第16話 嵐の日に、したいこと
俺とハヤトが部屋にいる間に玄関扉が三回開いた。母親が買い物に行き、戻り、妹の莉里が塾から帰った。一気に家の中が騒がしくなり、これ以上の籠城は困難だと悟った。
「話を戻そう。だから、千波のことは気にしなくていい」
リョウの何かを知ったわけじゃなく、俺が千波に同性愛者だと認識されているだけだと思われる。実際のところはともかくと、ハヤトはそんなことを言った。
「分かった。まるで気にしないとはいかないけど、ハヤトがそう言うなら、気にし過ぎないようにしよう」
「女装するのか? 体育祭で」
「しないっての!」
うん。普通にハヤトと話せる。俺は大丈夫だ。案外、落ち着いている。
そんなふざけた会話をして、俺はベッドから立ち上がった。部屋のドアを開ける。目の前に莉里。……腰を抜かすかと思った。話、……聴こえてない、よな?
「晩ご飯、出来たって。お母さんが」
様子がおかしい。もちろん理由は俺の後ろのイケメンだ。
「リョウの妹さんか。友人の高坂隼人です。よろしく」
立ち上がったハヤトが会釈をすると、「莉里です」と頭を下げて、その場から逃げ去った。人見知りする妹じゃない。分かりやすいな、どいつもこいつも。
「お父さん残業だから、好きなだけ食べていってね。お肉もまだあるから」
夕飯はすき焼きだった。確か去年の誕生日はカレーで、高校に合格した日は豚の生姜焼きだった。牛肉。すき焼き、ねえ。
捨てられていた肉のラベルをさりげなく覗いたら、見たこともない金額だった。A5ランクってこんなにするのか。……まあ、ハヤトと莉里が喜んで食べているからいいか。美味いし。
食事の間に喋っていたのはほぼ母親で、俺と莉里は空気だった。ハヤトだけが母親の相手をしてくれていた。学校での立ち振る舞いと同じように。
「ご馳走様でした。じゃあリョウ、明日学校で」
「ああ」
玄関の外で、三人総出でハヤトを見送ったあと。食器を片付けに行こうとしたら、莉里に袖を引っ張られた。
「あの人が彼氏でしょ?」
「何言ってんだ、お前」
俺にしか聴こえない音量の質問に、俺は不機嫌を装って返した。「失礼だろ、ハヤトに」と。
「もうちょっと上手く隠したほうがいいよ」
揶揄うというより、真面目な助言といった口調だった。
「お兄ちゃん、女の子みたいな目、してるもん。お母さんはあの人ばっか見てたから、気付いてないと思うけど」
俺が反論を考えている間に、莉里は自分の食器を下げて部屋に行ってしまった。
莉里のあとにシャワーを浴びて、俺は洗面所で鏡と睨めっこをした。目。女の子みたいな目、だと?
「どんな目だよ」
何度見ても鏡の中には死んだ魚の目をした陰キャのコミュ障しかいない。
ドライヤーは後回しにして部屋に戻り、LINEから画像フォルダに落とした例の写真を開いた。鴨川デルタでの写真。……なんで保存してるんだ、俺? ともかく。
改めて写真を見て、俺は確信した。
あの日の京都でハヤトは恋をした。もう一人の俺という「幻」に。
俺がハヤトの恋に結末をもたらすなら。俺には二つ、選択肢がある。「幻」を見せ続けることと、「幻」をハヤトの前から消してしまうこと。
どっちがハヤトのためになる?
