第19話 父親はボクだ
五稜さんのつわりのピークは四週ほど続き、十三週目に入っている。
実はその間にオレは葵と一悶着があった。
十二週――以前、葵が赤ちゃんのⅮNA鑑定の結果が出ると計算した週を過ぎた。
一悶着と言うのは、オレが赤ちゃんのⅮNA鑑定はしないと決めたからだ。
なんだかんで葵はオレが見ず知らずの少女を襲うはずがないって信じてくれていて、赤ちゃんは別の男の子なんじゃないかと疑い続けていたらしい。
オレのことをずっと信じてくれていたことは素直に嬉しかった。
でも、仮にもし五稜さんのお腹の赤ちゃんがオレの子じゃなかったとしても、オレはもう気にしない。
だってもう子育ては始まっているのだ。
オレは父親として、命をかけて赤ちゃんを育てている五稜さんを誰よりも側で支えてきた。
今更実は違う男の赤ちゃんでした――なんて知りたくもない。
それになりより……辛いはずなのに、苦しいはずなのに、やめたいはずなのに、赤ちゃんのために健気に頑張り続ける彼女のことが、オレはいつの間にか好きになっていた。
だから日中は将来ちゃんとした会社に就職するために勉学に励んでいる。
二人を守る――あの日言った言葉をちゃんと有言実行できるように、オレは出来る限りの努力している。
もちろん日々の生活費を稼ぐためにアルバイトも欠かしていない。
正直オーバーワーク気味だが、泣き言は言ってられない。
今日受ける予定の講義を全て終え、オレは一人で大学の外へと向かった。
これまでなら葵と家なり帰るなり、アルバイトなら途中まで一緒にいたが、一悶着してからはお互いに気まずくて距離を置くようになった。
その代わりと言ってはなんだが――
「大林さんっ!」
――つわりのピークを終え、大分調子が戻って来た五稜さんが大学までオレを迎えに来るようになった。
五稜さんは木の陰から唐突に飛び出してくると、バンと効果音を立てるように両手を広げた。
「五稜さん、また来たのか?」
「またとは何ですかっ、まるで迷惑みたいです」
「いや、迷惑とは言わないが、視線がな」
オレは周りを軽く見渡す。
周囲にいる大学生たちが、こっちを見てヒソヒソと話している。
その会話の内容は聞こえてこないが、言っていることは想像がつく。
『やっぱり女子高生を妊娠させたっていうの、あの人なんじゃない?』
実際にオレを迎えに来た五稜さんを目撃した同期たちにそんな質問を何度かされた。
一応はぐらかしてはいるものの、その疑いの目は日に日に強くなっている気がする。
今は葵もフォローしてくれないので、オレの言葉だけでいつまで否定し続けるかはわからない。
それに次第に五稜さんのお腹も大きくなれば、真実は明るみに出るだろう。
もちろんそれは五稜さんが大学まで来なければ隠し通せることだが――
「そんなのわたしは気になりません。それに部屋に一人でいてもつまらないんです」
――とのことらしい。
そりゃ五稜さんはこの大学に通ってるわけじゃないから、気にならないだろう。
「それに運動は適度にした方がいいんですよ。これはそのためのお散歩でもあるわけですし……大林さんがアルバイトを始めてしまう少しの時間でも一緒にいたいと思うのは迷惑ですか?」
小首を傾げ、上目遣いで可愛らしく問いかけてくる。
そんな仕草と表情で言われて迷惑と言える男がいるだろうか? いや、いない! 断じていない!
