第10話 スフレ記念日

 女の子の格好をして男とデートをすることになるとは、人生まさに、一寸先は闇だ。

 ハヤトのマンションを出て馬車道駅まで歩く間に、一生分の警戒心を使い切った気がする。幸い知り合いに遭うことはなく、無事にみなとみらい線に乗ることができた。

 電車はそこそこ混んでいて、俺とハヤトはドアの近くに向かい合って寄りかかっていた。

「……なんだよ」

 乗ってからずっと、ハヤトは俺を見ていた。落ち着かない。実に。

「いや、今日も可愛いなと思ってな」

「……馬鹿野郎」

 俺は所在をなくして窓の外に顔を向けた。会話は全て小声で交わしている。いまのところ、誰にも不審がられてはいない。ふとハヤトの視線が足下に落ちた。

「リョウはコンバースが好きなのか?」

「え? ああ……そうなのかな。思えばずっとコンバースだ」

 京都でもこのスニーカーだった。コンバース、青のハイカット。同じ形の黒色も持っているが、……ついこっちを選んでしまった。無意識にコーディネートを考えていたかもしれない自分が憎らしい。

「俺もコンバースだ」と言ってハヤトが軽く足を上げた。履き慣れた感じのベージュのローカット。

「お揃いだな、リョウ」

「やかましい」

「赤も持ってるのか?」

「いや、これと黒だけだ」

「黒は俺もハイカット持ってる。次回はペアで履こうか」

「やかましいっての」

 やがて電車は渋谷駅に到着し、俺とハヤトは山手線に乗り換えた。



 新宿。

 渋谷、原宿と並んで、俺には縁のない街だ。「陰キャ向きじゃない街ランキング」トップクラスの街だろう。人も建物も全てが眩しく見える。心なしかアスファルトすらキラキラ輝いて見えた。……あとで調べたらガラス粒子を混合した事故防止のための特殊な舗装だった。口に出さなくて良かった。

「昼には早いな。映画でも観るか?」

「初デートに映画っていうのはどうなんだ?」

 これについては諸説あったはずだ。……未経験ゆえに良くは知らないが。

 ハヤトは「二回目」を主張したが、俺が「初」を譲らなかった。京都でのアレはデートじゃない。ただの不可抗力だ。今回のこれをデートと見做すのも苦しいが。……俺の初めてのデートが男同士って……。

「確かにそうだな。俺もずっとリョウを見ていたい」

「どの映画にしようか、ハヤト?」

 俺のリアクションにハヤトが低く笑う。

 それにしても何なんだろうか、ハヤトのこのキャラは? 以前ならともかく、最近は学校でちゃんと見ているから分かる。……キャラを作っているとかいうレベルじゃなく、まるで別人を見ているようだ。

 もっとこう飄々としたというか、いつも明るく笑っていて、それ以外の自分の感情や思惑を表に出さない。基本スペックの高さと話題の引き出しの多さで誰とでも話を合わせられるが、決して押し付けがましいところのない、絵に描いたようにスマートなリア充。

「そういうところも可愛いな」

 何だこれ。この圧力。誰なんだ、この直球しか知らない豪腕ピッチャーみたいな男は?

 結局映画はハヤトが選んで、俺たちは商業施設の上にあった映画館で二時間ほど時間を消費した。サメが異世界転生して人間を襲うというパニック映画だった。実に面白かった。



 今日、俺の世界が変わった。どうしてこれを、過去の俺は知らなかったんだろう。そうだ、九月四日を俺の記念日にしよう。

 香ばしく焼けた生地の表面にスプーンを突き刺すとサクッと心地よい音がする。しかし次の瞬間には感触がなくなる。雲を掬うようにそっとスプーンを持ち上げて口へ運ぶ。広がるのは卵とバターとベリーのジャムの匂い。これは温かく柔らかい宝石だ。ひと匙、ひと口ごとに俺を天国へ誘ってくれる宝石だ。

