第29話 真面目な話
「お前一度医者に行ったらどうだ」
これは体育祭の日の家族会議の折に父親が発した言葉だった。
「確かに」
色々考えた上で、俺はそう答えた。俺は頭の病院に行くべきかもしれない。
「あ、悪い。そういう意味じゃないんだ」
父親が言わんとしていることは、一応、真面目な話だった。
「俺も詳しくは知らないけど、性同一性障害の診察なんかで、染色体検査ってのをやることがあるんだそうだ。つまり、身体がちゃんと男かどうか医学的に調べるって話だな」
性同一性障害。……もちろん言葉は知っていた。身体と心の性別が違うとかいうアレだが。
「父さん。俺は別に女になりたいとかじゃ」
「いやお前チビじゃん」
突然言葉で殴られた。
「華奢だし女顔だし。全然俺に似てないだろ?」
……見えない拳でオラオラされた気分だった。スタンド使いかこのオッサン?
「お父さん、ちょっと言い過ぎ」
さすがに母親が窘めたが、クソ親父は「そうか?」と涼しい顏をしていた。
父親は一八〇センチ越えで、顔も厳つい系だ。確かに俺と似ている要素は少ない。目が二つで鼻と口が一つずつというくらいだ。
そんなわけで俺は母親に付き添って貰い、関内にあるメンタルクリニックを訪れた。
全く知識がなかったが、この方面の先生というのはカウンセリングも得意らしく、自分史の話を聞いて貰っている間に俺は何度か涙を流した。「頑張ったんだね」と言われて初めて、自分が頑張っていたんだと知った。
現代の理論だと「性」というものには実に多くの種類があって、いまの俺は極めて不安定な状態らしい。
「一番近いのは、女性の身体に男の子の心という状態かな。身体に引っ張られて、心が男性と女性の間で揺れているんだ」
「……あの、一応俺、一応身体も男なんですけど。えーと、一応」微妙な心境で何度も「一応」と言ってしまった。
「そうだね。だから、やっぱり一度染色体を見てみよう。何か出るかもしれないし、出なくても、君が将来について考える上での指標の一つくらいにはなるだろう」
そういうものかと納得して、俺はこの日に血を抜かれた。翌月結果を聞きに行ったら「正常なXY型」ということで、何の問題もなく男性だと判った。安心したような、そうでないような。
この先生も一言多い人物だった。診察のお礼を言って立ち上がった俺を見て。
「うん。君なら今日からでも女性として生きていけるだろう。ウチの院は性別変更のサポートまでやってるから、その気になったらいつでも来なさい」
俺は無言で会釈をして、診察室をあとにした。もう二度とここに来ることはないだろう。全く、どいつもこいつも……。
染色体のことは空振りで終わった感があったが、この件は俺に知識を与えた。つまり改めて、俺の将来には具体的に複数の選択肢があると知ったということだ。
俺は男として生まれて男として育った。外見はともかく、自分が「男」であるということに疑問を持ったことはない。「心は女」なんて発想自体、思い付きもしなかった。
ただ。まだ小さかった頃に、あまりに周りから女の子扱いを受けたもんだから「女の子に生まれたほうがよかったのか?」と考えたことがあった。
だがそれは、あくまでこの外見があっての話だ。もし女に生まれていたとして、父親譲りの体格と顔面だったら、いまと全く逆で「男に生まれていれば」と思ったに違いない。たぶんそれが俺という人間だ。医者先生が言っていた「身体に引っ張られて心が揺れている」とは、きっとこういうことなんだろう。あの先生は一言余計だったが、ちゃんと俺の中身を診てくれていた。
将来的にどうするのかを、ちゃんと決めないといけない。ハヤトとも親ともよく話す必要もある。その上で「俺がどうしたい」のかを考えよう。
というわけで医者先生の話を軽く両親に報告したら。
「女の子になったら、高坂くんと結婚できるじゃない」と母親は言い。
「お前、進路希望票にそんなこと書くなよ。三者面談で笑っちまうから」と父親は大笑いした。
……駄目だ。やっぱりこの二人に相談するのは絶対にやめよう。
