かあさん

平賀学

かあさん

 初めて人を殺したのは十五かそこいらのときだった。父親の顔も知らないし母親も俺の誕生日なんて覚えちゃいなかったから正確な歳は知らない。毎日のように違う男を引っ張り込んで金をせびるしか生き方を知らなかった脳みその小さい母親は、些細なことですぐに機嫌を損ねて俺に手を上げた。泣きわめいたらうるさいと叩かれ、睨みつけたら生意気だと蹴られ、押し黙ったら不気味だとベランダに放り出された。

 あんたなんか産まなきゃよかったと何度も唾を吐かれた。せめて女だったら客をとらせるのに。不愛想であたしをすぐ苛つかせる。俺はずっと母親のサンドバックで、ときどきおもしろがった男に好きなように嬲られた。

 ある日ふと自分が母親とそう変わらない体格になっていることに気が付いて、ほとんど使われない包丁を手に取って、寝こけていた母親の腹に刺した。汚い悲鳴を上げる母親に馬乗りになって、何度も何度も刺した。ゆるして、ごめんなさい、悲鳴の合間に命乞いする声にこめかみが熱くなって、動かなくなっても何度も刺した。

 そうして朝まで死体と過ごして、腹が減って途方に暮れて、めまいもして意識が遠のいてきた頃、部屋を訪ねてきた母親の男の一人に揺り起こされた。男は冷蔵庫から食パンと牛乳を出してきて、それで初めて母親の許しがなくても冷蔵庫を開けていいんだと気づいた。

 その男は物好きなやつで、俺のことが気に入ったと言って部屋から連れ出された。厳つい手に引かれて、生まれて初めて玄関から出たとき、世界は六畳の箱よりずっと広いことを知った。五感からあまりにたくさんの情報が入ってくるので、まためまいがしそうになった。

 それからは男の飼い犬になった。こいつを脅してこいといわれたら脅しに行って、こいつを痛めつけろと言われたら暴力を振るって、こいつはもう用済みだと言われたら殺した。毎日飯が食えるし、便所も風呂も好きなときに入っていいし、夢のようだった。

 ただ男がしょっちゅう女を侍らせているのはいただけなかった。香水の匂いのきつい、頭も股も緩そうなやつらばかり。一度男に言われて一人抱こうとしたが、裸を見たら吐いた。女はいたくプライドを傷つけられたようだったし、男も笑っていたが、好きこのんで寝たがるやつらの方が理解できなかった。


「どうしたんですか?」

 そいつと出会ったのは、公園で携帯の画面を覗いて悪戦苦闘していたときだった。俺より少し目線の低い、若い女。

 携帯はこれくらい持っておかないと連絡に不便だということで持たされていたが、文字の読めない俺にはどこを押せば誰につながるのかもよくわからなかった。

 俺が何か言う前に女は馴れ馴れしく言葉を続けた。

「ずっとここにいるし、なんだか困ってるふうだなあって。道にでも迷いました?」

「いや」

 正直こうして見知らぬ人間に話しかけられることがないので、どうあしらったものか困った。子どもの頃につけられた傷跡を隠しているわけでもないし、見てくれも良い方ではないので、自然と人に避けられる。

 女は大きな瞳でまっすぐこちらを見ていた。人と目を合わせるのは久しぶりだなと思って、なぜか気まずくなって逸らした。

 結局正直に携帯の使い方がわからないと答えた。

「人に電話をかけたいんだ。いつも向こうからかけてくるけど、こっちからかけたことがないから、わからない」

 女はなるほどと頷いて、「ここを押せば着信履歴出てきますよ。そこからかけなおせます」と画面を覗き込んで指示してきた。言われた通りの場所を押すと、文字と、ときどき数字の列が並んでいる画面が出てきた。

「あとは電話をかけたい人の名前を押せば大丈夫です。あ、連絡先登録してなかったら番号だけ出るんですけど、よくやり取りする人ならわかるかな?」

「名前が読めない」

 少し間が空いた。

「じゃあ、かけたい人の名前教えてもらえますか」

 俺が答えると、女はこの人ですねと指さした。細くて白い指だった。

 俺は礼を言おうとしたが、うまく口の中で言葉にできず、不明瞭な発音をした。女がどんな顔をしているのか見るのが怖くて、そのままそこから逃げるように離れた。

 あとで女が指したところを押したら、男に繋がった。

「お前いつの間に電話を使えるようになったんだ?」

 スピーカーからは男が笑う声がした。


 それからあの公園の傍を通るときは、なんとなくそこにいる人間の顔を確認するようになった。

 たいていは子連れだった。猿みたいな声を上げて走り回る子どもを、あるいは笑みを浮かべて、あるいは疲れた顔で見ている。女同士で固まってインコみたいにさえずっていたりもした。誰もかれも男をくわえこんで孕んだんだなと思うと吐き気がするので、できるだけ考えないようにした。

 ある日、あの女がいるのを見かけた。ベンチに腰掛けて、本を開いている。俺はつばを飲み込んで、そちらに歩こうとして、ひと際大きい子どもの歓声に耳をつんざかれた。子どもは短い手足でベンチの方まで走ってくると、あの女の隣に座っていた母親の懐に飛び込んだ。

