武蔵野の森に残した純愛ラプソディ

神崎 小太郎

第1話 満願吉日の夢

 目の前に涙する少女の姿が現れる。

 誰だろうか……。

 おぼろげな後ろ姿しか分からない。

 遠くを眺めながら一点を見つめている。


 少女の先には雑木林があり、小さな古いほこらが顔を覗かせる。残念ながら、夢は途中で終焉おわりを告げてしまう。


 202× 年1月4日。────満願吉日。

 夢から覚めると洗い立てのような太陽の光が届いていた。ああ~気持ちの良い朝だぁ。木枯らしなど吹く訳もない。通勤電車からの景色には、黄金色の雲がゆったりと浮かび、少しずつ姿を変えてゆく。


 仕事始めを迎え、オフィスビルの入口で鏡開きの樽酒をご馳走になる。晴れ着姿の女性が近づくと、華やかな香りが鼻腔をくすぐってくる。どこの職場だろうか……。

 日本髪に花簪はなかんざしが似合っており、思わず見惚れてしまう。


 正月早々、いかん、いかん。大切な里美を忘れるところだった。

 幼い頃から動物のパペット人形が大好きという無邪気な女性である。特別な美人ではないけど、えくぼがとても可愛い彼女だ。


 昨日だって、里美と初詣に行き、神様に「今年こそ、結婚できますように」と祈願したばかりなのに。まだ、彼女へ伝えてはいないが、夏のボーナスを貰ったらプロポーズする夢を描いていた。


 ところが、一階のホールはエレベーターを待つ社員で大渋滞となる。慌てない、慌てない。強いてはことを仕損じる。祖母からよく習っていた。まだ、松の内だ。正月気分でゆっくり行くとしよう。


 俺の名前は円城寺 正えんじょうじしょう。二十八歳のごく普通の銀行マンである。あえて言えば、お調子者でのんびり屋だろうか。


 幸いにも、上層フロアー専用の直行便がやってきた。やっぱり、慌てる者は貰いが少ない。昔の人は良いことを云う。時刻は、九時五十八分。ギリギリセーフ。でも、嫌な予感が脳裏をかすめてくる。


「君、遅いじゃないか。専務がお待ちだから役員室に行ってくれ。大至急や」


 案の定、課長が眉間に皺を寄せ待ち構えていた。さっそく嫌味が飛んでくる。職場では上役への腰巾着と揶揄やゆされる性悪な男だ。


「はい、畏まりました」


 顔色ひとつ変えずに返事をしたが、はらわたは煮えくり返っている。

 何の要件だろうか……。不安ばかりが先走る。次期社長昇進と噂される専務に呼ばれるなど、初めての経験だ。緊張で手に汗を感じてしまう。


 役員室の扉をコンコンとノックする。入りたまえの声が届く。この行為が後ほど運命の分かれ道になるとは予想だにしなかった。


「円城寺、遅くなり申し訳ございません」


「おっ、ようやく来たな。堅くならないで結構だよ。君は確か早慶大の経済学部出身だったね?」専務は笑顔で迎えてくれる。


「はい、そうです」


「俺の後輩だ。ところで、今でも経済を勉強しているそうだね? 」


「国際金融を少しだけ。これからは、銀行にもグローバル的視点が必要かと……。」


 つい、聞きかじりの知識で余計なことまで言ってしまう。入社して七年、昨年の春に本社へ異動になったばかりだ。口にしてから、しまったと思う。


「ほう~。結構なことだ。ところで、次の春の異動で海外金融本部に推薦したい」


「えっ、私がですか?」


 正直、驚いてしまう。海外金融本部は銀行のエリート中のエリートだ。昨年から、海外市場で自社資金の運用を始めている。瞬時に億単位の金を動かす重要なセクションだと聞かされていた。

 けれど、超ハードな職務で、失敗は許されず倒れるスタッフもいるという。


「適任だと思うけどね。資格も持っていると聞いている。どうだろう? 大切な一生のことだから、よく考えて返事を欲しい」


「ありがとうございます」


 男なら出世もしたい。

 お金も欲しい。

 綺麗ごとじゃなく本音である。


 幼い頃から人知れず、貧乏神は嫌というほど見てくる。思春期の頃、両親は離婚している。母親に育てられ、やっとここまでやってこれた。


 結婚したら、苦しい経験は幼馴染みの彼女にもさせたくない。疑いなく、心のどこかで里美との将来を描いていたに違いない。きっと、里美も喜んでくれるだろう。彼女の笑顔が思い浮かんでいた。


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