第25話 宵待ち草 4

 太陽がだいぶ傾いていた。西日がフィーアのグレーの瞳を刺す。だいぶ時間が経っていたようだ。


「大変、ハンスに怒られてしまうわ」


 家路を急ぐフィーアが湖に差しかかった時だった。

 行きがけにつぼみを閉じていた宵待ち草が一斉に花を開いていた。湖のほとりは黄色い絨毯と化している。


「綺麗」


 思わず足を止めた。


 今日は色々なことがありすぎた。

 宵待ち草はフィーアの心を優しく慰めてくれる。

 黄色い絨毯は、まるで風に湖面を撫でられた波のように、さわさわと揺れた。平気?平気?と問われているように。


「うん。平気よ」


 小さく笑顔をつくる。

 

「あのね、ギードに薔薇をもらったの。だから今日は摘まないわ」


 夜に咲いて、朝にしぼむなんて、ロマンチックな花もあるものだ。とフィーアは思う。

 月光が花びらを照らせば、きっと銀色に輝くだろう。


 世界が美しいもので溢れていたらいいのに。

 ・・・アーデルはこの花の存在を恐らく知らない。

 あの子は美しいものを知らずにこれからも・・・。


 涙が込み上げてきた。

 どうしてこんな不平等が横行する世界になってしまったのだろう。

 せめて奴隷の子を修道院に預けることは出来なかったのか。


「――何をしている」


 突然の声に驚いて振り向くと、エルンストが愛馬にまたがって、フィーアに少し冷めた瞳を向けていた。


「ご主人様」


 相変わらず無駄のない所作で馬から降りると、近くの木の枝に手綱を縛る。


「泣いているのか」

「いいえ、いいえ」


 フィーアは慌てて涙をぬぐうと、エルンストに酔っ払いとの出来事を詫びた。


「まさかあのような場面で、皇帝陛下までいらっしゃるなんて」

「・・・ああ。お前の身分がバレたらと、ひやひやしたぞ」

「ご心配をおかけ致しました」

「奴隷だからと日陰の存在として生きる必要はないが、騒ぎは困る」

「申し訳ございません」


 深々と頭を下げるフィーアにエルンストは、「もういい」と言って、ひとり宵待ち草をかき分けて湖のほとりに座った。


「何故、泣いていた」


 フィーアは答えない。


「言いたくないのか」


 エルンストはそれきり何も言わなかった。 

 二人の間で宵待ち草が揺れていた。


 ――もうすぐ湖の先の森に太陽が沈む。


「宵待ち草は、私の故郷でも沢山咲いておりました」


 フィーアが自分から故郷の話をするのは、これが初めてだった。エルンストも聞いてくることは無かった。


「・・・宵待ち草と言うのか。雑草だと思っていた。名前があったのだな」

「はい。夜になると花を広げ、朝になるとしぼんでしまいます」

「葡萄酒のような、甘い香りがする」


 エルンストは花に顔を近づけた。


「酒の香りに夜に咲く花か。まるで娼婦のようだな」


 えっ!?

 ご自分が夜に娼婦と花を咲かせておいでだから・・・。


「可憐で奥ゆかしく見えても、野獣を引き寄せるふしだらな花」


 ・・・ご主人様。


「お前は俺の元で、侍女として可憐な花を咲かせればいい。辛い過去は早く忘れろ」


 ご主人様?

 まさか、私が奴隷が売買されるのを見ていたこと、ご存じなのですか?


「・・・ですが、ですが」

「お前がかつて一緒に暮らしていた者たちに心を寄せる気持ちは、分からないでもない。だが、お前がどんなに苦しんでも、彼らの人生が変わることはない」


 だから、お前はお前の人生を生きろ。とエルンストは言う。

 おもむろに立ち上がると、愛馬にまたがった。


「乗れ」


 馬上から手を差し伸べてきた。


「ですが」

「ハンスが夕飯を作れないだろう」


 フィーアがためらっていると、長い腕が伸ばされ、フィーアの体を軽々と抱え上げ、自分の前に座らせた。


「俺も腹が空いている」


 ぶっきらぼうに告げると、馬の腹を蹴った。


 ゆっくりと歩く馬の背に揺られながら、フィーアはエルンストに体を預けてた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る