第30話 ホワイトラビット①

 俺にしては珍しく寝坊した月曜日。霧雨で街が煙っていた。

 身体と心が筋肉痛でバキバキだった。もしかしたら心のほうは二、三本くらい骨折していたかもしれない。一限目の休み時間にこっそり登校すると、隣の宮原さんに「おそよう」と笑われた。

「休みかと思って慌てたぞ」

「出来るなら休みたかったけどな」

 寄ってきたハヤトにそう返した。ハヤトと放課後に打ち合わせをする約束をしていたから来たようなもんだ。

「明日からモーニングコールしてあげたら、高坂」

「一発で起きんじゃん? タカトの声なら」

 わざわざそれを言いにきたのか、熊谷と杉戸は。

 なんだろうか、この……。

 体育祭の前後、いや二学期からか。俺を取り巻く環境が一変した。傍目には「いいこと」なんだろうが、俺としては複雑だ。陰キャでコミュ障という属性の俺の居場所が、どんどん削り取られていっている。家でも学校でも。

「すっかりリア充だな」

「そうじゃない」

 俺は心底疲れ切った声でハヤトに解説した。放課後。横浜駅近くの古い喫茶店。ここは滅多に学生が来ないので比較的安全な場所だ。

 コミュ障は二種類いる。喋れる奴と喋れない奴だ。俺は前者で、その気になれば誰とでも結構喋れる。替わりにHPがガリガリ減っていく。喋っている間、ひたすら気を遣うからだ。ハヤトや熊谷は平気だが、それ以外、杉戸や宮原さんでもまだ神経を使う。リア充なんてとんでもない話だ。

「まあそれはいい。それより本題だろ、ハヤト」

 俺が促すと、ハヤトは軽く頷いてスマホを見た。「着いたみたいだ」って、誰の話だ?

「どうもー、女子大生改め漫画家の高坂ツバサでーす」

「……!?」いきなり両肩を叩かれて、俺は椅子に座ったまま飛び上がった。ツバサさん? なんでここに!?

「呼ばれたらどこでも駆けつけるでござる。可愛い彼女ちゃんのためでござれば、例え火の中水の中」

「……いや、呼んでないですけど」彼女ちゃんて。

「うわ、迷惑そう」

 ……いや迷惑じゃあないですけれども、ちょっと神出鬼没が過ぎる気が。

「悪い、リョウ。俺が呼んだんだ。力を貸して貰おうと思ってな」

 ハヤトの口調に、俺は本題を思い出した。ハヤトの両親と会う。これは俺たちにとって一大事に違いない。……のだが。テヘペロみたいな顔をしているツバサさんを見て、俺は大きな溜め息を吐いた。なんというか、力が抜けた。



「単刀直入に言うけど、ウチの親、リョウくんのこと女の子だって思ってるから」

「はい?」

 単刀直入過ぎてツバサさんの話が頭に入ってこなかった。

「体育祭のときアヤちゃんのコスプレしてたでしょ? アレ初見じゃ男の子って分かんないって」

 ツバサさんの言葉にハヤトが頷いた。ただどこか得意げな顔は、「俺は分かったけどな」とでも言いたいのか。……はいはい。

「そのあとで色々話が流れて、アヤちゃんの中身が三橋稜くんって男の子だって、知れ渡ったのよ。でもほら、ウチの親すぐ北海道帰っちゃったから」

「あー……」なるほど、そういうふうに説明してくれれば理解出来る。

「リョウくんのご両親も、そのことに触れなかったしね」

 ……保身に走ったな、あいつら……。

「そういえば三人とも、なんで体育祭に来てたんだ? そういうの顔出す親じゃないだろう? もちろん姉ちゃんも」

 至極もっともなハヤトの疑問だった。基本的に来ていたのは近所で、時間もある保護者。あとウチの両親のような暇人というか変人くらいのはずだった。

「今さら? お父さん、次の異動でこっち戻ってくるから、挨拶回りのついでに寄ったって言ってたじゃない」

 呆れた口調のツバサさんに、ハヤトは「聞いてなかった」と。おいおい、しっかりしてくれ。とんでもなく大事な話じゃないか。

 両親のことは大体状況が見えた。じゃあ。

「ツバサさんは?」

「私? 私は物件探しのついで。大学中退したから、来週からこっちで一人暮らしするの。仕事場兼用のマンション、今日契約してきたの……でござるよ」いやそのゴザル要らないから。……っていうか。

「中退!?」ハヤトと俺の声がハモった。

「漫画家で食べていける目処が立ったからね。学費も時間ももったいないし」

「そんなの、あの二人が許さないだろう?」

 ハヤトの声から温度が消えた。……そうだ。ハヤトの自己肯定感の低さは、ツバサさんとの比較による。両親の影響が大きいだろうことは、ハヤトのこの反応からもよく分かった。

