第19話 修羅場は突然やって来る
なんだかずいぶん溜まってしまっていたアニメ録画を自分の部屋で一挙放送していた日曜日。母親からは「勉強しろ」と叱られ、マイケルと莉里には奇妙なものを見る目を向けられた。
結局この一週間、一度もハヤトと会話をすることはなかった。当然LINEも沈黙していた。……いや、これは語弊がある。LINE自体は実に騒がしかった。熊谷、杉戸、宮原さんと俺でグループトークをするようになったからだ。
「結局、旗は誰が持つの?」という熊谷に、「杉戸に頼みたい」とレスした。「いいと思う」と宮原さん。少し遅れて杉戸から「了解」というスタンプが来て、ひとまず体育祭の件も落ち着いた。俺的には。
学生服は男子の中学時代のものや、いれば兄弟から集めるということで、取りまとめは団長の熊谷が担当した。結構難航しているらしく、LINEで散々愚痴っていた。
旗持ちのセーラー服は杉戸が自前で。旗の製作とか小道具の準備は宮原さんが受け持った。明日から中間テストだというのに、誰もその話題に触れないところが清々しかった。
また杉戸はもちろん、あとの二人も俺の様子がおかしいことに気付いていたフシがあるが、そのことも何も言わずにいてくれた。どう思われているかは知らないが、ひとまずはありがたかった。
昨日までに最低限の勉強はした。今日は英気を養って、明日は仕上げをご覧じろだ。唯一、いや唯二つ懸念があった数学と物理も問題はなさそうだった。「おうちデート」と称した勉強会の恩恵、つまりハヤトのおかげだ。
「……嫌なこと、思い出したな」
先週なのにずいぶん昔のことのようだ。記憶に現実感が欠乏している。もう一人の俺の分の記憶に違いない。
ハヤトとの時間が嫌なわけじゃなかった。一緒に蘇る感情のフラッシュバックが嫌なだけだ。楽しい、嬉しい、美味しい。ポジティブな感情の記憶ほど、俺の心に濃い影を落とす。
「……くそ。つまらないな、このアニメ」
観ていたアニメが全く頭に入ってこず、停止して録画データを消した。半分は八つ当たりだったかもしれない。
ハードディスクの中の録画データを漁っていて、中学時代からずっと保存しているアニメのタイトルが目に入った。「ドリームキャスティング!」。もちろん綾瀬アヤが主人公のアニメだ。三期まで全てハードディスクに残っている。もちろんブルーレイも持っている。
ドリキャスを再生する気は起きなかった。代わりにというか、タイトルを見て思い出した。コスプレ衣装、ハヤトに預けたままだ。……まあ、もう着ることはないだろう。俺と綾瀬アヤを繋いでいた何かが、切れてしまった。
LINEの通知が鳴った。また熊谷の愚痴だろうと思いながらスマホを点けた。……違う、ハヤトだ。
「ハヤト!?」
座椅子の上で飛び上がったら、派手な音がして背もたれが壊れた。ついに寿命だ。長い間ありがとう。
「何してる?」
何してる、って。「アニメ観てた」と返したら、「余裕だな」と返信が来た。
「ところでお前、綾瀬アヤの衣装、持って帰ったか?」
……またタイムリーな話題を。これがシンクロニシティってやつか?
