第7話 忘れ物を届けに

 いいところに住んでるな。それが素直な感想だった。馬車道駅から徒歩で約一〇分。いわゆるタワーマンションの二〇階に高坂の家があった。

 案内されるままリビングに入ると、大きすぎる窓の向こうに海が広がっている。あっちは山下埠頭か。小さく人影が見えたので「人がゴミみたいだ」と、とりあえず言っておいた。

「これな。姉ちゃんからの荷物」

 高坂が差し出してきたダンボールを受け取る。重くも軽くもない。強いて言えば不安を助長する、嫌な重さだ。

「高坂。俺は嫌な予感しかしない」

「気が合うな。実は俺もなんだ」

「正直、開けるのは気が進まない」

「三橋宛の荷物だからな、三橋に任せる……いや。やっぱり今のはナシだ」

 高坂は少しのあいだ眉を寄せて黙り、「開けてみよう」と俺の目を見て言った。

「……後悔するんじゃないのか?」

 俺はきっと、後悔することになる。しかし高坂はきっぱりと首を振った。

「俺は開けないほうが、後悔すると思う」

 意見が割れた。それほど気が合うわけじゃないのかもしれない。まだ日の浅い付き合いだ。

 絶対に後悔する。分かった上で、俺は、パンドラの箱にしては安っぽい封印のガムテープに手を掛けた。ペリと軽い音がした。あのセリフ、言うなら今だ。

「ええい、ままよ!」

「……生きてるうちにそのセリフを聞くとは思わなかった」と感心した高坂に、俺は「だろ」と得意げに言った。ヤケクソだ。

 箱の中身は、ビニールに入った布。やや大きい白い布と、その半分くらいの水色の布。人間が着るように縫製された布。俗に「服」という。クリーニングのタグが付いている。高坂と京都を観光したあの日に、俺が着ていた服だった。

「どういうつもりだろうな」

 そう言った高坂は表情を消していて、俺に胸の内を見透かされることを避けているようだった。

「……まだ何か入ってる」

 俺はダンボールを絨毯の上に置いて服を引っ張り出し、その下にあった紙袋を開けた。

「何だ、コレ?」

「……化粧品だな。新品の。……あ、メモが入ってる」高坂が腕を伸ばしてきて、化粧品の間に挟まっていた紙を抜き出した。

「百均の化粧品だと肌に悪いでござる。乳液と化粧水は色々試して自分に合うのを使うでござるよ……だそうだ。あと安くていいやつのリスト……だってさ」

 広げた紙はA4のコピー用紙だった。確かに下半分は化粧水やらのリストになっていた。変にマメな人だ。

「どういうつもりだ? お前の姉ちゃん?」

「さあ……ただ」

「ただ?」高坂の口調が変わり、部屋の温度が変わった。俺は内心で身構えた。

「俺の忘れ物は、揃ったみたいだ」

 ダンボールを挟んで膝をついていた高坂が、強く、真っ直ぐに俺の目を見つめた。まずい。

 今だ。この瞬間が、俺の人生の分かれ道だ。



 高坂の瞳からは覚悟が伝わってきた。俺はどうだ? 高坂の話を聞くにも、会話を中断させるにも、足りない。そもそも覚悟なんてしていない。……俺はただ、あの変なウサギに腹が立ってここに来ただけだ。

「忘れられないんだ。あの日のこと」

 高坂はそう切り出した。あの日がどの日かは訊くまでもない。それでも俺は「あの日?」と聞き返した。往生際の悪いただの時間稼ぎだったが、高坂は乗らなかった。

「三橋は嫌々だっただろうが、俺は本当に楽しかった。女の子の格好をしたお前といて、幸せだとさえ思った」

 来た。

 あの写真。鴨川デルタでの俺を撮った写真には、撮影した人物の心情が切り取られていた。写真の中の女性に向けた、カメラマンの愛情。彼女に向けた彼氏の愛情。だがあの日の鴨川デルタには女性もカメラマンも、彼女も彼氏もいなかった。

