第26話 体育の祭典

 金曜日。体育祭の日。朝だけ雨でそのあと快晴という最悪のコンディションで、その日は訪れた。

「祭りって言うからには、最初は楽しかったんだろうな」

「行事を決めるほうは楽しいだろ。自分は走んなくていいんだから」

 季節外れに蒸し暑いグラウンドに集合したとき。誰かがそんな感じのテンションの低い話をしていた。実際、ウチの高校の体育祭は盛り上がらない。どちらかと言えば進学校で、スポーツに秀でているという話はあまり聞かない。確か今年は水泳部が関東大会まで行ったとか何とか。ただし、校内にプールはない。……とまあ、そんな具合だ。

 なのに、例年体育祭だけはスタンドのあるわりと立派なグラウンドを借り切って行われる。理由は謎だが、湿った地べたに座らなくて済むのはありがたい。迂闊に広いせいで暇な保護者が観覧に来るのが余計だが、共働きの三橋家は誰も来ていないから問題はない。昨年同様、閉会までダラダラと過ごすだけだ。ただし、応援合戦以外は、だが。

「いいかお前ら、E組だけには絶っ対っに負けるなよ」

 これは例外だ。

「って言うかさ、イッチはなんでそんなに目の敵にしてんの? E組のこと」

 よく訊いた、杉戸。たぶんクラスの全員が同じことを考えて、視線が市ヶ谷先生に集中した。

「それは、……大人の事情ってやつだ」

 それだけ言って、市ヶ谷先生は教員ブースのほうに逃げた。ひどい教師だ。

 ちなみにこの件は熊谷が情報を仕入れてきて、後日にクラス中で共有された。市ヶ谷はE組の担任堀切先生に片想いをしていたが、手をこまねいているうちに堀切先生はどこぞの御曹司の婚約者となってしまい、それを逆恨みしていたそうだ。

「金色夜叉かよ」と名栗が口にしたのがウケて、市ヶ谷のあだ名が「カンイチ」となるのはもう少し先の話だ。

 ともあれ、体育祭は俺の想定通りにダラダラと進行していった。一部、主に女子の間で、誰それが八〇〇メートルで速かったとか、B組にあんなイケメンがいたかとか、小さな盛り上がりが湧いては消えていた。一方男子のほうでは一度女子の胸のサイズの話で盛り上がりかけたが、女子たちの視線というブリザードで鎮火してからは、葬式のようになっていた。

 そんな中ハヤトは。スタンドの一番上の席で特に誰と交わるでもなく、まるで一流アスリートかと見紛う佇まいで静かに一人の時間を過ごしていた。……ずっとこの調子だ。最近は。

 万全じゃないのか、それとも表情を隠すためか、マスクを装着して、他の連中との交流を避けている。杉戸ですら必要以上には近付かず、俺に至っては結局学校では一度も言葉を交わしていない。興味と揶揄と同情で混沌となってしまった噂という風評も意に介さないという顔で、ただ独り、そこに座っていた。

 ……お前を一人にはさせない。肚を据えた俺の決意は、もう揺らがない。待っていろハヤト。必ずこの「糸」を、お前に握らせてやる。



 一体俺の心臓が何をしたというのか?

 よほど前世で悪行を積んで、俺の胸の中に輪廻転生したのか?

「なんか応援合戦とか? やるんだってな、お前の高校」

 滅多に顔を合わせないことで「Sレア」認定している父親が、昼食の弁当を食べていた俺の前に姿を見せた。

「莉里は学校だけど、母さんもマイケルも来てるぞ。頑張れよ」

「……ちょっと待ってくれ、父さん」

「どうした?」どうした? じゃない。

「なんで、ここに、いるんだ?」

 まずい。動悸が、息切れが。……分かった。これは夢だ。実はまだ家で寝ていて、起きたら今日という一日が始まるんだ。いくらなんでもここまで悪どい現実があるはずがない。

「普段全然構ってやれないからな。母さんと有給合わせて来た。ああ、お世話になってる高坂くんのご家族にも挨拶したぞ」

 父親が顔を向けた先。どっちもハヤトによく似たご両親と……ツバサさんが、俺に気付いて会釈をくれた。ウチの母親とマイケルも一緒だ。マイケルお前、俺には振らない尻尾をブンブン振り回して。ああ、ハヤトのご両親。初めまして。いつもご子息には大変お世話に…………。

 現実か、これ。現実なのか。

 そんな馬鹿な話があるか?

