第12話 崩壊の序曲

「いつの間にか憧れてたんだな、俺は。ハヤトに。知らないうちに」

 たぶんハヤトは、小さい頃の俺が思い描いた理想像に近いんだ。だから憧れるし、惹かれもした。もちろん今みたいな関係を望んだわけじゃないが。

 みなとみらい線は事故か何かで渋谷始発になっていて、俺とハヤトは隣合わせで座った。帰宅ラッシュの時間のわりに電車が空いていたのも同じ理由だろう。

「なるほどな」

 ハヤトはそう言って黙った。菊名でドアが閉まり、横浜で開くまで黙っていた。本来なら俺は降りる駅だが、こんな格好で帰るわけにもいかない。さらに先の馬車道駅まで乗ってハヤトの家で着替える必要があった。

「理解できた」とハヤトが重々しく頷いた。

「だからリョウはこんなに可愛いのか」

「お前は一体なにを聞いてたんだ」

 俺は深い深い溜め息を吐いた。「ちゃんと聞いてたさ」とハヤトは心外そうに言った。

「そうだろ。リョウが可愛いのは外見だけの話じゃない。自分で決めて、いまのリョウになった。それが可愛さの秘密だろ」

「可愛さの秘密」

 つい繰り返してしまって、背中の辺りが痒くなった。何てことを言い出すんだコイツ。

「京都で俺が見たのは、それだったんだな」

 ハヤトは腕を組んで窓に顔を向けた。横浜で地下に入った電車に車窓の景色はない。ハヤトは今、答え合わせをしている。俺も同じように反対側の窓に目を向けた。

 京都でのこと。今日のデート。スフレ。ハヤトと俺の共有した時間。鴨川デルタ。映画の異世界サメ。スフレ。服屋の更衣室……これは余計だ。

「楽しかったな」とハヤトが呟き、

「……うん」と俺は頷いた。

 それは素直な俺の感想でもあった。それだけに「素直だな」と言われて腹が立った。拳を握ってハヤトの肩を軽く小突いておいた。

 ハヤトは今日という一日で、何を見て、何を考えたのだろう。俺は、……俺を見付けた。綾瀬アヤに憧れた俺。格好いい俺に、高坂隼人に憧れた俺。それと……?

「降りるぞ、リョウ」

 先に立ったハヤトは片手で紙袋を持ち、もう片方の手を俺に差し出した。俺はその手を取った。

 この日、ハヤトが答えを出すことはなかった。俺がマンションを出るときの「また来週な」という別れの挨拶は、そういうことなんだろう。



 翌日、月曜の朝。先に席に着いていた宮原さんに挨拶をすると「おはよ」と笑顔が返ってきた。懐かしいような不思議な感覚だった。

「あ、そうだ。三橋くん、現国得意だったよね?」

「まあそれなりに。数学よりは」

 謙遜だ。他の成績は中の中ないし下だが、現国だけは学年で常にトップ一〇に入っている。それほど勉強しているつもりはないので、たぶん向いているんだと思う。だから宮原さんに「ご謙遜」と言われて「ごめん」と詫びた。

「今日小テストでしょ。ちょっとここ、解る?」

「ああ。これは……」

 俺が自分の席から身体を乗り出していたら、宮原さんが自分の机を寄せてくれた。チ……低身長で申し訳ない。

「凄い、解りやすかった。……夏目漱石って明治でしょ? なのに現国っておかしいよね」

「俺もずっとそう思ってた」

 頷いた俺の顔を、宮原さんがじっと見ていた。

「……やっぱり三橋くん、雰囲気変わった」

「かもしれない」

 何度も言われるせいか、俺も少しそんな気がしてきた。意識して変えているつもりはないけれども。

「ありがとう。またお願いするかも」

 宮原さんが机を戻したと同時に予鈴が鳴り、予鈴と同時にハヤトが滑り込んできた。あ、杉戸も一緒か。……熊谷も。何をやっているんだ。

 熊谷の少しあとに担任の市ヶ谷先生が入ってきて、本鈴が鳴った。挨拶、出欠、伝達事項とルーチンを済ませてから市ヶ谷先生は本題に入った。

「来週月曜のHRで、一〇月の体育祭のこと決めるから。知っての通りリレーと応援合戦、配点でかいからヨロシク頼むよ」

 出欠簿ファイルで教卓をゴンゴンと叩く。

「E組だけには、負けないように」

 そのあとも何だかブツブツ言いながら、教室を出ていった。見た目は好青年なのに、たまに挙動がおかしい。

「公私混同じゃん」

「てか、狂気感じね?」

 ヒソヒソと声が交わされる。E組の担任、堀切宮子先生に市ヶ谷先生がこっぴどく振られたとか、付き纏いで通報されたとか、NTRとかBSSとか、言いたい放題だ。しかし実際に並ならぬ執念を見せることから、そのうちのいずれかが正鵠を射ているんじゃないかとも思う。勝手な想像だけれど。

