第18話 嵐のあと

「それじゃあツバサちん、八ツ橋ご馳走さま。あんまタカト、虐めちゃダメだよ」

「大丈夫。レディの扱いだけきっちりレクチャーしとくけど」

 ツバサさんの返しに杉戸は苦笑した。ああそうか、この場合のレディって、俺か。

「じゃね、ハッシー。明日ね」

「ああ。お騒がせしてごめん」

 もう一度謝っておくと、杉戸は「なんも」と手を振って出ていった。

 リビングに戻ったツバサさんはそのままハヤトの部屋まで行き、軽くドアを叩いた。

「ほら鼻垂れ坊主、出ておいで」

「鼻垂れって」

「人に歴史ありだよ、リョウくん」

 意味ありげにツバサさんが笑うと、ドアが開いてハヤトが姿を見せた。……憔悴している。ちょっと可哀想というか、申し訳ないというか。

「なんで姉ちゃんと千波がいたんだ……?」

「その話はもう終わったから。ほら、リョウくんに言うことあるでしょ?」

 う。気まずい。喧嘩した小学生が教師に仲裁される状況の百倍くらい気まずい。これが苦手じゃない奴など、この世には存在しないだろう。

「……悪かった、リョウ」と、さすがのハヤトもバツが悪そうに言った。そうだな、できれば二人だけで話がしたかったよな。

「いや、俺も悪かったんだ」

 俺の謝罪返しにハヤトが眉を寄せた。……具体的な、俺の気持ちの話をしたいけれども、ツバサさんの前じゃ無理だ。

「お前は悪くないだろう。俺が無理矢理ベッドに」

「ちょっと待て」

 だからなんで、お前は姉ちゃんの前で普通に喋れるんだ。

「どこまでしたの? 隼人。アンタまさか……」

「まだキスしかしてない」

 おい!

 ハヤト、チョロ過ぎだ……。あと「まだ、しか」ってなんだよ!

 あっさり誘導されやがって。ほらツバサさん、目は怒っているけれども口元がニヤけている。俺はリビングを見回して、ソファーの背もたれの裏側に移動した。ここしか姿を隠せる場所が見当たらなかった。本当は穴を掘って埋まりたいところだ。

「……まあ焚きつけたのも、仲良くするよう言ったのも私だけどね」

 ツバサさんは小さく息をついた。やっぱりか。京都で泊めて貰った日、俺の服を洗濯したのは、ワザとか。……そうだろうとは思っていたし、今さら腹も立たないけどさ……。

「ちょっと、仲良くし過ぎじゃない?」

 ツバサさんの声には、硬質な成分が含まれていた。言葉は軽いけれどもこれは苦言だ。俺はソファの陰から立ち上がり、頭を下げた。

「すみません。その通りだと思います」

「一六? 七だっけ」

「一六です。誕生日一〇月なので」

「うん。……いずれにしてもまだ高二なんだから、こういうことは、順序よく、時間をかけてね」

「……はい」

 全くもって、仰る通り。俺もハヤトに同じ話がしたかった。

「ほら隼人も分かった? まだ京都で初デートしてから、一ヶ月も経ってないじゃない」

 そうだそうだ。あれは断固デートじゃないが、言っていることは正しい。俺は大きく何度も頷いた。ハヤトはやや憮然とした顔で黙っている。小学生か。ツバサさんは溜め息をついた。

「だからね。コトに及ぶのは、もう少し相互理解を深めてからにしなさい、ってこと」

 ……本当にこの人は何を言っているんだ? 俺まで憮然とした顔になってしまった。



 冷静になってみると、自分の格好がツバサさんの前では堪らなく恥ずかしいことに気付いた。……杉戸にも見られてしまった。「明日ね」なんて言って別れたが、どんな顔で学校に行けばいいんだ……?

 とりあえず着替えさせて貰って、リビングのソファにハヤトと並んで座った。ツバサさんはシャワー中。「忘れてたけどパンツまで濡れてたんだ」って、一言多いんだよ。……風邪を引かなければいいけれども。

 帰って良さそうな雰囲気だったが、このままの状態でハヤトを放っておきたくなかった。なので。

「ごめん」とまず、もう一度謝った。

「心の準備が全然出来てなかった。……展開が早過ぎたっていうか。とにかくごめん」

「……俺が急ぎ過ぎてのは事実だ。言い訳にもならないが、舞い上がってた」

 ……舞い上がってたって。ぶっ込んでくるな、しかし。コイツも。俺は胸に手を当てて、スキップする心臓を落ち着かせた。一度脈が落ち着かないと、このあとの話次第では本気で生命維持に支障が出る。分かったら落ち着け、俺の心臓。もうちょっと頑張ってくれ。

