第2話 1日のはじまり
朝は苦手である。
特に、寒い時期の朝の寝起きは、最高に悪い。
スマホの目覚ましも、起きる予定時刻の2時間前から、
3分間隔で設定し、なんとか起きれている。
目覚ましを止め、ベッドから這い上がり、洗面所に向かう。
簡単に化粧を済ませ、お湯を沸かし、仕事中に飲むルイボスティーを用意する。
朝ごはんのバナナをかじりながら、朝のニュース番組を見るのが、出勤前のルーティーンだ。
Youtubeには、都会に住んでいるおしゃれなOLさん達の朝のルーティーン動画が沢山上がっており、学生時代には大いに憧れを持っていたのだが、朝の弱い私には、早起きをしてヨガをしたり、朝食を作る事が不向きであると、たった1日で実感した。
「天秤座は、7位か…。まあまあだな。」と、
占いコーナーで、1日の運勢をしっかりと確認してから出勤している。
テーブルの上に散乱していた医学書を鞄に詰め込み、パソコンは手持ちして、
部屋を出る。
「まだ寒いな…。」と、冷たい風を頬で感じながら、階段を降りる。
寮に住んでいる為、部屋を出てから、1分もしない内に出勤できてしまうのが、
良くもあり、悪くもある。
遅刻ギリギリに出勤しても間に合う環境であるが故に、仕事に慣れてきた位の時期に、大寝坊する時が来ると確信しているので、年末頃に引っ越す予定である。
階段を降り、寮に面した通りを歩いていると、大きな桜の木が見えてきた。
その木は、私が勤務する鳳来脳外科病院の中庭にある。
鳳来脳外科病院は、病床数300程の病院ではあるものの、急性期から回復期、療養病棟を備えている病院で、デイサービスや老人保健施設も運営している。
脳外科と謳っているが、内科や外科等もあり、外来患者も多く通院している。
丁寧に手入れされた中庭は、入院患者や外来患者からも好評で、季節毎に色づく花や木が植えられているようで、患者でなくとも、中には自由に入る事ができる。年度末には、中庭の植物を撮影した写真を公募し、展覧会と称して院内で掲示するらしい。
そんな中庭を通り抜けた先に、職員用玄関がある。
その職員玄関に設置されているカードリーダーに、
【鳳来脳外科病院リハビリテーション科 言語聴覚士:橘 千歳】
と書かれている職員IDカードをスキャンし、セキュリティを解除する。
私は、今年の4月からこの鳳来脳外科病院で勤務している、言語聴覚士の橘 千歳、22歳である。
県外の大学に通っていたが、卒業後は地元に戻りたいと考えていた為、国会試験を受験した後に、就職活動を開始し、欠員が出ていた鳳来脳外科病院の採用試験を受け、内定をもらう事が出来た。幸運にも、国家試験にも合格し、現在に至る。
就活の話を友人達にすると、一般企業での就活とは大きく異なる点が多いようで、質問攻めにあった事がある。
私の職業である「言語聴覚士」は、脳卒中後の後遺症や、発達上の問題などで、ことばによるコミュニケーションに課題を抱えている方達に対し、検査や評価を行い、必要に応じて、リハビリテーションを提供する専門職である。また、食べ物や飲み物を「噛む・飲み込む」運動が障害されてしまう摂食嚥下障害や、先天性の難聴により人工内耳を留置している方や、後天性の難聴に対しても、評価・検査の実施やリハビリテーションの提供、補聴器の調整を行ったりもする。
その為、対象となる年齢層は、小児〜高齢者までと幅広く、医療機関だけではなく、教育や保険・福祉の現場でも、言語聴覚士が勤務している組織も多い。
だが、1997年に国家資格として制定されてから、本年まで全国で約3万8千人しかおらず、近年の超高齢化社会においても、未だに人員不足な職種である。
私が勤務している鳳来脳外科病院には、私を含めた3名の言語聴覚士が在籍している。
頼れる先輩方に揉まれながら、新米言語聴覚士として、日々奮闘している。
女子更衣室へ移動し、病院のロゴが入った緑色のスクラブに着替える。
朝に用意してきたルイボスティー入りの水筒を持ち、リハビリ室へと向かう。
「おはようございまーす。」
まだ誰も出勤していないのだが、一応挨拶しながら入る。
先輩スタッフ達が出勤してくる前に、スタッフルーム内の環境整備を行うのが、新入職員である私の役目だ。
まず、スタッフルームのエアコンを稼働させ、カーテンを開ける。感染症が大流行しているご時世の為、換気用の窓を、数カ所開けておく。
次にポットに水を入れ、電源を入れる。物理療法で使用する器具の電源を入れておき、ずらっと並んでいるパソコンを一台ずつ立ち上げておく。
この作業が終わってから、症例報告会の資料づくりを行う。
リハビリ科の新入職員の教育プログラムとして、1ヶ月毎に症例報告会が設けれている為、その資料作りに取り掛かる。
どこの病院でも、職種毎に新人教育プログラムがあり、その内容は、病院毎に違う。同期に話を聴くと、同年に開催される学会に口頭発表する為に、研究論文を作成していたり、症例報告会自体が無く、自主的に学会や勉強会に参加するように指導されるだけであったりと、教育内容に幅がある。
症例報告会は、学生時代から苦手だった。
極度のあがり症な私は、大勢の人からの注目を浴びながら話す事が苦手で、
カンペを用意しても噛む始末である為、資料作りの最中から、発表の練習を同時進行している。