そう考えて、すぐに気付いた。違う。ハヤトがどうとかじゃなくて、俺がどうしたいかだ。
後者を選べば俺が解放される日が近づく。だが……。
認めたくない。認めたくはないが。俺はハヤトが好きだ。間違いない。「たぶん」ですらない。
ただこれが友情なのか恋慕なのかは分からない。誤魔化すつもりはない、本当に判別できないんだ。もしかすると、俺にはその境界がないのかもしれない。……知らないだけかもしれない。未経験ゆえに。
「さあ、どうする?」
どうしたい、俺? 顔を上げると、いつかハヤトに貰ったウサギのぬいぐるみと目が合った。ハヤトが動かしただろうそれを、俺はもう一度後ろ向きにした。
「すげー雨だあー」
「風も凄いな」
「当たり前だろハヤト。台風だ」
日曜。ハヤトの家の窓からは、暴風雨の向こうで高波に浚われる山下埠頭が見えた。うん、絶対に出掛けたくない。なのに何故俺はここにいるのか? もちろん女装も完了している。今日は大きなフリルの付いた肩の出るブラウスとデニムスカートだ。ウイッグは毛先のほうで束ねてワンサイドにしている。いいなこれ。結構好きな髪型だ。
「今日はスフレを焼こうと思ったんだが」
朝一番にハヤトから届いたLINEに「電車は動いてるみたいだ」と勝手に俺の指が返信をしていた。
危ないとか言っていた母親は「ハヤトの家で勉強する」と言ったら大喜びで送り出してくれた。これは「彼氏です」と紹介しても歓迎されるんじゃないか? とすら思えてきた。ハヤトに言ったら本気にしそうで口には出せないが。
「中華街はまたの機会だな」
予定の変更については、意外にもハヤトのほうから申し出があった。
「目的の店が臨時休業らしい」……休業じゃなければ行くのか。
「ちなみに何屋だったんだ?」
「貸衣装屋。レンタルのチャイナ服で中華街を出歩けるんだ」
「……」
最近は発見が多い。まさか台風に感謝をする日が来るとは。
ハヤトがキッチンに入っている間、俺はリビングのソファに座ってテレビを見ていた。ザッピングをしてみると五局が伊豆と湘南で台風の様子を中継していて、テレビ関係の仕事には絶対に就きたくないと思った。
毎回ハヤトにばかり朝食を作らせるのは申し訳ないと思い、手伝いをしようと思ったらキッチンからつまみ出された。「失敗するかもしれないから」という理由だった。
新宿に行ってから何度か挑戦をしたが、成功率は五〇パーセント程度らしい。生地が膨らまなかったり、表面だけ焦げて、中まで火が通らなかったりと、非常に繊細だということだ。「出来た」と声が聴こえてきたのは、ハヤトがキッチンに篭ってから実に二時間が経過した昼過ぎの話だった。
「美味しい! お店のと遜色ないよ、コレ」
「悪いな、遅くなって」
ハヤトの声は沈んでいて、顔には疲労が滲んでいた。気になってキッチンを覗いてみると、なるほど、失敗したスフレがいくつも置き去りになっていた。
「あっちのも食べるよ。腹減ってるし」
「いや、あれはダメだ」
「生焼けじゃなければ大丈夫だろ」と立ち上がると。
「やめろって言ってるだろ!」
予期しない大声に俺も驚いたが、ハヤト自身がもっと驚いていた。「悪い」とすぐ謝ってきたけれども俺は釈然としなかった。
「あのさあ、ハヤト」
「……」
「完璧じゃなくて、いいんだぞ。俺の前じゃ」
学校では学校用のハヤト。俺の前では俺用のハヤト。ハヤトは二つの顔を完璧に作り上げて、使い分けている。
完璧な自分を演じ切るために、ハヤトはずっと無理をしている。それが、おそらく俺が抱き続けている違和感の正体だ。
「……そういうわけにはいかないだろ」
「なんでだよ」
「好きな人の前で格好つけるのは当たり前だ」
それはまあ、そうかもしれないが。
「……気を休められる場所を提供するのも、こ、こ、……恋人の役目じゃないか?」
うわあ。言っちまった。恋人。強すぎる単語だ。……耳が赤くなっているのが温度で分かった。
「お試し期間じゃなかったのか?」
ハヤトが意外そうに訊いてきた。
「たぶんが取れたって言ったのはハヤトだ」
俺は一体なにを言ってるのか。売り言葉に買い言葉だとしても、度が過ぎている。
俺がどうしたいか。結局その答えは出ていない。今の段階ではっきりしているのは、俺がハヤトを手放したくないと思っているということだけだ。そのために、いまの関係を維持したい。それが「中の人」としてであっても。
「いいのか?」
「……何度も訊くな」
居た堪れなくなって横を向くと、ハヤトの息が小さく漏れた音がした。笑ったんだろう。笑うなよ。
ゴト、と椅子が鳴った。ハヤトが立ち上がった。気配が俺の背後に回る。抱き付かれるのか? というその予想は少し外れた。
「うわっ」
ハヤトは俺の両腕を掴んで、無理矢理立ち上がらせた。俺の身体が体重を失う。柔道の授業で足払いを掛けられたときのような浮遊感。……次の瞬間には、俺はすっぽりとハヤトの両腕の中に収まっていた。この体勢……まさか、お姫様抱っこか!?
「おい。待て、ハヤト」
ハヤトは俺の制止を聞かず、自分の部屋に向かって歩き出した。ハヤトの部屋には、ベッドがある。身体から一気に血の気が引いた。
「待て、コラ、待てって」
暴れようにも、この体勢ではどうにもならず。ハヤトは俺を抱えたまま器用にドアを開けた。嫌でもベッドが目に入る。
待て、ハヤト! 俺が「したいこと」は、絶対にソレじゃない!
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