第17話 あらしの午後に

 ハヤトはそっと俺の身体をベッドに横たえた。ベッドが軋み、同時に少しだけ斜めに傾く感覚があった。二人分の体重に耐えかねたシングルサイズのベッドが苦情を上げたようだ。ハヤトもまたベッドの上にいた。たぶん。ずっと目を閉じていたので、正確には分からない。

「リョウ」

 首筋にハヤトの指が触れて、俺の身体が僅かに跳ねた。……どうなってるんだ? どんな状態なんだ? 薄目を開けると目の前にハヤトの上半身が見えた。両膝で俺に跨っている……のか? とりあえず逃げられないことだけは間違いない。

「今日の服も似合ってる。やっぱり可愛いな」

 ……おい。艶っぽいことを言うな。雰囲気を作ろうとするな。

「……肩が出る服は骨格が気になるから、苦手だ。男だからな」話を変えるために口にしたこれは、正直な気持ちでもあった。ワンサイドに垂らした髪を気に入ったのは肩のラインを隠せるからでもある。自分の男らしい部分をコンプレックスのように感じることがあるとは思わなかったが。

「俺は気にならない。リョウは華奢だからな」

 気にしてください。できたらそこもどいてください。

「リョウ」

「ハイ」……裏返って女みたいな声が出た。

「……色っぽい声出すなよ、リョウ」と言って、ハヤトがふっと笑った。釣られて俺も音を立てないように笑った。部屋の空気の緊張がほんの僅かだけ、緩んだ。

「ん゛っ……」

 何が起きたか分からなかった。

 口が塞がれた。ハヤトの顔が落ちてきて。

 キスをされた。すぐに分かった。なのに、何が起きたのか理解ができなかった。……たぶん、ハヤトが本当にそんなことをするとは思っていなかったからだ。

 殴られたみたいに、鼻の奥に痛みが走った。あ、駄目だ。泣く。

「リョウ……?」

「……見るなっ」

 精一杯の虚勢だった。涙が止まらない。情けない。こんなはずじゃなかった。「彼女」として……いや、彼女「役」として、ハヤトに寄り添う。中の人として。いまの関係を続けるために。そう決めたはずだった。ほんの少し前に決意表明をしたはずだった。

 ハヤトが俺から降りて、ベッドに腰掛けた。そうだ、ハヤト。仕切り直そう。もう一度ちゃんと話し合って、順序良く物事を進めよう。

 恋人なら、そういうこともするだろう。理解はしている。ただハヤトは性急過ぎた。俺は呑気過ぎた。

 歩調を合わせればいい。ちゃんと話せば、解決する問題だ。

「……水、飲んでくる」

 俺はゆっくりと立ち上がって、ハヤトの部屋を出た。そして、信じられないものを見た。心臓が止まった。いや止まってない。でもそろそろ本当に止まるかもしれない。このところあまりにも酷使し過ぎている。

「あちゃ」

 濡れネズミのような姿でリビングに佇んでいたツバサさんが、そんな声を漏らして額を手で押さえた。その隣に立っていた杉戸が俺を見てぽっかりと口を開けた。すぐ閉じた。で、また口を開いた。

「……どういう状況? ハッシー」

 それは、たぶん俺が一番聞きたい。



 女性なら、こんなときは泣いて、泣き腫らして、どうにか事態を収拾するんだろうか? だとしたら俺はやっぱり男だ。あまりにもあんまりな状況に、涙を流すことを忘れてしまった。

「いやー……とんでもないところに来ちゃったね」

 部屋着らしきジャージに着替えたツバサさんがそう言って笑った。

「ホントに」杉戸はツバサさんに同意してコーヒーを啜った。いや本当に。とんでもないものをお見せして申し訳ない。

「大学の課題に必要な資料を取りに来たんだけど。下でたまたま千波ちゃんと会って、盛り上がっちゃってね。で、コーヒーでも飲む? ……と、それがしが誘ったでござるよ」

 左様でござるか。でも、取ってつけたような「ゴザル」は不要でござる。

「そしたらリョウくんがグチャグチャに泣いてるじゃない。いいとこに来たのか、悪いとこに来たのか、分かんないけど」

 ……左様で。

 俺にも分からない。どうすればいいんだ? この状況?