「リレーはタカトがいるからね」

「まあ必要なら出るよ。千波は?」

「出たいけど、ここ一年で胸育っちゃってさ。走るとき邪魔なんだよね。痛いし」

 ハヤトと喋っている杉戸に、男子のさりげない視線が集中した。俺も……と思ったが、宮原さんと熊谷がこっちを見ている。なんでだ?

「応援合戦、面倒臭えなあ」

「ならリレー出ろよ、越生も」

 俺は出るぜ、と名栗。応援合戦はリレーに参加しない生徒が全員参加になる。クラス四二人中、リレーが男女それぞれ四人、残りが応援合戦組ということだ。三四人から団長と副団長を選出して、二人を中心に演し物を決める……という流れだったはず。一年のときはひたすら影を潜めていたので、正確には憶えていなかった。なんかブブゼラ? とかいう楽器を吹いた気がする。

「三橋、団長やったら?」

「なんでだよ」

 熊谷がコソコソと近寄ってきた。もう一限が始まる時間だ。

「高校の思い出作りにいいんじゃないの?」

「そう言うなら熊谷がやればどうだ?」

「いいの? 本当に?」声にも顔にも含みがある。……おい、なにを考えている? それを糾す前に一限目の数学が始まり、準備ひとつもしていなかった小テストで俺は灰になった。



「そんなわけで、私が団長で」と熊谷。

「私が副団長」と宮原さん。なんだこれ?

「二人は仲が良かったのか」

 いつもの西口マック。三人ともアップルパイとドリンクを買って、四人掛けのテーブルを囲んでいた。

 しかし意外だ。常識人ぽい宮原さんと重度のオタクの熊谷。共通点は年齢と性別くらいだ。

「普通に喋るよ」

「うん、普通に」

 ……はい。普通じゃなくてすみません。陰キャのコミュ障ですみません。

「思い出作りってほどじゃないけど、碧ちゃんがやるならお手伝いしようかな、って」

 聞けば宮原さんは吹奏楽部に入っていて、普段あまりクラス行事に参加できないそうだ。

「体育祭のマーチングの選抜に落ちちゃって。お恥ずかしながら」

「別に恥ずかしくはないと思うけどな」

 得手不得手は誰にでもある。大事なのはプロセスで、落ちたのはただの結果だ。俺は当たり前のことを言っただけだが。

 宮原さんが驚いた顔で「ありがとう、三橋くん」と言って笑い、熊谷はニヤついた。腹立つ顔だな。

「……で、何するんだ?」

 俺は警戒レベルを最大まで上げて尋ねた。余計なことを言うなよ、熊谷。視線にメッセージを込めて送ったら、熊谷はウインクを返してきた。いちいち癇に障る。

「それはまだ。だって今日立候補したばっかりだよ?」

 熊谷がそう言ってバリバリとアップルパイの箱を破いた。まあ、それはそうか。

「だから今日は、ただの決起会。頑張ろうね、三橋くん」

「はい?」何て? 宮原さん?

「え? でも、碧ちゃんが三橋くんも手伝ってくれるって」

 オロオロと狼狽えはじめた宮原さんに、熊谷が「大丈夫」と断言し、俺は腑に落ちた。ああ。そういうことか。「大丈夫」の根拠があるわけだ。……まあ確かに、握った「弱み」の上手い使い方ではある。

「よろしくね、三橋」

「……ああ。熊谷、宮原さん。可能な範囲内で協力させて貰う」

 俺たち三人はアップルパイで乾杯をした。

「よかったあ」と宮原さんが笑顔でほっと息をついた。だが熊谷、お前は許さん。

 ……いずれにしても。この決起会が俺の人生の崩壊の序曲であったとは、このときの俺には知る由もなかった。


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