「……おーい、アヤ。帰って来いよー」

 天国じゃなかった。

 笑いの成分を含んだハヤトの声で、俺は現実に戻ってきた。どちらかといえば地獄のほうが少し近い現実。できれば天国にいたかった。

「美味いだろ、スフレ」

「うま……すごく、美味しい。凄いよこれ」

 いや俺の語彙よ。口に出そうとするといつもこうなる。コミュ障がコミュ障たる所以だ。

 思わず天国に片足を突っ込んでしまうほど美味い。女声も苦にならないほど美味い。スフレ。こんな食べ物があったとは……。

 昼食に訪れたカフェ。入る前にハヤトが「ここではアヤで行こう」と言い、俺は疑問に思いつつもその指示に従った。理由はすぐに分かった。

 明らかな女性向けの内装。客もほぼ女性。男の客は俺を除けばはハヤトともう一人だけ。「女性とカップル限定の店なんだ」とハヤト。なるほどその男性も女性同伴で、肩身狭そうにランチプレートをつついていた。俺たちもランチを食べ終えて、ハヤトが俺に紅茶とスフレを、自分にはコーヒーだけを注文した。

「本当に美味しそうに食べるな」

「本当に美味しいよ、これ。ハヤトも食べてみなよ」

 俺はスプーンを置いて、スフレの皿をハヤトのほうに押した。

「いいのか?」

「うん」

「このスプーンで食べて?」

「あ……」

 何も考えていなかった。……いや考えないだろう、普通。男同士だ。俺のスプーンをハヤトが使う。それっていうのは、つまり。間接……いやいやいやいや。

「……余計なこと言うなよ」

「そうだな、悪かった」ニヤと笑って、ハヤトはスプーンを手に取った。

「あ」

 その瞬間、俺がどんな顔をしていたかは知らない。ハヤトがスプーンの先をスフレに向けたそのとき。

「失礼します、お客さま。スプーンもう一つ置いておきますね」

 接客用の澄ました顔をしているが明らかに笑いを堪えている店員のお姉さんが、俺たちのテーブルに二本目のスプーンを置いていった。……ずっと見てたな、あれは。初々しい高校生カップルとでも思ったのか。

「……お前のせいでもうこの店、来れないじゃないか」

「嬉しいな。また来るつもりだったんだな」

「うっ。……いや、次は一人で来る」

「結構度胸あるよな、アヤは」ハヤトが店内に視線を走らせた。……そうだ、女性限定の店だった。俺一人じゃ……どう考えても無理だ。うう、スフレ……。

「ああ、そうだ」

 名残惜しそうに最後の一口を食べていた俺は、ハヤトの声に顔を上げた。向かいに座るハヤトの憎らしい笑顔。……その手には小振りのスプーン。コーヒーについてきたスプーンだった。ブラック派のハヤトはそれを使っていない。

「最初からこのスプーンで食べれば良かったな」

 ……本当に嫌なヤツだ、こいつ。



 カフェを出たあと新宿御苑を散策して、大通りを避けるように上手く裏道を使って花園神社に来た。俺の知っている、俺のイメージする新宿とは違う。カフェ選びもそうだったが、ハヤトに連れられて見たのは大人の新宿という感じだった。高二のエスコート力じゃない。リア充恐るべし。

「そんなに悪くないだろ、新宿」

 神社にお参りをしたあとでハヤトがそんなふうに言った。そうだな。

「もっとパリピがウェイだと思ってた」

「何語だよそれ」

 ハヤトは口元を隠して喉で低く笑った。やっぱり学校での笑い方と違う。

「そういうところもあるだろうけどな。……もうちょっと付き合って貰っても大丈夫か?」

「ああ。今日は遅くなるかもって言ってあるから」

「友達のところに泊まるって?」

「それはダメなやつだろ!」何フラグだ!

 わざとやってるな、コイツ。俺を揶揄って反応を愉しんでいる。いいオモチャなんだろう。……こういうところも、学校での「高坂」にはないところだ。これが本当のハヤトなのか? 俺にはまだ分からない。少なくともこの日の俺がハヤトのオモチャだったことは、このすぐあとに判明した。

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