 ツバサさんと杉戸と俺の三人でダイニングテーブルを囲んでいる。ハヤトは自分の部屋。

「女の子だけで話するから、アンタはそこで待機」というツバサさんの命令による。俺は女の子なのか。まあこの格好だしな……。

「でも思った以上に似合うね、ハッシー、そういうカッコ」

「でしょ、でしょ! 萌えるよね! あ八ツ橋食べてね、リョウくんも」

「……アリガトウゴザイマス」

 萎縮すればいいのか、開き直ればいいのか。とりあえず杉戸がバクバク食べている大箱の八ツ橋を一つ貰った。美味い。もう一つ食べよう。と、口に入れたところでツバサさんが。

「で、合意の上? それとも無理矢理?」

「……!!!」

 八ツ橋が気管に詰まった。「ちょっと。大丈夫? ほら水」と杉戸が自分の鞄からペットボトルを出して、俺が落ち着くまで背中をさすってくれた。実はいい奴なのか? いやいい奴なんだよ杉戸は。知っている。

「無理矢理なら強制性交罪で五年以上の懲役だからね。身内でも未成年でも容赦はせぬでござるよ」

 強制性交……性交!?

「してない! 性交なんかしてませんて!」

 なんてこと言い出すんだこのゴザル姉さん。

「じゃあどこまでしたの?」

「……ちょっと待ってツバサさん。この話要らないですよね……?」

 こんな単純な誘導尋問に引っ掛かってたまるか、と思えば。ツバサさん……舌打ちしたよ。なんなのこの人?

「じゃあ合意だったんだ、ハッシー」

 杉戸は杉戸で直球が過ぎる。

「合意……合意……」合意って、なんだっけ?

「じゃあ強制?」杉戸は引鉄を引くジェスチャーをした。銃殺?

「……合意です」

 どこまで話すか。何を話すか。

 俺に話せることは、俺の話だけだ。

「つまり、ですね……」と俺は二人に切り出した。



「そんなわけで、俺は自分で決めて、ハヤトと交際してるんです。ごめん杉戸。そういうことなんだ」

「ごめん、って?」杉戸が首を傾げた。あれ?

「いや、……前に付き合ってたって聞いたから」

「あー……、タカトから聞いたんだ」

 しまった。地雷か? 言っちゃまずいやつだったか? しかし杉戸は気分を害したふうではなく、恥ずかしそうに頭を掻いた。珍しいものを見た気がした。

「それ黒歴史だから。タカトの外面に騙されて、告っちゃったんだよね。いい勉強だったけど。いまはただの友達だよ」

 黒歴史って、ハヤトよ……。

「だから気にしないで。本人同士が良ければ、私は全然オッケー……ってかさ」

 本気でいい奴だなと思っていたら、杉戸が肉食獣のように笑った。あ、違う。八重歯だ。

「ないの? ハッシー。写真」

 ……う。またこれか。できれば何度も何度も衆目に晒したくない。いま現在女装しているとしてもだ。じゃあなんて断るか……って、どうせ無理だろうなあとは思っていたけれども。

「こんなこともあるかと思って、用意してあるでござるよ、杉戸氏」

 ツバサさんが荷物から取り出したのはタブレット。中にはまさかの、ハヤトの「三橋」フォルダ。

「漫画の資料に、隼人氏から献上して貰ったでござる」

 この姉弟……。

「へえ……凄いじゃん、ハッシー」

 杉戸は感心した様子で俺の女装コスプレ姿を見ていた。一枚一枚指でめくって、ある写真で手を止めた。コスプレイベントのステージで、綾瀬アヤに扮した俺が最後のパフォーマンスを決めている写真だった。

「なるほどね。こっちが本当のハッシーなんだ。いいじゃん」

 杉戸の言葉に悪意の要素はない。それでも、少なからず俺は動揺した。それは本当の俺じゃない。俺が作ったもう一人の俺だ。本当の俺はここにいる「中の人」のほうだ。

 杉戸は俺の動揺に気付いていたのか、いないのか。いずれにしても俺の心情など意に介する様子もなく、言葉を続けた。

「すごいカッコいいよ、ハッシー」

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