静かなスタッフルームで作業していると、廊下から足音が聞こえ、段々とこちらに近付いているようだ。ガチャっと、スタッフルームの扉が開く。
「おはようございますー。お!今日もちゃんと起きれた?」
私が朝に弱いのを知っているこの声の主は、私の指導者である言語聴覚士の笹井英恵さんだ。経験年数が10年目で、いつでも明るく、朗らかな笹井さんは、他部署や患者からも慕われているよう。仕事に対する姿勢や人柄、全て含めて、尊敬する先輩の1人だ。
「おはようございます。なんとか、3分間隔の目覚ましのおかげで、起きれました。」
「3分間隔って凄いな、、。橘さんの横の部屋に住んでいる飯沼看護師さんが、朝から賑やかだなーって、言ってたよ〜?」
「え!?あの飯沼さんがですか!!あー、まずい…。」と言いながら、頭を抱えた。
私の住んでいる寮には、派遣の看護師も住んでいる。
当院の看護師は3交代制なので、日勤・準夜勤務・夜勤と、様々な時間で勤務しているのだが、勤務時間帯によっては、私の起床時間に眠っている看護師も多い為、目覚ましの音量には十分配慮していたつもりだったが、辛い勤務を終えた看護師の安眠を妨げていたようだ。
「飯沼さんにお会いしたら、謝らないと…。」
特に、看護師の飯沼さんは、私の横に住んでいるベテランの派遣看護師だ。
さっぱりとした性格の方で、引っ越しの挨拶で焼き菓子を持って行ったら、
「若い子で、こんなことする子、初めてだ!!」と喜んでくれた。
笹井さんとも仲が良く、部屋呑みにも誘ってくれる等でとても親切にしてくれていたので、人一倍、飯沼さんへ迷惑が掛からないようにしていたのに…。と落ち込んでいると、
「おはようございます。お二人は、いつも早いっすね!」と言いながらスタッフルームに入ってきたのは、理学療法士の大矢健介副主任だ。経験年数は、笹井さんと同じだが、副主任を任されている。後輩スタッフからの相談に乗ってあげたり、スタッフや患者の異変にいち早く気付けたりと、周囲の状況を把握する事が得意で、他スタッフからの信頼が厚い。
大矢副主任の出勤を皮切りに、ぞろぞろと先輩方が出勤してきた。
一気に、スタッフルームが賑やかになる。
休日の過ごし方を報告しあうスッタフや、今日の業務の予定を確認し合うスタッフ等、朝礼までの過ごし方は様々だ。
私は、先週の患者さんのリハビリの内容やバイタルを見返す時間に当てていた。
今週から、笹井さんが担当されていた患者を引き継ぐ予定だった為、引き継ぎ内容を頭の中で整理する事に集中していた。
「安藤主任、まだ来てないの?」
と大矢副主任に声を掛けていたのは、もう1人の副主任である、牧慎之介副主任だ。牧副主任は、作業療法士で、経験年数が20年の大ベテランである。私が尊敬する先輩の1人で、経験年数が長い分、様々な施設での勤務経験がある。気取らず話掛けやすい牧副主任は、私からの質問攻めスタイルの相談にも、嫌な顔せず対応してくれるので、何かと牧副主任の勤務を妨害している。甘いものが大好きで、女性スタッフとスイーツ談義で盛りがっている場面を良く見かける。今度、私を含めた複数人でスイーツビュッフェに行く約束をしている。
「更衣室で見たんですけどね…。」と、横から声をかけて来たのは、理学療法士の新堂進さんだ。新堂さんは、私の1つ上の先輩で、ポンコツな私をいつも助けてくれている。出勤初日に、リハ室への行き方が分からず迷子になっていた私を探しに来てくれたのが、新堂さんだった。面倒見が良く、患者にも丁寧な新堂さんは、他職種から(特に看護師から)の評判が高い。
端正な顔立ちであるが故に、昔から苦労する事が多かったとのこと。(この話については、追い追いお話ししますね。)
「はい。おはようさん。朝礼始めようか?」
と、新聞片手に扉を開けて入ってきたのは、我がリハビリ科の主任である、安藤正春主任だ。他スタッフからは、裏で「ボス」と呼ばれている。キラリと輝く眼鏡の奥には、ギラギラとした瞳が隠れており、猪突猛進という四字熟語がぴったりな仕事ぶりが影響しているのか、他の課や上層部からの評判は悪いとの噂聞く。なんでも、看護師長とリハビリ科の業務をめぐって、バチバチにやり合ったらしい…。
だが、治療技術はずば抜けているようで、主任の腕の良さを聞きつけ、外来患者が増えたという伝説がある。
「ほれ、もう読んだから、橘にやるよ。新聞、ちゃんと読む習慣つけろよ?」
と、クシャクシャになった新聞を私に渡してくるが、
「主任、電子版の新聞を購読するようにしたので、結構です。」
と断るようにしている。
当初は、無料で新聞を貰える事に感謝していたが、「捨てるのが手間」という理由で、私に手渡している事を先輩から聞いた時から、断っている。
「そうか。」とあっさり、引き下がってくれた為、内心安堵する。
安堵主任は、気難しい一面があり、プライベートで“何かが’’あった時は、
機嫌が悪く、ネチネチと絡んでくる為、言葉選びと声かけのタイミングには命をかけている。
「よし、それじゃあ、フロアに集合して〜。朝礼始めます。」
安藤主任の掛け声で、スタッフ全員がフロアに集合する。
今週から、独り立ちとなる事への不安を感じながら、連絡事項を伝達する安藤主任の声に耳を傾けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます