第4話 「あの日」という一日

 いくら何でも、これは、ない。

「どっちがいい? コレとコレ」

 ツバサさんの提示した選択肢を前に俺は呆然と立ちすくみ、高坂は頭を抱えていた。

 今朝方まで高坂が寝転がっていたソファーの上に、女物の服が二セット。一方は白いワンピースと水色のシャツ。もう一方は背中が大きく開いたニットとミニスカート。

「ごめんね、リョウくんの服、間違えて洗濯しちゃって。帰るまでには乾くと思うから、今日はコレ着て出掛けて」

「無理です」

 俺は即答した。何考えてるんだ、この人!?

「姉ちゃん……流石にコレは」そうだ高坂、言ってやれ。

「隼人はどっちがいいと思う?」

「……こっちかな。ワンピースのほう」

「おい!」と、思わずツッコミを入れたら高坂が気まずそうに目を逸らした。

「いやミニだとはみ出すぞ。お前トランクス派だろう」

「そういう問題じゃないだろ」

 それよりもずっと手前にある問題だ。いくらここが地元じゃなくても、女装で外出は無理だ。何かの罪で捕まるんじゃないのか? ……そんなわけはないが、とにかく無理だ。

「いいです。服が乾くまでここにいます」

 籠城の構えで俺は床に座り込んだ。えーっ、とツバサさんが非難の声を上げた。何と言おうと、ここから一歩も動く気はない。

「今日この後、彼氏が来るんだけどー」

「ぐっ……」喉から変な音が出た。

「彼氏?」

 信じられないという顔で高坂がツバサさんを見ている。ツバサさんはことも無げに「うん」と頷いた。

「聴こえちゃうかもしれないけど……」

 何がですか!?

 ダメだ。目眩がしてきた。そのまま床に倒れそうになったところを高坂が支えてくれた。そして首を横に振った。

「諦めろ、三橋。俺らじゃ姉ちゃんには勝てない」

「……」

「大丈夫。私のウイッグ貸してあげるから」

「俺もいるから、……大丈夫だ」

 この姉弟に「大丈夫」という言葉の意味を辞書で引いて教えてやりたい。

 これが、悪い夢のような一日が始まるまでの顛末だ。



「どうしてこんなことに」

 ずっとそればかりがグルグルと頭の中を回って、五回に一回ほど口から漏れ出ていた。

「あんまり思い詰めるなよ。……無理かもしれないけどさ」

 ああ無理だ。無理だとも。そもそも俺が女装コスプレなんかしてたのが悪いんだ。

「大丈夫だよ。女にしか見えないから」

 ……コスプレイベント会場で、知らない人から言われれば嬉しい台詞なのがまた複雑だ。そうだ。コスプレ。俺はコスプレ中。そう思い込めば……いや無理がありすぎる。

 ツバサさんの服を着て、茶髪ロングのウイッグを被った俺の見た目は悪くなかった。というか、かなり可愛かった。こういうの似合うな、俺。それもどうかと思うが。

 ツバサさんのマンションを追い出されて、とりあえず徒歩圏内の二条城に向かって歩いた。横浜にもあるような普通の住宅街には人影が少なく、それだけが救いだった。

「三橋、パンケーキ好きか?」

「え? あ、まあ好きなほうかな」

 急に話題が変わって驚いた。パンケーキに限らず甘いものは好きだ。「そっか」と高坂の顔が明るくなった。いつもの高坂の顔だ。……そうだな。俺が、俺さえ我慢すれば。昨日からずっと気にかけてくれている高坂に罪悪感を抱かせ続けるのは違う。……気がする。コイツはいい奴だ。悪いのは全てツバサさんだ。

「近くにパンケーキが美味いカフェがあるらしいんだ。二条城のあとで行ってみようか」

「……ああ。朝食べてないしな」

 まるきり平常運転とはいかないけれど、高坂のためにも、少しでも平静でいられるよう努めよう。あくまで可能な範囲内で。

 朝食の話をしたら思い出したように胃の辺りが騒ぎ出した。高坂も同様だったみたいで、俺たちは二条城の中を文字通りの駆け足で一周し、パンケーキを、いやカフェを目指した。

「……美味い!」

「そうか、そりゃ良かった」

 バターの染み込んだ大判のパンケーキは甘さ控えめで、何枚でも食べれそうな味だった。

「ん……、これ何枚でも食えるぞ」

「だろ、だろ!?」

 同じ感想を持ったことが嬉しくて、つい興奮してしまった。隣のテーブルの女性がこっちを見た。その顔で俺はすぐ状況を悟った。

 女装してるんだった、俺。

 この格好で騒げば、目立つに決まってる。視線を感じる。視界が揺れる。まずい、どうしよう。パニックになりかけたとき。ガッと、フォークを持った手を握られた。

「アヤ」

 ……アヤ?

