第9話 リョウとハヤトとたまにアヤ

 横浜駅西口にあるゲームセンターに向かって歩いている途中で、高坂が低く笑い出した。

「珍しいな。殴ろうとしただろ、越生のこと」

「笑うなよ。矜持の問題だ。それにお前のせいでもあるんだからな」

「一日ずっと俺を見てたって?」

「オマエの、せいでも、あるんだからな」

「謝る。俺が悪かった」

 ……悪いと思っている顔じゃない。というか含み笑いをしている顔だ。どう見ても。まあ別に俺としても謝罪を求めるつもりもなかった。

「……ありがとな」

 机を倒して俺を止めてくれたこと。腹を立ててくれたこと。越生と名栗を追い払ってくれたこと。嘘の約束で教室から連れ出してくれたこと、その全てに対しての礼だ。

「別に何かしたわけじゃない。あのまま続いたら俺が奴らを殴ってたから、自分のためだよ」

 ……いい奴はいい奴なんだよなあ。

「せっかくだし」ということで、本当にゲーセンに行って高坂と俺は対決をした。ついでにここ最近の鬱憤を晴らしてやろうという思惑もあった。

「結構やるって、言ったよな?」

 格ゲー、レースゲー、音ゲー。……ほぼ俺の完敗だった。俺の矜持は……。

「お兄ちゃん、どうしたのそれ?」

「友達にクレーンゲームで取ってもらった」

 帰宅したときに俺が手に下げていたビニール袋の中身、馬鹿でかいウサギのぬいぐるみを莉里が目敏く見つけて、目を輝かせた。

「ウサギ、好きなの?」

「どっちかっていうと嫌いだな、最近は。……やるよ、莉里に」

 俺が差し出したビニール袋を受け取らずに、莉里はじっと俺の顔を見た。正確には見下ろした。悔しいが莉里は俺より背が高い。小六なのにだ。

「……分かった。お兄ちゃん、彼氏出来たでしょ!」

「何言い出すんだ、お前」いやマジで。

「だってお兄ちゃん、急に可愛くなったもん」

「……前髪切っただけだ」

 俺はビニール袋を渡すのをやめて、莉里の横を通り抜けた。

「あれ、ぬいぐるみは?」

「やらん。気が変わった」

「えーっ、ケチ! 意地悪! ネクラオタク!」

「合ってる」と言いながら自分の部屋に入り、袋から出したぬいぐるみを本棚の空きスペースに置いた。ただし、後ろ向きに。



 翌日。土曜日。朝から雨。

「雨天中止にならないもんかな、明日」

 そう思ってテレビの天気予報を見ていたら、明日は快晴と言っていた。そもそも雨天でも中止にはならないだろう。そういう種類のイベントじゃないし、あの高坂が雨くらいで諦めてくれるはずがない。

 日を追うごとに、学校に向かう足が重くなる。三日目でこれなら、二学期が終わる頃にはどうなっているんだろうか?

 それでもどうにか教室に辿り着き、午後一時までの授業を耐え忍んだ。

 昨日の失敗から学び、高坂のほうを見るのは極力避けた……が、それでも高坂の姿は視界に入ってきた。目立つんだ、コイツ。それと、他の奴らとの絡みがまあ多い。大体の場合は誰かが高坂の席に来るが、当然逆の場合もある。そんなにちょこちょこ用事が出来るものか? どうも陽キャとかリア充とかいう人種がいまひとつ理解出来ない。

 水槽の中の金魚を見る気分で半日教室を眺めていて、ふと違和感に首を傾げた。家に帰ってからも何度か考えたが、結局その違和感の正体は分からず、胸の奥に小さなモヤモヤだけが残った。そして、ついに日曜がやってくる。

 朝一〇時ちょうどに高坂のマンションに着き、一階のインターホンを押した。

「玄関の鍵開けてるから、入ってきてくれ」

 高坂の操作でオートロックの自動ドアが開いて、俺は正面にあるエレベーターに乗った。二〇階。幸いというか、エレベーターでは誰とも乗り合わせなかった。……別に俺はやましいことはしていないんだが。