「いや」
「そっか。じゃあ姉ちゃんだ」
「ツバサさんが?」
「マンガの資料に詳しく見たいとか言ってた。持って帰るとまでは思わなかったけど」
相変わらず自由な人だ。まあ着る予定はないから、問題はない。そう送ろうと思ったが、送信前に訂正した。
「当面着ないから大丈夫」……当面、と付け加えたのは俺の弱い部分だ。これはハヤトがどう思うかとかじゃなく、コミニュケーション弱者として強い言葉を避ける癖があるだけのことだ。他意はない。
「悪いな。冬休み前には返すように言う」
「分かった」という俺の返信でトークは終わった。そのまま待っていたが、あの変なウサギは来なかった。しばらくしてLINEが鳴り、熊谷から「越生マジ死ねばいい」という愚痴が入った。
ハヤトからLINEが来た。
同じタイミングで同じことを考えていた。
あのウサギのスタンプは来なかった。
たったこれだけのことで、感情が浮き沈みした自分が腹立たしく、煩わしかった。
月曜の中間テストは四教科。つつがなくとは言えないが、文系科目が多かったこともあって、初日を終えたあとの気分は楽だった。
教室のあちこちで「ぎゃー」とか「わー」とか喚き声が聴こえたが、悲壮感はない。まあ深刻に落ち込む奴は騒いだりしないだろう。
それぞれ仲の良いグループで固まって答え合わせをするのは、まあ風物詩と言えないこともないか。ハヤトは杉戸と。……昨日LINEで会話をしたのに、目が合うこともない。俺からも合わせようとしていないから当然なんだが。
杉戸のように、俺もハヤトと友人になれる日が来るんだろうか? とてもそんな気がしない。
「どうだった、三橋くん?」
「え? 何が?」
「何がって、中間に決まってるでしょ」
宮原さんの質問に間抜けな声を出した俺に、熊谷が心底馬鹿にした目を向けてきた。
「……ああ。ぼちぼち、かな」
「へー、余裕じゃん」
「凄いね、三橋くん」
「いやそうじゃない。俺なりのぼちぼちだから。赤点じゃないだろ、ってくらいで」
「なんだ。だと思ったー」
熊谷が安心したように胸を撫で下ろした。……なんだこれ。俺はいつの間にかリア充になっていたのか? そんなわけないが。
宮原さんが話し掛けてくれるようになって、俺を取り巻く環境が少し変わった。前髪を切ってきた二学期初日からだから、これもハヤトの恩恵と言える。もちろん俺が望むかどうかは別にして。
「三橋、またちょっと髪伸びたね」
「生きてるからな、一応」
熊谷に適当な返事をしながら、指で前髪を摘んだ。横と後ろはややウザいが、前髪が伸びるまではもう切らない。小学生の頃からの行きつけの美容院で「伸びるの滅茶苦茶早い」とお墨付きを貰っているから、それほど先のことじゃないだろう。だが。
「ちょっと女の子っぽいね」
熊谷がピンポイントで嫌なところを刺してきた。
「失礼だよ、碧ちゃん」
そうだぞ、本当に失礼な奴だ。熊谷を窘めた宮原さんに俺は激しく同意した。
「男の子なんだから、可愛いとか言われるの嫌でしょ、三橋くんだって」
……なんだろう。錆びたスコップのようなもので胸を抉られた気分だ。熊谷が顔には出さず、目の奥だけで笑っているのが分かった。コイツは俺のもう一つの顔を知っている……。
「そうかな」と熊谷が言うと、宮原さんが「そうだよ」と返した。
「三橋、ごめんね。可愛いって言ったのは宮ちゃんだけど」
「えっ」
宮原さんの目が俺と熊谷の間を何往復もした。言われてみれば確かに。悪いのは確実に熊谷だが、「可愛い」という形容詞を使ったのは宮原さんだ。
「宮ちゃんも三橋のこと、可愛いって思ってたでしょ」
熊谷が腕のあたりを指でつつくと、宮原さんはくすぐったそうに身じろぎした。
「だって、三橋くんが前髪切って可愛くなったって、クラスの女の子の共通認識だし」
……へえ、そうなんですかー……。
まるで知らなかった。女子怖い。
「表情がね。柔らかくなったんだよ、前より」
「うん。話しやすくなった」
宮原さんが熊谷に同意した。実際にちょくちょく話し掛けてくれるから、そうなんだろう。悪いことじゃない、とか思っていると。
「なんか、女の子と喋ってるみたいで」
と、宮原さんが余計なことを言った。うわあ、という顔で熊谷が「うわあ」と言った。
「熊谷の失礼は伝染するんだな」
俺がそう返したら、宮原さんが何度も謝ってきた。悪意じゃないことは分かっている。これは認識の問題だ。それも、どうやら原因は俺のほうにある。
ハヤトと親しくなって、俺に何かしらの変化が生じた。この二人をはじめクラスの女子たちにその変化を敏感に察知された。そういう話だ。極めて不本意というか、よろしくない状況と言うべきか。なにか対策を考える必要があるかもしれない。
そう考えながらハヤトのほうにチラ、と目を向けた。ハヤトもたまたま俺の方向を見ていて、久しぶりに一瞬だけ目が合った。
翌日の火曜日。二日目の中間テストとはまるで関係のない話題でクラス中が盛り上がっていた。高校生の好物的な話題。つまり恋愛系のゴシップだ。
「高坂が三橋に告白したらしい」
その噂を俺は放課後、いつもの西口マックで熊谷から聞かされた。
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