第31話 ホワイトラビット②

「きみが三橋稜くんだね」

 はい、いきなり話がちがーう!!!

 ツバサさんを見ると、手を合わせて、舌を出して、ウインクされた。そろそろ殴ってもいいかもしれない。

 ハヤトに連れられて少しだけ中華街を散策し、約束の五分前に目的地に着いた。俺は入ったことがない、立派な造りの中華料理店だった。

「予約の高坂です」とハヤトが伝えると、ウエイターさんに個室へと案内された。待っていたのは体育祭で見たハヤトの両親とツバサさん。近くで見ると一層美人に見えるハヤトのお母さんが、にっこりと笑った。

「お初にご挨拶さしていただきます」と、うわあ。関西弁……いや京都弁? 京ことばっていうのか? とにかく一気に緊張感が高まった。地が出ないように。今日は女声で通す。そう決めていた。

「……は、初めまして……。三橋と申します」

「きみが三橋稜くんだね。なるほど、改めて見ても男の子とは思えないな」

 ちょっと待てーーーーー!?

 いきなり話が違う! 全然違う! ツバサさんが憎たらしい顔で「テヘペロ」と口に出して言った。アンニャロウ……騙したな! よくも騙したァァァァ!

「どういうことだ、姉さん」

 ハヤトはハヤトで、滅茶苦茶怒っている。そうだそうだ、怒れ……じゃない!

「落ち着け、ハヤト。ケンカは駄目だ」

「だが話が違う。リョウを騙して陥れるつもりなら、俺は絶対に姉さんを許さない」

「俺は平気だ! いいから落ち着け!」

 いまにもツバサさんに飛び掛かりそうなハヤトにしがみついて、俺は必死で制止した。

「ほんまや。男の子やねえ」

 あ、女声のことをすっかり忘れてた。いやそれどころじゃないし! 呑気だなこのお母さん!

「ね。言った通りでしょ」って、ツバサさんもなんで落ち着いてるんだ。アンタは少し慌てろ!

「落ち着きなさい、二人とも」

 ハヤトのお父さんが静かに言った。声がハヤトに良く似ている。顔はやっぱり両方だ。「足して二で割ったような」がそのまま当てはまる。……そんなことを考えていたら、少し落ち着いてきた。ハヤトの身体からもさっきまでの力が抜けていた。

「まず、座りなさい。せっかくの飲茶だ。話はお茶を飲んでからにしよう」



 美味い。俺の知っている烏龍茶と全く違う。これが鉄観音か。

「西岩鉄観音という。少し珍しい茶葉でね、昔香港で飲んだ味が忘れられなくて、たまにこの店に来るんだ」

「新婚旅行やったなあ。懐かしいわあ」

「へえ……素敵ですね」

 俺もいつかハヤトとそんな日が……って、おい! なんか色々間違えている。

 最初にこの烏龍茶が運ばれてきて、すぐに小籠包とか水餃子とか蒸しエビとかの点心が続々と。またこれが何を食べても美味いんだ。お茶がメインだと思っていたが、飲茶っていうのは立派な食事だ。

「どうだい、リョウくん」

「凄く……美味しいです」

「そうだろう? 遠慮せず食べてくれ。コースだが、気に入った点心があれば追加もできる」

「じゃあお言葉に甘えて、この北京ダックを」

 ……北京ダックじゃないよ。何言ってんだ俺。

 殺伐としたのは最初だけで、飲茶の時間は和気あいあいと進んでいた。一部を除いて。

「……ハヤト、ハヤト。もうその辺で」

 餌を盗んだカラスを睨む猫のような目をしたハヤトを、俺は肘でつついた。もちろん視線の向く先はツバサさんだ。気持ちは分かる。切り札のエースと思ってたカードがジョーカーだった。ホワイトラビットが三月ウサギだったという比喩のほうが近いか。それで飲茶とか、冗談にしても趣味が悪い。だが。

「あのっ」

 本題を切り出そうとして、思わず立ち上がった。全員の視線がこっちを向いて、俺はそのままもう一度座った。……格好つかない。しかし、それが俺だ。

「ご存じだと思いますが、俺、ハヤトと……いやハヤトくんと、交際させていただいています」

「うん。……それで?」

 ハヤトのお父さんは片手を挙げてお茶のお替りを呼んだ。パーティションの裏に控えていたウエイターさんがポットを持って現れる。全員にお茶を注いで姿を消すまで待ち、俺は言葉を継いだ。