「迷惑じゃない」
「よかったです」
五稜さんは嬉しそうに微笑み、右手を出してきた。
まだ大学の敷地を出てないんだけどなぁーっと思いつつ、オレはその手を握った。
まだ告白していないから、オレたちの関係に変化はない。けど、少しずつ恋人に向かっていると近頃は思うようになった。
いつ告白するべきか悩みどころだ。
一つの目安として出産後を考えているが、それだとまだまだ先になる。
「それにしてももうすっかり夏ですねぇ」
降り注ぐ太陽で身体からはじわっと滲むように汗が出てきていた。握った手の平もお互いの汗で濡れている。それでもオレたちは気にすることなく、繋いだままだ。
「もうそろそろ夏休みだからな。どこか旅行にでもいくか? 一泊くらいで」
今はもう七月に入っており、前期試験が終わり八月になれば長い夏休みが待っている。
「いいんですかっ! あ、でもお金……」
日々赤ちゃんのために少しでも貯めようと節約しているオレたちにとって、一泊であっても旅行は贅沢だ。
五稜さんが躊躇してしまうのは理解できる。
「夏休みに入ればバイトが増やせるから一日くらいなら問題ないぞ」
「本当ですか? 先のことを考えて貯金しておいた方が――」
「赤ちゃんが大きくなってきたら、遊びに行きたくてもなかなかいけなくなるかもしれないぞ」
周りの連中の耳を気にして、小声でそう指摘する。
今はまだ目立つほどお腹は大きくなっていないが、間違いなくそろそろ目に見えてお腹が大きくなっていくはずだ。
もちろんすぐにパンパンに膨らむわけではないだろうが、今みたいに人目を全く気にしなくてもいい時期は終わるだろう。
「それは……そうかもしれませんね」
「だろ?」
オレはこうして旅行を提案するのは、単純に五稜さんを遊ばせてあげたいだけじゃない。旅行で告白というシチュエーションも考えているからだ。
まだ旅行先も決まっていないから、実際に告白するかはわからないが、するならそういうタイミングもアリだと思う。
これまでの五十人には、タイミングと言うよりは勢いで告白してきて、そんな風に考えたこともないが、やっぱり赤ちゃんを妊娠している五稜さんに告白するとなれば、そのタイミングは重要だと思う。場合によってはプロポーズになるかもしれないしな……指輪は買ってないが。
「なら、できるだけ格安のプランを探しますね」
「遊ぶ時は遊んだ方がいいぞ」
「それはお金に余裕がある人たちの考え方です。いくらお義父さんが赤ちゃんに掛かる費用を支援してくれると言っても、お金は大事にするべきです」
それはオレも理解しているが……おんぼろの旅館で告白とかはさすがに嫌だぞ。
サプライズで夜のご飯だけでもホテルのレストランにしないダメか?
「わかった。ならどこに行くか決めないとな。夏と言えば海や山だが、さすがに今の五稜さんと行くのは違うよな」
海や山で遊ぶとなれば、それなりに身体を動かすことになるだろう。それがどれだけ五稜さんの負担になるのか、オレにはわからない。
「そうですね……普通に観光でしょうか?」
「京都奈良や大阪辺りか?」
「遠いですよ。もっと近場でいいと思います」
「近場?」
せっかくの旅行なのに?