日曜日のデートは恒例行事となり、俺はハヤトと色々な場所に行った。上野の動物園、秋葉原のコスプレショップ。江ノ島、八景島……、横浜やみなとみらいにも。毎回当然のように女装をしているが、ついに地元でもさほど気にならなくなってしまった。一度だけ、新横浜のラーメン博物館には元々持っていた男物の服で出掛けたが、むしろこっちのほうが違和感だった。なんというか、裸で出歩いているような。
……良くない傾向だ。
家に帰って着替えようとすれば、部屋着がいつの間にか女物になっていた。クローゼットも半分くらいが女物の服に。ある日とうとう俺の制服の隣に女物の制服が掛かっているのを見て、俺は第二回家族会議を招集した。
「似合うと思って……」
開始早々に母親が一言。
はい。家族会議終了。お疲れ様でした。
「でもお兄ちゃん。将来の夢がニートより、ハヤトくんのお嫁さんのほうが、まだいくない?」
「いくない、じゃなくて良くない? だ。日本語はちゃんと使え莉里」
というか、俺がニート志望だとなぜ知っている? てかお嫁さんて。
「うわ真っ赤」
「莉里、お兄ちゃんで遊ぶのやめなさい」
そうだぞ莉里。兄で遊ぶのはいくない。いや、良くない。
「……お前さ、稜。最近の日曜と少し前の日曜、どっちが楽しい?」
珍しく真面目な顔で沈黙していた父親から出てきた質問に、俺は首を捻った。
「独りで部屋に篭ってたお前と、高坂くんと出掛けてるお前。どっちがお前にとって好ましいかって質問だ」
……答え難いことを。助けを求めてマイケルのほうを向くと「ワン!」と助言された。
「……ワン」
「ワンじゃない」と三人同時に。そうでしょうとも。
「……どっちもだよ。どっちも俺だし、どっちも楽しい。比べるようなもんじゃない」
……嘘、じゃあない。ハヤトとの時間が増えて、確かに趣味の時間が減っている。だからどうしたって話だ。単に時間の使い方の話じゃないか。
「はい!」
莉里が元気よく手を挙げた。「はい、莉里さん」と母親。なんだこの茶番感。
「お兄ちゃんの部屋で、こんなものを見付けました」
「……! おま、それ……!?」
莉里が卓袱台に広げたのは、俺が小二のときに描いた「理想の俺」の絵だった。少し前に燃やすために発掘したが、なんだか忍びなくてそのままにしておいたものだ。莉里……。
「りそうのオレ。カッコいいオレ」
「……やめろ……」
なんかやたら細長いイケメン(?)のイラストの横に、下手クソな字で丁寧な解説が書かれていた。「キンパツ」ってなんだ。馬鹿か?
「ちょっと高坂くんに似てる?」
「あー、確かに」
母親の適当なコメントに莉里が適当な相槌を打った。似てないって、全然。ハヤトのほうが一〇万倍格好いい。
「それでコレが幼稚園の年長さんのときね」
……は? なんだソレ!? 母親が出してきたのは、見覚えのない紙だった。「おかあさんありがとう」と印刷された紙。たぶん母の日に描かされたモノだ。
母親と思しきクリーチャーと共に……。
「おおきくなったら、ママみたいなおひめさまになります。……お前の字だな、稜」
「……弁護士を呼んでくれ」
「お姫様ですって」
「お母さんたちの中で一番可愛かったもんね」
「いまだって一番可愛いぞ。俺の中じゃずっとお姫様だ」
俺を無視して会話が続いていく。……誰か、助けてくれ。この家じゃ重大な人権侵害が罷り通っている。コイツらの血は何色なんだろうか?
もう一度助けを求めてマイケルを見た。マイケルも俺を見た。リードを咥えて。そうだな、お前の言う通りここは一旦……。
「あ、お兄ちゃん逃げた」
やかましい。戦略的撤退だ。こんな敵しかいない家にいられるか。
普段マイケルの散歩は莉里か母親が担当している。滅茶苦茶走らされるので、俺の体力じゃ持たないからだ。だが今日はそれがちょうど良かった。もう何も考えたくない。
家の近所を何周も走って、公園の水道でマイケルに水を飲ませていたら、ポケットの中でスマホが振動した。ハヤトからLINE通話だった。
「水曜の昼、時間取れるか?」
……水曜? ああ、建国記念日だ。それにしても、ハヤトの声が硬い。
「大丈夫だけど、どうした?」
ハヤトは少しの逡巡ののちに、決意したように「あのな」と切り出した。
「……俺の両親が、リョウに会いたがってる」
事態は進む。過去は掘り起こされる。当人の苦悩や思惑なんか意にも介さずに。
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