「見ての通り、俺は男です」

「女の子やなあ。どっから見ても」

「きみはアレか? 流行りのTSFとかいう」

 TSFて。お父さんからとんでもない単語が飛び出した。ツバサさん無音でめっちゃ笑ってるし。

「普通に男です。親の薦めで染色体検査もしました。ちゃんと男でした。こんな見た目でも」

 俺は何を言っているんだろうか。

「普通か……説得力に欠けるな」

 ……はい。俺もそう思います。女子の制服ですし。着替えたい……でも着替えがない。だが負けるな、俺。

「それでも、真剣です。ハヤトの隣にいるために、必要なら女性になる覚悟もあります」

 初めて口に出した、しかしこれもいまの俺の本心だ。俺が男かどうかより、ハヤトの隣にいることのほうが優先順位が高い。いまの俺はそう思っている。

「何故そう思う?」

「何故、……ですか? それは」

 好きだから、と言う前にウエイターさんが北京ダックのお替わりを持ってきた。間が悪いな。誰だ頼んだの。俺だ。

「好きとか嫌いとか漠然とした理由じゃない。そんなふうにきみが考えるに至った動機が知りたい」

「隼人のどこを、そんなに好きになりはったん?」

 口調は正反対だが、この二人は似ていた。言葉が強い。正確には言葉の圧力が。俺は背筋を伸ばして呼吸を整えた。

「……ハヤトは俺を見付けてくれました。偶然もあったと思います。それでもハヤトは、ハヤトだけが俺を見付け出して、閉ざしていた世界を広げてくれました。次は俺の番です。ハヤトの隣で、ずっとハヤトを支えていきたい。それが俺の願いです」

「リョウ……」

 ハヤトの視線を感じたが、俺は両親から目を逸らさなかった。いまは俺のターンだ。俺がこの二人を説得してみせる。幸いというかハヤトの両親は知性も理性も持ち合わせている。話が通じる手応えがあった。

「支える、とは? 具体的に?」

「ハヤトは何でも出来ます。でも、ハヤトも人間です。気持ちが折れることもあるし、心が負けそうになることもあります。そんなとき、一番近くにいて、支えになりたい」

 ここで、俺は深呼吸を挟んだ。

「世界中を敵だと思うようなときでも、俺だけは必ずハヤトの味方です」

 気付けば俺はまた立ち上がっていた。音を立てないように座って、すっかり冷めた烏龍茶を飲んだ。ついでに北京ダックをいただいた。美味かった。ウエイターさんがやってきて空になった皿を下げ、デザート(?)の胡麻団子やら杏仁豆腐やらをテーブルに並べた。

「なるほど。良く分かった」

 ハヤトのお父さんは胡麻団子を口に放り込み、少しの間黙って悶絶していた。そりゃ熱いだろ。意外に面白い人だ。

「…………君の言う関係性には、名前がある」

「名前、ですか?」

「共依存やね」

 ハヤトのお母さんがニッコリと微笑んで言った。テーブルの上の胡麻団子が急速に冷えていくのが分かった。



「言い過ぎじゃないか、母さん」

 ハヤトが静かに口を開いた。怒っている。今日のハヤトは、最初から、ずっと……。

 あ。

「なんも言い過ぎてへん。うちはそのまんま言うただけや」

「それが言い過ぎだって言ってるんだ」

 ケンカ腰になったハヤトを宥めようとして、思い留まった。ツバサさんの顔。悪戯好きの神様(悪魔か?)のような表情と、ハヤトを思い遣る表情が同居していた。一瞬、何故だかその顔がスタンプのホワイトラビットと重なって見えた。

「……俺は、育ち方を間違えた」

「なに? うちらの育て方のせいにするん? しばらく見んうちに随分立派になったなあ、隼人」

 こっちはこっちでヒートアップしている。滅茶苦茶怖いぞ、お母さん。

「どういうことだ隼人?」とお父さんが促した。たぶん、この中で一番まともな人だ。

「……育て方じゃない。俺の育ち方だ。選択肢は無限にあったはずなのに、俺は他人の評価を上げることを目指して生きてきた」

「せやな。つまらんやっちゃて、思うとったわ」

「……少し隼人に喋らせてやってくれ」

 狂犬に手を焼く飼い主みたいだ。段々と高坂家の力関係が見えてきた。

「……ともかくだ。俺は間違いに気付けた。京都でリョウと出会って、あの体育祭のときみたいに、性別すら超えて輝けるリョウを見て、俺は初めて他人に憧れたんだ」

「体育祭、どえらい可愛いかったもんなあ。いまもやけど」

「そうだな。そこに異論はない」

「なんか、すみません……」恥ずかしさやらで、俺はどんどん小さくなっていった。……着替えたい。あとツバサさんが立てた親指をへし折りたい。

「いますぐに自分を変えることは出来ない。だけど、リョウが隣にいてくれれば、リョウが俺を認めてくれれば、俺はもう一度前を向けると思う」

 ハヤトは口を閉じた。真っ直ぐにお父さんの目を見ている。お父さんが先に視線を切った。冷めた烏龍茶を一口。そして。

「その感情を依存というんだ」

 刑罰を宣告する裁判官のような声で、ハヤトのお父さんはそう言った。

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