「まーねー。だから絶賛ケンカ中」

 ……しれっと、まあ……。

「だからね、ちゃんと対策立てないと、水曜やばいよ。機嫌最悪だからね」

 シャアシャアと言うな、しかしこの人。半分はツバサさんの仕業じゃないか。

「……だから力を貸すなんて言ってきたのか」

「もちろん、それだけじゃないよ」

 ツバサさんは俺とハヤトの手を取った。そして重ね合わせる。横を向くとハヤトもこっちを見ていた。驚きと恥ずかしさ。俺も同じ顔だ。

「私は最初から、隼人の恋を応援してたからね」

「……知ってました」

 ツバサさんも、あの変なウサギ、ホワイトラビットも。ずっとハヤトの味方だった。不思議の国ではないが、この奇妙な未来へ、俺を連れてきた。いや連れてきてくれた。俺もまた味方をして貰っていたということを、ずっと俺は知っていた。

「……まして、弟が腐の道に進むとあっては……グフフ」

「姉ちゃん、……本音が漏れてる」

 ……はい。そういう人なのも、知っていました。



「……これしかない、か」

 施錠をした自分の部屋で俺はベッドに置いた服を眺めていた。これは戦だ。勝ち負けのある戦いには、相応しい服がある。勝負服というやつだ。

「女の子で通しちゃおう。ほとぼりが冷めて、あとに引けなくなった頃に、実は、ってやればいいから」

 ツバサさんらしい雑な作戦と思ったが、それ以上の対案が浮かばなかった。

 大きく息を吸い込んで、細く長く長く吐き出した。……よし。肚は据わった。

 火曜日の夜に両親が戻るというので、学校から帰るその足でハヤトのマンションに向かい、以前に新宿でハヤトが買った服と、ツバサさんがくれたメイク道具を引き取った。万一両親に見付かれば話がややこしくなるし、今さら俺の家に女物が増えたところでどうということもない。

「ちょっと寂しいな」

 ハヤトが感傷的な横顔を見せた。

「いつか一緒に暮らすかもしれないし」

 と、俺はもちろん冗談のつもりで言った。だがハヤトは目を輝かせて「同棲か。それはいいな」と笑った。「ルームシェアだ」と訂正しようとしたら、抱き寄せられて口を塞がれた。

 体育祭のあとから、キスは何度かしているし、いまみたいな軽いハグもしている。その度に瞬間的な緊張感とくすぐったいような恥ずかしさが身体を通り抜けて、ほかの何にも代え難い充足感が残る。

 ……そうだな。俺はやっぱりハヤトが好きだ。友達としてとか恋人としてとか、そういうのは分からない。ハヤトの全てが欲しくて、自分の全てをハヤトにあげたい。これは、そういう「好き」だ。

 ハヤトの隣が俺の居場所で、俺の隣がハヤトの居場所。そうあり続けられるように、明日は最善を尽くす。それだけだ。

 そして、その水曜日は来た。

 ブラウスはワイシャツより生地が柔らかく、ボタンが小さくて留めにくい。

 聞いてきた通りスカートは少し長い。杉戸と熊谷が教えてくれたように腰のところで巻き取ればちょうどいい長さになった。……なんかゴワゴワする。慣れるものなのか?

 下に履くものが紺のソックスか黒のタイツかで、宮原さんと熊谷が揉めていた。これは宮原さんに軍配だ。悪いな熊谷。黒タイツはトランクスの上には無理だ。

 ネクタイの代わりのリボンに一瞬戸惑ったが、スナップで付けるタイプで簡単だった。

 上着は男子用と変わらない。ボタンが一つ少ないのと、シルエットが少し女性向けになっているだけだ。

 前髪を自分で切ったら「パッツン・オン・眉毛」みたいになってしまった。ま、まあこの服装には似合うだろう。木曜からどうするかは、今日を生き延びてから考える。

 鏡の前に立ち、最後に(何故か)熊谷がくれたヘアピンで髪を留めた。これで女子高生、三橋稜の完成だ。

「……大丈夫だ。今日も俺は可愛い」

「そうね、すっごく可愛い」

「お兄ちゃん、メチャクチャ可愛い!」

「出会った頃のお母さんみたいだ」

「ワン!」

 ……どっから湧いてきたの? この人たち?

 追い立てられるように、俺は家を飛び出した。スマホにはハヤトからLINEが来ていた。「一二時半に中華街の朝陽門で待ってる」という一文と、大きく手を振っているホワイトラビットのスタンプ。ハヤトの両親とは午後一時に中華料理店で待ち合わせだ。飲茶らしい。それがどんなものか、俺はイメージでしか知らない。

 先に着いていた俺を見付けたハヤトは、ものすごく驚いて何故か顔を真っ赤に染めた。

「可愛いだろう」と言ってやると、黙ったまま頷いた。……やめろ。こっちが恥ずかしくなる。俺を立たせているのは気合いと虚勢。俺もけっこうギリギリなんだ。

 ツバサさんの計画通りに、今日は女子のフリをして乗り切る。そのためにわざわざ女子制服まで着てここへ来た。俺は女子。俺はハヤトの彼女……。ここまでそう自分に言い聞かせてきて、心の準備は完了している。



 ……その結果。

 ハヤトのお父さんはイケメンボイス、世に言う「イケボ」でこう言った。

「きみが三橋稜くんだね」

 はい、いきなり話がちがーう!!!

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