「……杉戸に、あっちが本当の俺と言われたんだ」

「あっち?」

「女装した俺。厳密には綾瀬アヤのコスプレをしてる俺」

「……見せたのか?」

「ツバサさんがな」

 俺が渋面を作ると、ハヤトは少し驚いてから深く頭を下げた。気付いたみたいだ。

「悪かった。マンガの資料にどうしてもって頼まれたんだ」

「まあいいさ。済んだことだ……。ともかくさ」

 ここからが本題だ。俺は大きい深呼吸を挟んだ。

「俺は、いまの俺が本当の俺のつもりだ。少なくとも自分ではそう思ってる。もう一人の俺、……女装の俺の、中の人が本当の俺なんだ」

「……中の人か。言い得て妙といえば、そうだな」

 これで通じるとは、やはりハヤトもなかなかのオタクだ。これまでの付き合いで分かってはいたが。ツバサさんと同じリア充オタク。オタクの最上位種だ。

「俺は、中の人として、自分の役目を果たすつもりでいる。さっきはその覚悟が足りなかった。ごめん」

「どういう意味だ?」

 ハヤトが怪訝な顔をした。そうだな、もう少し説明が必要だ。

「ツバサさんが言った通りで、ちゃんと時間をかけて、順序よく物事が進めば、俺も役目を果たせると思う。ハヤトが好きになった俺の、中の人として」

「……なにを言ってるんだ、リョウ?」

 ……まだ説明が必要か? 何を言えば伝わる? そんなことを考えていたら、思い切り肩を掴まれた。……痛い。指が食い込んでいる。

「本当のお前は、こっちじゃない」

 強く肩を掴んだまま、ハヤトがそう言った。これは、いくら愚鈍な俺でも聞き逃せなかった。

「なん……だって?」

「杉戸が正解だ。本当のリョウは、あのイベントの日に、ステージに立っていたお前だ。次の日に、二条城の近くで、鴨川デルタで、最強の笑顔を見せてくれたリョウだ」

 ハヤトは腕力で俺を自分のほうに向かせた。「痛いよ」と低く抗議をしたが、聞き届けられなかった。俺は仕方なくハヤトの顔をまっすぐに見上げた。

「じゃあ、ここにいる俺は、誰なんだ」

 言葉を噛み締めた。噛み締め過ぎて、奥歯が軋んだ。歯の間から、目から、どうしようもない怒りが噴き出していた。だがハヤトは目を逸らさなかった。薄い唇がゆっくりと開く。

 やめろ。それを言ったら、終わる。

 しかしハヤトは止まらなかった。ゆっくりと、はっきりと、俺に言い聞かせるように、言った。

「いまのお前が、本当のリョウが作った、もう一人のリョウだ」

 たぶん、俺が一番聞きたくなかったセリフだった。

 女顔と言われても、チビでもガリでも、オカマでも。根暗でも、陰キャでも、コミュ障でも、なんでもいい。

 ただ、俺であろうとしている俺を、否定して欲しくはなかった。

「……帰る」

「待て、リョウ」ハヤトは俺の肩を離さない。無理矢理立ちあがろうとして、コケた。ソファの上で、ハヤトに押し倒されたような形になった。非力な自分が情けなくて、涙が滲んだ。……それ以外の理由で、涙が出るはずがない。

「聞いてくれ、リョウ」

「嫌だ」

「頼む」

「嫌だ。帰る。もうここには来ない。二度と」

 離せよ、とかすれた声で言ったら、ハヤトは俺の上から退いた。俺は緩慢に立ち上がり、ついてもいない服の埃を払った。

「学校では普通にしていよう」

 高坂。……何故かそうは呼べなかった。明日以降、学校でなら呼べるだろう。普通に。

 ハヤトは返事をしなかった。帰り支度をしても、玄関で靴を履いても動く気配のないハヤトに、俺は口の中だけで「じゃあな」と別れを告げた。



 台風一過の翌日、月曜日以降。

 「高坂」と俺がハヤトの名を呼ぶことはなかった。広くはない教室の中で、一度も目を合わすことがなく、言葉を交わすこともなかった。

 それでも険悪そうに見せることがなかったのは、ハヤトと俺が各々磨き上げてきた、リア充、コミュ障としての生存戦略の賜物だったんだろう。もともと互いに交わることのない生活圏の住人だ。

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