第21話 ぜんぶ、Fのせいだ
世の中にはどうにもならないことがある。誰でも知っていることだが、簡単には認めたくない。そう考えてしまうのは、俺がまだ世間知らずだからかもしれない。
背ビレと尾ビレを手に入れた噂は立派な魚となって、クラスという水槽の中を所狭しと泳ぎ回っていた。
「高坂が三橋に告白して、こっぴどく振られたらしい」
「元々高坂の恋愛対象は男だ」
「中学時代に杉戸と破局したのもそれが理由だ」
「高坂は三橋の弱みを握っていたらしい」
水曜日、中間テスト最終日。どいつもこいつも心に余裕ある奴ばかりだ。
「余裕だねみんな。数学とか結構ヤバいんじゃないの?」
閉じた教科書を開く気配もなくやってきた熊谷に「お前もな」と言っておいた。
「三橋こそどうなの?」
「わりと余裕」ハヤトのおかげで、とは言えない。とりあえず赤点の心配がなければ十分だ。なるほど、案外みんな余裕なのかもしれない。目の前で裏切り者とか騒いでる熊谷は別にして。
ハヤトは自分の席で、つまらなそうにノートを眺めていた。噂の主人公には誰も近付こうとしない。いや、近付けないんだ。他人を寄せつけないオーラ。俺の所持スキルをハヤトも使えるとは知らなかった。
数学、地理、英語。思った以上に手応えがあり、自己採点をするまでもなく赤点回避は間違いなさそうだった。今回の中間テストは久々に再試の心配をせずに済むだろう。たぶん。
「楽勝って顔?」
どんな顔だと思いつつ、俺は近付いてきた杉戸に「ぼちぼち」と返事をした。
「すごいじゃん。ところでさ、ハッシー」
杉戸の口調が変化し、俺は警戒アンテナを最大限に伸ばした。何を言おうとしているのか、表情からは窺えない。なんだ? 何を考えている、杉戸?
「応援合戦の旗持ち、代わってくんない?」
……どういうことだ? 反射的に俺はハヤトに視線を走らせた。ハヤトもまた状況が読めないという顔で杉戸を見ていた。
「なんで俺に?」
ほかに応じようもない。杉戸は空いていた宮原さんの前の席に座った。ハヤトに背を向ける位置だ。
「知らないうちにFになっててねー」
杉戸はブラウスの胸の辺りを指でつまんだ。はい? えふ? 何がですか?
「中学のセーラー持ってきたんだけど、入んなくってさ。去年まではCだったんだけど。あ、カップね」
カップか。なるほど、言ってたな、今年一年で大きく成長したと。CカップからFカップに。それはすごい。
「……はい?」
「だからー。胸がつかえてセーラー服入んなかったから、代わってって言ってんの!」
クラスの全員の意識が俺と杉戸の会話に向いた。声、デカすぎだ。……その前から男子の意識は杉戸の「F」に集中していたが。
「……ええと、杉戸。理由は良く分かった。それで、どうしてその話を俺のところに持ってきた? 知ってると思うが、俺は男なんだが」
「でも可愛いじゃん。ハッシーなら絶対似合うと思って。セーラー」
「おい杉戸。何を考えてる」
顔を近付けて、声を潜めた。すぐ下にはFカップ。これまでは漠然と「大きいな」くらいの認識だったものが、突然存在感を増して、思考力の半分ほどを持っていかれる。凄いなFカップ。
馬鹿なことを考えている場合じゃなかった。杉戸の次のセリフで、クラス全体が凍りつくことになる。もちろん俺も、ハヤトも。杉戸の目だけが、悪ガキのように笑っていた。
「絶対似合うって! タカトもそう思うでしょ?」
「誰がなんて言おうと、俺はセーラー服なんか着ない。ほかを当たってくれ、杉戸。話は終わりだ」
「ほんとに? 着ない?」
「着ない。絶対に着ない。俺は着ないからな」
……なんだか嫌な言い回しになってしまった。あとで熊谷と宮原さんに「フリかと思った」と言われた。断じて違う。
ハヤトは杉戸の問いに答えなかった。HRが始まる前に鞄を持って席を立ち、教室を出て行ってしまった。
「ざーんねん」
「杉戸」立ち上がった杉戸を俺は呼び止めた。しかし杉戸は軽く手を挙げただけで、振り返らずに自席に戻った。
すぐに担任の市ヶ谷先生が入ってきて、ハヤトが体調不良で早退したと言った。もちろんそれを信じた生徒は一人もいなかった。
「俺的にはアリだな」
HRのあと。誰もが落ち着かない気分で帰り支度をしている中、男子の一人がそんなことを言い出した。名栗だった。