 俺は、足をもう一度動かすことができずに、女を見ていた。

 女はずっと本に目を落としていた。子どもの群れに目を向けることもなければ、親の輪に加わることもない。

 それをしばらく見つめていると、俺の傍を通り過ぎる人間が不審げな視線をよこした気がしたので、そのまま公園から離れた。


 何度かあの女が公園にいるのを目にした。

 そのうちに女が公園に現れやすい日がなんとなくわかり、わりあい頻繁に訪れて読書に利用していることから、ここからそう離れていない場所に住んでいること、自転車を使う様子もないので徒歩で通える距離であること、ある日帰っていくところに遭遇して、近くのアパートに住んでいることがわかった。

 朝はだいたい決まった時間にアパートから出てきて、近所の喫茶店に入ることが多い。開店より少し前に入っているから、そこで働いているんだろう。

 こぎれいな店で、俺とは縁がない世界だ。

 俺はできるだけ人目につかないよう注意を払って、洒落た窓から中を覗いた。女はボードを手に客と話していた。髪を束ねているので見えるうなじがきれいだった。


 イヤフォンを耳に突っ込む。女の笑い声。友人と電話で談笑しているようだ。俺はそれに耳を傾ける。

 鍵をかけ忘れて出て行った日に部屋のぬいぐるみに仕込んだ盗聴器から女の生活音を聞くのがこのところの俺の日課になっていた。女は人づきあいが多く、よく友人を部屋に泊めたり、今日みたいに電話で誰かと話したりしていた。会話から、女がカホと呼ばれていること、冬生まれなこと、今はアルバイトで生活しているがいつか作家として賞をとるのが夢であることなどを知った。俺はカホの小説なら読んでみたいと思ったし、そのために字を学ぼうと思った。

 ひらがなを読めるようになると、とたんに世界が広がった。漢字が読めなくても、ひらがなを読むことができれば、本によってはふりがなが振ってあることもある。俺は本屋で本を開き、ふりがなが振ってあるのを確認したらなんでも買って読んだ。この、気持ち悪い記号の群れみたいなやつが、意味がわかるようになると話になるのだ。俺はカホが最近読んで感動したと言っていた本もすべて買った。だがそれは大体はふりがながないので、自分の部屋の隅に積んでおいた。いつかこれに目を通して、カホと同じ感覚を味わうのだと思うと、それだけで充足感があった。

 カホは誰かのことを悪しざまに言うことはほとんどなかった。暴力や汚い言葉を嫌ってさえいた。俺の知っているどの女とも違った。

 カホ。気が付くとカホのことを考えていた。大きな茶色がかった瞳。媚びも嘲りもない視線。もう一度見つめられたい。だがカホの視界に俺が映るのは許されない気がした。


 カホ。


 季節が一巡りするころ、カホに男ができた。


 カホを目当てに喫茶店に通い詰めていた常連から告白されたと弾んだ声音で報告する声をイヤフォン越しに聞いた。俺はえずいた。それでも毎日カホの声を聞いた。男と趣味が合うこと、話の流れで小説を見せることになったこと、それを褒められたこと。男は頭が良く、話していてとても勉強になること。

 デートで手をつないだこと。

 キスをしたこと。

 男が初めてカホの部屋を訪れた日の夜、イヤフォンから聞こえる控えめな喘ぎ声に、俺は耳からイヤフォンを抜いた。


 カホ。

 茶色がかった瞳を丸くして、俺を見ている。濡れた瞳に汚い俺が映っている。

 怯えが見える。仕事でいつも見る表情だ。カホは防犯意識が甘くて、今日みたいに鍵をかけ忘れることがたまにある。いつだかぬいぐるみに盗聴器を仕込んだときみたいに。

 急に部屋に入ってきた俺にカホが虚を突かれた隙に口を押さえて、大きな声を上げたり言うことを聞かなかったりすれば殺すと脅した。腹に少しナイフの先を沈ませたら、馬鹿みたいに大人しくなった。そのまま寝室まで背中を押して、ベッドの上に放り出した。馬乗りになるとカホは震えて泣き出した。それでも大きな声を上げまいとしていた。

「なあ」

 ナイフの先で腹をなぞる。俺は今なら口ごもらずにカホと話せると思った。

「俺、あんたの小説を読んでみたかったんだよ。そのために勉強もしたんだ。文字も読めるようになったんだ、漢字も少し」

 涙をたたえて揺れる瞳が、恐怖と困惑を宿してこちらを見ていた。

「今なら電話も自分でかけられるぜ。俺、俺」

 俺はカホの答えを待った。

 ずいぶんな間が空いたように感じた。

 カホは発言を許されているらしいとわかったのか、震える声を絞り出した。

「ゆるして」

 カホといつだかの汚い女が重なった。

「ごめんなさい」

 化粧と香水のきつい女だった。男に跨るしか能のない。

 ゆるして、ごめんなさい、壊れた機械のように繰り返す声。いらないから捨てたと思っていた記憶がよみがえる。ごくたまに酒が入っていないときにだけ見せた優しい顔。手を上げたあと、素面に戻ったらぶってごめんねと泣く顔。だめな母親でごめんね、ゆるして、ごめんなさい。血塗れの腕で抱きしめられたこと。冷たくなっていく腕に、朝までずっと抱かれていたこと。

 床に尻もちをついて、カホに突き飛ばされたことに遅れて気づいた。カホが部屋を飛び出していったことをぼんやりと認識して、そのまましばらく呆けていた。

「かあさん」

 自然と声が漏れた。聞く人間は俺以外いなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かあさん 平賀学 @kabitamago

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