわ」

 

 落ち込んだ様子のゾフィーにエルンストが詰め寄る。


「ちゃんと話してくれ、ゾフィーっ」

「実は少し前に、『兄さまのお嫁様は、私のお眼鏡に叶った女性でなくてはダメよ』なんて言ってしまったの。フィーアは平民だそうね。兄さまと結婚は出来ないとも言ってしまったわ。そうしたら、それをとても気にしていた様子で」


 ゾフィーの瞳は潤んでいる。


「でも仕方ないでしょ、兄さま。だって法律で決められているのですもの。それにもう私から陛下にはお願いできないし。陛下は私を殺そうとしたのですもの。きっと私はここから一生出られないわ」


 落ち込むゾフィーをエルンストは気遣う。


「必ずここから出してやるから、俺を信じて待っていろ。ゲルフェルトやグレーテの犯罪の証拠を集めている最中なのだ」


 こくんとゾフィーは頷く。


「ごめんなさい、兄さま。もしここを出ることができたなら、貴族と平民が結婚出来るように、陛下に必ずお願いするから」

「気にするな。お前は悪くない。悪いのは俺なのだから」


 エルンストは愛馬にまたがり、夜の雷雨の中へ馬を走らせた。

 胸騒ぎがする。どうか、無事でいてくれ。鞭に力を込めた。



*

「ご主人様!?」


 執事のコンラートがエントランスで迎えてくれた。


「今日はお泊りの予定ではなかったのですか!?」

「帰って来て悪いのか」

「いえ、決してそのようなことは。それよりこの雨の中、大変でございましたね。すぐに風呂を用意させます」


 鬼の居ぬ間に何とやらだ。

 さっきまでくつろいでいたに違いない。


「フィーアはいるか」

「フィーアでございますか?」


 コンラートは怪訝そうな顔をした。


「まだ離宮で静養中ではないのですか?」


 逆に聞き返されてしまった。


 エルンストはコンラートに背を向けると、再び雨の中に飛出したのだった。


「ご主人様!?」


 コンラートの呼ぶ声はすぐに雨音に消された。


 夏だと言うのに、雨のせいで気温が下がり手綱を握る指がかじかんでくる。


 雨粒が視界を塞ぎ、風が思うような前進を妨げる。

 おまけに道がぬかるんで、馬の脚が取られる。

 エルンストは苛立ちを感じていた。


 どこだっ!?

 あいつの行きそうな場所はっ!?


 あいつの帰る場所は俺の胸しかないと言うのに。

 エルンストは馬の背に激しく鞭を打ち続けたのだった。


 

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