 玄関を開けるなり「おはよう」と笑顔で出迎えられて、俺は小さく片手を上げて応えた。朝から楽しそうだな、高坂。いや歓迎されること自体は悪い話じゃないが。

「三橋、朝飯は?」

「まだ」

「じゃあ身支度しててくれ。その間に簡単に作るから」

 高坂は俺を自室に招き入れた。ベッドと机とクローゼットだけの殺風景な部屋だった。聞けばもう一つ遊び部屋があって、ゲームやテレビはそっちに置いているらしい。いい身分だ。

 例の服はビニールを取ってハンガーに掛けてあった。ウイッグも一緒だ。化粧品は机の上にあり、大きめの脚付きの鏡も置かれていた。……何故か腹が立った。嬉々としてこれらを用意している高坂が想像できてしまった。

「着替えたぞ」

 三〇分後。女装を完了した俺がリビングに移動すると、高坂はコーヒーを淹れていた。

「早いな」

「熟練度が高いからな」

 コスプレイベントは三回しか参加していないが、必要な練習の量だけは誰にも負けない自負がある。メイクもその一つだ。自慢になるとは思わないが、こんなときくらい自慢してもいいだろう。

 ダイニングテーブルの上に朝食が用意されていた。エッグベネディクト。手の込んだサラダ付き。リア充は朝食までリア充なのか。

「……美味い」

「それは良かった」

 高坂がニコニコとこっちを見ている。……直視出来ない。

「いつもこんな朝食、作ってるのか?」

「この三日はな。晩もこれだった」

「?」

「練習してたんだ」

「……おい」やめろ。朝から飛ばし過ぎだ。

「コーヒー飲んだら行こう。時間は有限だからな」

「本気で、この格好で外に出ろと?」

 訊くまでもないが、敢えて訊いた。縋る藁などどこにもないと知りつつ。

「なにを今さら……そうだ、三橋。お前、コスプレネームってどうしてるんだ?」

「コスプレネーム?」いやもちろん知っている。コスプレイヤーが使う通名、芸名やペンネームのようなものだ。質問が唐突過ぎてつい聞き返してしまった。

「あー……、特に決めてない」

「イベントの参加申込みに必要だろ? なんて書いてるんだ。まさか本名じゃないだろう」

 詳しいな、高坂。コスプレイヤーの姉がいるからだろうか。

 確かに参加申込みには必須の項目で、イベント参加証はコスプレネームで発行される。なので、本名を使うコスプレイヤーはまずいない。俺のような女装レイヤーなら尚更だ。

「そのうち決めようと思って、綾瀬アヤって書いてた」

「なるほどな。じゃアヤって呼ぼうか」

「なんでそうなる?」

 その必要がどこにある? その疑問に高坂は実にシンプルかつ明快な回答をくれた。

「隣のマンションに杉戸千波の家がある」

「はい、わたしはアヤです」

 英文の和訳のような棒読みに高坂が口を隠して低く喉を鳴らした。……まただ。学校での違和感。演じるキャラを使い分けているのか? いや、そのくらいは誰でもやることだ。

「万一のときの保険だよ。知り合いに遭ったときの。普段は三橋って呼ぶ……いや、リョウにしようか。そうだな、それがいい。俺のことはハヤトって呼んでくれ」

 危ない、考え事で聞きそびれるところだった。……それくらいならまあ、許容範囲だ。そういえば杉戸をはじめ高坂と仲の良いグループは「タカト」と呼んでいる。タカト呼びは陽キャに迎合するみたいで嫌だった。この反骨心は陰キャの習性だ。

 この高坂、改めハヤトと付き合うかどうかは「保留」とさせて貰った。その代わりに、俺はこの茶番にはしっかりと付き合うことに決めていた。

 高坂、じゃなくてハヤトが京都に置いてきたという本心。その正体をハヤトが知るまで、存分に付き合ってやる。そう覚悟を決めたということだ。

 ハヤトの「自分探し」が終われば、俺は必ずお役御免になる。俺にはその未来が見えていた。それが一日でも早く実現するよう、やれることをやるだけだ、と。今日一日で実現すれば言うことはないが、……それは無理だろうな。

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