「あれは……幻みたいなものだろ?」

 一日だけ、仕方なくツバサさんの服を着て出掛けた俺の姿。もう二度とあんなことは起こり得ない。起こっちゃいけない。

「俺もそう思ったさ。あれはあの日だけの、夢みたいな出来事だったと」

 そうだ。悪夢だ。俺たち二人は揃って悪い白昼夢を見た。それだけのことだ。

「違う」と高坂がゆっくり首を振った。

「夢じゃない。その証拠に、お前も、服も、あの日の全てがここに揃ってる」

「……ウイッグがないぞ」これもただの悪あがきの逃げ口上だ。膝をついたまま後退ろうとしたら、手を掴まれた。高坂の手は酷く汗ばんでいて、するりと抜けられそうだったが、何故かそう出来なかった。……手、でかいな、コイツ。思えば二〇センチ以上俺より背が高い。……抑え込まれたら、絶対に勝てない。妙に現実感のある恐怖が、俺の胸の中にむくむくと立ち込める。いや落ち着け俺。高坂はそんな奴じゃない。落ち着け。

「……ウイッグはアマゾン経由で来た。新品だそうだ」

「……本当にそつがないな、お前の姉ちゃん」

 むしろ感心した言葉を口にしたら、「な」と言って高坂が笑った。つられて俺も笑った。笑うと緊張が解けてその場に尻餅をついた。手はもう解放されて自由になっていた。

「……つまり、高坂は俺にどうして欲しいんだ?」

 その場で胡座をかいて、俺は単刀直入に訊いた。女装コスプレを始めて知ったことだが、ここ一番で肚が据わるのは俺の長所だろう。しかし。

「俺と付き合って欲しい、三橋」

「はあっ!?」

 高坂の言葉に、据わったはずの肚がどこかに飛んでいった。

「……お前は男で」指差したら高坂は頷く。

「俺も男だが?」

「……何言ってるんだ、三橋?」

 何を当たり前の話を、と言わんばかりだ。おいおい……。

「ちょっと待て。落ち着け」

 胡座のまま立ち上がろうとしてバランスを崩し、俺は背中から絨毯に転がった。

「お前が落ち着けよ、三橋」

「五月蝿い。これが落ち着いてられるか」

「コーヒー、飲むか?」

「……ああ」

 高坂はコーヒーを淹れるためにキッチンに消えた。俺は今度こそ立ち上がってリビングと部屋続きのダイニングに移動し、テーブルを囲む四脚の椅子のひとつに座った。いい椅子だった。

 コーヒーの香りがする。コーヒーには鎮静作用があるという。……いや覚醒作用か? まあどっちでもいい。

 マグカップを二つテーブルに置いて、高坂は正面に座った。俺は熱すぎるコーヒーに一度だけ口をつけて、議題をテーブルに上げた。いや、上げようとした。

「高坂は男が好きなのか?」なんて、訊けるか、そんなこと。デリケートが過ぎる議題だ。

「三橋」

 静かに呼ばれて、つい背筋が伸びた。とりあえず、聞こう。それしかない。

「三橋。たぶん、俺はお前が好きだ」

「たぶん?」

 ……何だそれ?

「たぶんって……そんな告白があるか?」

「一日二日の付き合いで分かるわけないだろ」

「正論だな」

 正論だが、どうしてコイツはこうも開き直っているんだ?

「だから、それが知りたい。一度は京都に置いてきたこの気持ちが本物なのか」

「……ずいぶんと自分本位だな」

 コイツが、高坂が言っているのは全部高坂の都合だ。そこに俺の都合は一ミリも含まれていない。そんな高坂の返答は、清々しいほど潔かった。

「告白ってのは、そういうものだろ。自分の勝手な気持ちを相手に押し付けるだけのイベントだ」

 身も蓋もない。なんて言い草だ。

「高坂……お前、実はあんまりモテないだろ」

 げんなりした口調で聞くと、少し考えて「いや、たぶん結構モテてる」と言った。

「そんな面倒な性格でか?」

「こんなところ、他の奴には見せてないからな」

 おい。やめろ。

 俺は自分の胸を拳で叩いた。一瞬でも、高鳴っているような状況じゃない。

「……で、どうだ?」

 高坂は自分のコーヒーを啜った。だからなんでお前はそんなに落ち着いているんだ。

「どうだって、何が」

「もちろん返事だ」

 ……そりゃそうだ。告白には返事がつきものだ。何を言うか。言うべきか。とりあえず口を開こうとしたら、バリバリと異音がした。窓の外、わりあいと近い場所をヘリコプターが飛んでいった。「ヘリポートが多いんだ」と高坂。そうか、この地区のタワマンにはこういう弊害があるのか。

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