「何がだよ、名栗」と、これは越生。
「いや三橋のセーラー服。面白いと思うぜ、マジで似合いそうだし」
「お前、やっぱ……」
「違うっての。E組に勝たなきゃなんねえんだろ、意味分かんねえけど。ならウケるほうがいいじゃん」
「名栗、いいこと言った!」
唐突に熊谷が会話に参加し、俺は頭を抱えた。面倒なことを……。
ハヤト以外の生徒が、まだ全員教室に残っていた。いや、杉戸も帰ったのか。いつの間に。
残った連中は皆この会話を聴いている。ざわざわと、そこかしこで小声がさざめく。俺のこと。噂のこと。ハヤトのこと。杉戸のFカップのこと。平和な奴らがいるな。出来れば俺もそこに混ざりたいんだが。
「賛成派、結構いるねー」
熊谷が謎のリーダーシップを発揮してクラスを纏めていた。そういや応援団長だったな、忘れていたが。
「多数決でも採る?」
「それはダメ、……だと思う」
宮原さんが立ち上がった。顔が赤い。コミュ障じゃないが、前に出るタイプでもなかった。
「こういうのって、本人の意思じゃない? 多数決って本人の意思が通らないことがあるから」
それだけ言ってすぐに座った。いい子だ。困っているときは必ず力になろう。
「……確かに、ちょっと突っ走っちゃったかな。ごめん、三橋。三橋はやらないって言ってたもんね」
俺は「そうだな」と仏頂面で頷いた。何度も言ったが、そのつもりはない。あともし熊谷が行き倒れていても助けないし、水もやらん。
「じゃあ折角だから、誰が杉戸ちゃんの代わりやるか、決めちゃおうか」
ならお前がやれと思ったが、俺は黙っていた。宮原さんの言う通りで、こういうことは押し付けるものじゃない。
「誰もやらないなら、私、やってもいいけど……」
俺の横から小さく手が挙がった。これもかなり意外だった。どうした、宮原さん?
「助かるけど……宮ちゃんだと、あの旗重すぎない?」
確かに、宮原さんは女子の中でも細身のほうだ。
「私、吹奏楽部で中学からずっとチューバだから、結構腕力あると思う。……それに」
最後のほうはモゴモゴとした呟きで、おそらく隣の俺にしか聴こえなかっただろう。俺の耳には微かに「Aだし」と届いた。気にしてたのか。……そうだ。全部あのFが悪い。
ちなみに。このあといつものマックで腕相撲をしてみたら宮原さんに瞬殺された。
中学時代まで、俺の外見は俺にとってコンプレックス以外の何ものでもなかった。しかし高一の夏に京都のコスプレイベントで女装レイヤーとしてデビューを果たし、多分このときに何かが少し変わっていたのだと思う。
そして高二の夏。京都でハヤトと遭遇し、俺の日常まで「女装」が侵食してきた。顔を隠すためだった前髪を切っても、杉戸や名栗や、クラスの他の連中から「セーラー服が似合いそう」と言われても、実はそれほど嫌じゃなかった。
いつからだろうか、すでに俺の中で折り合いがついていたんだ。俺の外見と、俺の中身。「もう一人の俺」なんかじゃない。どっちも俺、この外見で、この中身だから俺なんだと。
イベントのステージではっちゃけてたのも俺で、陰キャのコミュ障も俺。そして、ハヤトと一緒にいたときの俺。全部、同じ俺だ。
「ハヤトに会いたいな」
会って、話がしたい。謝罪がしたい。ハヤトが謝罪をするなら、ちゃんと聞いて、受け入れたい。俺の話もしたいし、ハヤトの話も聞きたい。
LINEのトーク画面を開いた。最後の履歴は俺からの不在通話のままで、それが堪らなく切なかった。
一〇月に入った途端、秋がやってきた。急に朝の気温が下がり、わざわざ衣替えと言われなくてもブレザーのジャケットを羽織る必要性を感じた。
登校途中、まばらに存在する夏服の奴らを見て、全員運動部だなと勝手な想像をした。
「おはよう、三橋くん」
「おはよう」
すっかりルーチンになった宮原さんとの朝の挨拶。もうすぐ予鈴が鳴り、駆け込み組のハヤトと杉戸、熊谷が姿を見せる。
しかし、いつまで経っても、本鈴と共に市ヶ谷先生がやってきても、ハヤトは教室に入って来なかった。
一限目のあと、「風邪だって、タカト」と杉戸がわざわざ席に来て教えてくれた。
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