第15話 土産は「おもかげ」が間違いない

「千波が?」

 俺のLINE通話に、ハヤトは思いもよらないという声を出した。熊谷たちと別れて、二人の姿が遠くに消えるのを見届けたあと。もちろん周囲に他の知り合いがいないことも確認した上での電話だった。俺はマックで起きたことをほぼそのままハヤトに伝えた。

「何か、知ってるのか? ……杉戸は」

 そうとしか思えない。「タカトが喜ぶ」とはそういう意味だ。

 俺とハヤトの関係性。

 俺の女装。

 ハヤトの性的嗜好(?)、あるいは好意を向けている対象、つまり俺だ。

 この三つのうちのどれか、もしくは全てを知らなければ、絶対に出てこないセリフだった。

 横浜駅近くの路地で、俺は自販機の陰に隠れるように立っていた。別の高校の制服を着た集団が目の前を通り過ぎる。問題はないはずだが、内心は穏やかじゃいられなかった。

「俺の家で話すか?」

 俺の状況というか、心境を察したハヤトがそう提案してきた。申し出はありがたい。だが隣のマンションに杉戸の家があることを俺は忘れていない。馬車道は虎口だ。なら。スマホを耳から離して時計を見る。一六時三五分。……微妙だが背に腹は替えられない。

「俺の家はどうだろう。夕方六時くらいに母親が帰ってくるけど、俺の部屋で話せばいい」

「……いいのか?」

 おい。なんでちょっと嬉しそうなんだ。緊急事態だと理解しているのか?

「ご両親は甘いもの好きか?」

「いい加減にしろ」

 通話は俺のほうから強制終了した。全く……。

 俺は同じ中学の奴がいない高校を選んだ。よって、少なくともハヤトの家よりは俺の家のほうが安全なはずだ。その判断自体は間違いじゃなかった。

 先に西横浜に戻り、家の近所の公園で、何故か「とらや」の紙袋を持っているハヤトと待ち合わせて一緒に俺の家に入るまで、危機感を持つような場面には出くわしてない。

 「ただいま」と儀礼的な声を出して玄関扉を開けたとき。

 靴箱の横のコート掛けに、綾瀬アヤのコスプレ衣装が掛かっているのを見て、俺は即死トラップにハマった錯覚に陥った。

「……家で着てるのか? リョウ」

 ハヤトが小声で耳打ちした。

 そんなわけあるか。その言葉を発することも出来ず、俺はただ釣り上げられた魚のように口をパクパクとさせただけだった。



「これ、姉ちゃんの衣装ですね」

 神様。ハヤト様。ハヤト大先生。

 俺は一生のうちで一番、人に感謝した。この先もこれほどの感謝を誰かに向けることはないだろうと思った。

「あら、そうだったの? 稜のクローゼットから出てきたから、てっきり」

「嫌だなあ、母さん。そんなわけ、ないじゃあないか」ハハハ。……ハハハ……。

「急に仕事がお休みになって、一日中、大掃除してたのよ。ついでに稜の冬物を干そうと思って」

 上機嫌でお茶を淹れながら、母親がそんなふうに言った。リビングダイニングと呼ぶにはおこがましい一二畳の和室。卓袱台の上にはハヤトが買ってきた羊羹。「おもかげ」という美味いやつだ。

「こんなにいいものを戴いて」

「いえ、姉に言われたものを買っただけですから」

 俺も初めて存在を知った高級そうな座布団に座ったハヤトが、膝の上のマイケルを撫でながらそんなふうに言った。衣装の件もそうだが、最初の挨拶でも。

「いつかは電話で失礼しました。クラスメイトの高坂隼人です。リョウくんには学校で良くして頂いています」と軽く嘘をついた。少なくとも俺には「良くした」記憶が全くない。

「この衣装、姉が探していたんです。リョウくんの荷物に紛れてしまったんですね」

 いや、無理がある。こんな派手な服が紛れ込んでて気付かないなら、俺は急いで眼科に行くべきだ。

 だが、通った。こんな雑な嘘が。これがイケメン力か。イケメンが言った、というだけで押し切れてしまうのか。

「稜ったら、昔からそそっかしいところがあるから」

 たぶん、それほどじゃない。俺はどちらかと言うと昔からわりと落ち着いているほうだった。……母親がイケメンに迎合するところなど見たくなかった。

「……畳んだままだとシワになりそうだから、クローゼットに掛けといたんだ」ちなみにこれは本当だ。奥の奥。普段なら誰にも見つかるはずがない場所だった。思春期の息子の部屋を漁らないで欲しい。