「可愛いからな。目立つんだよ、アヤは」

 俺を落ち着かせようとゆっくり喋る高坂は、目だけで俺に合図を送った。

 誤魔化せ。……ああ、そういうことか。確かにそれしかない。女声を使って、女の人が言いそうなことを。瞬間的に俺の頭に浮かんだのは。

「……パンケーキ、美味しいでござるな高坂氏!」

 周りの席から小波のような笑い声が上がった。俺の手に重なったままの高坂の手も小刻みに震えていた。……やっちまった。



「そう膨れるなよ、三橋」

 そう思うなら、いい加減に笑うのをやめろ。カフェを出て二条城前の駅まで歩いている間、俺は腹の虫が収まらず、ずっと早歩きだった。

「仕方ないだろ。手本がツバサさんしかいなかったんだ」

 記憶している限り、俺には女友達と呼べる相手はほぼいない。頭の中の引き出しから唯一出てきたのがツバサさんの言動だった。

「だからって、よりによってござるじゃなくても、なあ」

 高坂はまだ笑っている。ああ、もう好きなだけ笑え。

「綾瀬アヤの台詞でも出てくると思ったんだ。それが……ござるって」

 そういうことか。俺を「アヤ」呼びしたのは、高坂なりのヒントだった。確かに綾瀬アヤならもっと普通に、可愛らしいリアクションをする。綾瀬アヤなら。

「悪かったよ、三橋。だからもう機嫌直せよ」

 リアクションのことばかりに集中していた。天真爛漫な綾瀬アヤなら、どうする? どう反応する?

「怒ってないよ」は、違う。

「ごめんね」も違う。

「気にしないで」とも言わない。そうだな……綾瀬アヤなら。

「三橋……?」

 高坂が不安そうな顔を向けてきた。そうだ、これだ。俺は立ち止まって、くるりと全身で振り返る。白いワンピースがフワッと膨らんだ。

「今日は始まったばっかりだよ、ハヤト。まだまだいっぱい、楽しまなきゃ、ね?」

 そう言ってにっこり笑うと、高坂はこれ以上ないほど大きく目を見開いた。

「……肚は据わった。行こう、高坂。色々見るんだろ?」

「あ、ああ……。そうだな」

 俺が歩き出すと、少し遅れて足音がついてきた。俺はすぐに背中を向けてしまったので、このときの高坂がどんな顔をしていたのかは見ていなかった。

 高坂のエスコートで金閣寺、銀閣寺、昼食を挟んで清水寺。思えば中学の修学旅行で来たところばかりだったが、歴史にも強い高坂が色々教えてくれて楽しかった。腹を据えて堂々とすれば、俺の女装はそう簡単に見抜かれない。実際に怪しまれるようなシーンは一度も発生しなかった。

 楽しい。……まずいぞ、これは。

 高坂の案内が上手いのか、高坂と二人だから楽しいのか。……決して女装が楽しいわけではないということは明言しておきたい。いずれにせよ、気付けば人も建物も影が伸びて、夕方に手が届くような時間になっていた。あっという間に思えた。

「最後にいいとこ行こう」

 祇園を少し歩いてから電車に乗って、出町柳という駅で降りた。高坂が案内してくれたのは、アニメオタクなら誰でも知っている場所だった。

「おお……」感嘆の声がつい漏れた。二つの川が合流して一本になるところ。両岸から中洲に渡れる飛び石は、ところどころ亀とか鳥の彫像になっている。

「知ってるだろ、鴨川デルタ」

「知ってる!」

 居ても立ってもいられず、俺は土手を駆け下りた。そのまま飛び石まで走って、反対側の岸まで渡った。再び飛び石を使ってもとの岸まで戻ると高坂がスマホを構えていて、俺は亀の上からピースサインを送ってやった。

「ありがとう高坂。すごい楽しかった」

「……ああ、今日一日、俺も楽しかった」

 最後にデルタの写真を俺のスマホで思う存分撮って、俺たちはまた出町柳から電車に乗った。

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