 決意もなにもない。もう足元がグラグラで、立っていることだけでも奇跡のようだった。

「……どうすんの三橋?」

 上機嫌で保護者席に戻る父親を見送ったあと、さすがに哀れみの顔で熊谷が訊いてきた。

 応援団長で実質的なプロジェクトリーダーの熊谷は、当然俺が何をするか知っている。だが何のためにそれをするかまでは教えていない。言えるわけがない。

「……私が代ろうか?」

 珍しくもありがたい申し出に、俺の心は……揺らがなかった。これは俺がやらないといけないことだ。俺がやるべき「俺のやりたいこと」に間違いない。ハヤトと一緒に地獄を歩いていくつもりだったものが、地獄のど真ん中に飛び込む話に変わっただけだ。

「ありがたいけど、お前じゃあの旗、持ち上げられないだろ」

 俺がそう言うと、熊谷は「まあね」と笑った。それでも代役を申し出たのは、なんだかんだでコイツも悪い奴じゃないからだ。……と思わせてくれないのが熊谷だった。

「スベったら即死だね、三橋」

「最悪なこと言うな」バカヤロウ。なんてこと言うんだ。ほら心臓が。あーあ……。

 一番上の席で黙々とコンビニのパンを食べているハヤトが、俺たちの家族の出現に気付いていないわけがない。孤高と呼ぶに相応しい、だが俺が好きになったハヤトとは明らかに違うその姿に、俺は決意を新たにした。

 あるいは家族の前で、ハヤトは一層頑なに、俺の差し出す「糸」を撥ね除けるかもしれない。しかし、それはハヤトが決めることだ。別々の地獄を歩むなら、それもまた俺たちの道だ。

 昼休憩の終わりを知らせるチャイムが鳴った。リレーに参加する生徒がグラウンドに招集され、ハヤトや越生、名栗たちが降りていった。応援合戦はこの後すぐ、一年A組から始まる。持ち時間はそれぞれ三分。つまり猶予は二四分。準備のため、俺は席を立った。俺のあとに杉戸と宮原さんが続いた。二人はカモフラージュと、準備の手伝いを申し出てくれていた。



 クラスの連中の前では、旗持ちは宮原さんのままということになっている。……この姿の俺を見て、一体どんなことになるのか?

「……凄いね、本当に、三橋くん」

「ねー。写真で見た以上だね。ホンモノじゃん」

「ドリキャス知ってるのか? 杉戸」

「三期まで全部見てるから。オケでいつも歌ってるし。や、マジで綾瀬アヤじゃん、ハッシー」

「どうも」

 ……そういやクラスの男女が結構アニメの話で盛り上がれるとハヤトが言っていたっけか。杉戸もだったか。

 普段は野球チームとかが使うのか? グラウンドのロッカールームの鍵を熊谷が手に入れてきて、俺たちが勝手に使わせて貰った。このくらいはいいだろう。幸いというか、ここには大きな鏡もあった。

「もう着ないって、……一度は思ったんだけどな」

 明るいブルーのアイドル衣装。ツインテールに結いたピンクのウイッグ。靴は赤いハイカットのコンバース。本来の衣装では白のエナメルブーツなんだが、俺はこの靴を選んだ。

「二期の八話だ」いや杉戸、詳しすぎだろ。渋滞で遅れてステージに駆け込んだ綾瀬アヤが、普段の靴のままでライブをする「神回」だ。そこでも同じ、赤のコンバースだった。

 ツバサさんが持ち帰ったはずの衣装がどうしていまここにあるのかは、割愛する。長くなるので。一言でいえば杉戸に感謝だ。

「……そういえば、戦況ってどうなってるんだ?」

 どうでもいいと言えばどうでもいいんだが。市ヶ谷がずっと騒いでいた、E組との勝負のことをふと思い出した。

「E組が一一七点でC組が四七点だって。あっちにはロドリゲス兄弟がいるしね」

 いや誰だよ宮原さん。

「その点差じゃ無理だろ、さすがに」

「でも応援合戦とリレーが、どっちも一〇〇点満点だから」と、これも宮原さん。どうなってんだ、この高校?

 そうか。じゃあまだ逆転の目はあるわけだ。本気でどうでもいいが……こんなシチュあったな、ドリキャスで。鏡の前でウイッグを固定し終えて、思い出した。確かこうだ。俺は振り返って二人の手を握った。

「じゃあ、ここが体育祭のクライマックスだね! 頑張ろ、アヤと一緒に!」

「……」杉戸が石になり。

「……」宮原さんは真っ赤になった。

 なにか。なにか言葉をくれ、二人とも。そう願っていたら、杉戸が低く「神か? ハッシー……」と呟いた。よし。いける。俺はやるぜ!

「……でもリレーでE組、トンプソンさんが出るって」

 だから誰だよ、宮原さん。

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