「でも稜にこんな素敵なお友達がいるなんてねえ。せっかくだからお夕食も一緒にどう?」

「恐縮です。でもご迷惑じゃないですか?」

「全然! ちょっと支度があるから、遅くなっちゃうかもしれないけど」

「一人暮らしなので、時間は大丈夫です」

「あら。じゃあ張り切っちゃおうかしらね」

 母親がミーハーに盛り上がるほど、俺のテンションが降下していく。

 しかし俺が内心でどう思おうと、これは起死回生の、最大にして唯一のチャンスだった。俺はハヤトの嘘に全力で乗っかり、「ツバサさんの衣装」をハヤトに押しつけた。

「助かった。本当に助かった。ありがとうハヤト」

「役に立てて良かった。不幸中の幸いってやつだな」

 俺の部屋でやっと二人きりになり、俺はハヤトに感謝を述べながら安堵の息をついた。

「で、千波の話だよな」

 ギシギシ音の鳴る座椅子に座ったハヤトがそう切り出して、ベッドに腰掛けた俺は「忘れてた」と間の抜けたことを言った。それどころじゃなかったからだ。しかし本題も「それどころじゃない」話だった。

「千波が近所だと言っただろ。あいつと俺は同じ中学なんだ。二年のときに俺のいた中学に転入してきて、卒業まで付き合ってた」

「そうなのか」

 さらっと言われたので、俺はそう受け流しかけた。……え? 何だって?

「付き合ってた? どういう意味だ?」

「男女交際って意味だろ、普通は」

 普通。……普通か。俺たちの関係が普通じゃないと、一応は認識しているんだな、コイツも。

「転入してすぐに向こうから告白されて、卒業式のあとで向こうから別れを切り出された」

「じゃあ今は?」

「友人の一人、なのか? 千波の考えは俺にも良く分からない。本人は博愛主義者を自称してるけどな」

 博愛主義者……言われてみれば、そんなふうではある。ハヤトもだが、杉戸は誰とでも仲がいい。なんせ俺みたいなのにも話し掛けてくるくらいだ。

 それにしてもハヤトは、自分のことをまるで他人事のようにサラサラと話す。目の前にいるのは、学校にいるときのハヤトのようだ。俺のほうは心中穏やかじゃない。何故穏やかじゃないのかは、考えないことにした。

「それで、ここに来るまで少し考えてた」

「……何をだ?」

「思い出してた、って言ったほうがいいか。別れるとき、タカトは男が好きなのかと訊かれたんだ」

 以前に俺が訊こうとして自制したことだ。当然、いまも疑問として俺の中に残っている。

「……違うのか……?」

 この言葉を絞り出すのに、少なからず勇気が必要だった。ハヤトの返事如何では、俺たちの関係性が変わる。望む望まないに関わらず。

「どうなんだろうな」と言って、ハヤトは座椅子に寄り掛かった。ギーと嫌な音がした。もう買い替えどきだ。

「リョウを好きなのは間違いないんだが、この気持ちが男相手のものなのか、女相手のものなのか、俺にも分からないんだ」

「たぶん好き、なんだろ?」

 俺が訂正すると、ハヤトは身体ごと俺のほうを向いた。扱いに慣れたのか、座椅子は音を立てなかった。

「お前が好きだ。リョウ。それは間違いない」

「俺はいま、……女装してないぞ」

「関係ない。……いや、なくはないか」

 ハヤトは傍らに置いていた紙袋を撫でた。中には綾瀬アヤのコスプレ衣装が入っている。

「これを着たリョウにも、また会いたい」

 ハヤトの言葉。俺を見る目。この目を俺は知っている。京都で見ている。何人もの観客たちから、ステージの上の、俺じゃない俺に向けられた目と同じものだ。俺はようやく腑に落ちた。

 こいつは、ハヤトは、俺が作り上げたもう一人の俺のファンだ。

 ハヤトの目は俺を通して「もう一人の俺」を見ている。しかしハヤトの言葉は俺自身にも向けられている。だから気付かなかった。

 ここにいる俺は、もう一人の俺の「中の人」なんだ。だから尊重するし、仲良くもしてくれる。必要なときには助けてもくれる。今日とか、越生たちに絡まれたときのように。

 だが、ハヤトが好きになった相手は「俺」じゃない。やはりコイツは、幻に恋をしたんだ。



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