葵なら沖縄や北海道って言い出すところだぞ。なんなら海外旅行まで本気で考えると思う。
同じ女性でも考え方はまるで違うんだな。
「関東辺りでいいと思います」
「関東かぁ」
関東で観光の名所を言えばやっぱり東京か? でも東京なら日帰りでいける距離でわざわざ泊まる必要はない。寧ろ東京のホテルだと割高になるかもしれない。
「できれば安産祈願の名所なんかあるといいですね。この子は元気に生まれてほしいですから」
「安産祈願か……」
そういう考えはオレにはなかった。
確かにそれはいいかもしれない。
「調べてみるか」
「はい。一緒に調べましょう!」
五稜さんは屈託のないいい笑顔で頷いた。
「あっ……」
大学を出たところで、軽かった五稜さんの足は唐突に止まった。
「どうかした?」
「…………」
五稜さんを見てみると、今まで楽しそうにしていた五稜さんの表情がみるみる強張っていった。
まるで何かに驚いたように、何かに怯えるように。
その理由をオレはすぐに知ることになる。
「やぁ、久しぶり」
オレたちの前には一人の男が立っている。
スーツ姿のサラリーマンだろうか? 歳は多分オレより上で二五歳くらいの青年だ。
その男はオレにではなく、五稜さんに向かって話しかけてきた。
「拓哉さん……」
握っていた五稜さんの手がビクッと震え、汗をかいていた手がどんどん冷たくなっていくのを感じる。
タクヤさん――それはつわりがピークの時に五稜さんが何度も呟いていた名前だ。
つまり、二人は面識があるのだろう。
そしてこの反応――あの時脳裏に過った可能性が、事実であることをオレは悟った。
◇
「カプチーノとミルクティーを。キミは?」
「いつもので」
タクヤさんと呼ばれた男と一緒にオレたち三人は、五稜さんが妊娠を告白しに大学に来た日に話し合いをした喫茶店に来ている。
またマスターに迷惑をかけるのは忍びないが、この時間なら他に客もいない。
多少声を荒げても問題ない店が他には思いつかなかった。
そう、オレは既にそんな展開になることを予想して、この店にこの男を連れてきた。
その間、五稜さんはいつもの元気を完全に失い、小さく縮こまって俯いていた。それは喫茶店の席についても変わらない。
オレの顔も男の顔も見ようとはしなかった。
そんな彼女の代わりに男は当たり前のように、五稜さんの分のミルクティーを注文した。
「それじゃ改めて、伊藤拓哉です」
「大林大和だ」
「よろしくって言うほど、今後付き合いがあるとは思わないけど、とりあえずよろしく」
「……それで何か用か? オレたちに――いや、五稜さんに」
年上の社会人らしき相手だ。敬語で接するのは常識だと思うが、オレは気後れしないためにも普段の口調――いや、それよりも調子をやや強めて発言する。
オレの問いかけを聞いて、五稜さんが肩を揺らす。
「話の大筋は理解してるって解釈でいいのかな? でも一応言っておくよ」
男はそう言って真っすぐオレの目を見つめてきた。
「六花ちゃんのお腹にいる赤ちゃんの父親はボクだ」
その瞬間、五稜さんの身体がまた震えた。
それはきっとこれまでオレに隠してきた事実を暴露されたことによる、不安や焦り、恐怖と言った感情の現れだろう。
「…………」
重大な秘め事を聞いたはずなのに、不思議と戸惑いや困惑、怒りと言った感情はオレの中に芽生えなかった。
あの日、オレは赤ちゃんが自分の子じゃない可能性を考えた。もちろんその時は確証がないので、すぐに否定した。でも、今日まで何度もその可能性を考えた結果、もしそうだとしても赤ちゃんはオレの子として育てようと決めたのだ。
今更事実を告白されても、オレに迷いは生まれない。
「そうか。で? それがなんだ?」
「驚かないんだね」
逆に男――伊藤が驚きの表情を浮かべる。
「話ではキミは騙されてるって聞いてたんだけど、もしかして聞いてたのかい?」
聞いてた? 誰に? 五稜さんがこいつに話していたのか? でも、この様子を見る限りじゃそうとは思えない。
「ナナミ……」
五稜さんが小さく誰かの名前を呟いた。
「聞いてはない。でも可能性としてあるとも思ってた。まさか本人が現れるとまでは想定してなかったけどな」
「なるほど、察していたんだね、自分の子供じゃない可能性を。でも事実確認ができないからどうしようもなかったってところかな?」
半分正解で半分は間違いだ。
五稜さんがⅮNA鑑定を嫌がっていたのは、注射が怖いからじゃなかった。もしかしたら本当に怖いのかもしれいが、最大の理由はそうすることでオレと赤ちゃんに血の繋がりがないことがバレてしまうからだ。
だから五稜さんは何が何でもDNA鑑定は受けなかっただろう。
でもオレはもうどっちでもいいんだよ。
赤ちゃんがオレの子でも別の誰かの子だとしても。だから無理矢理にでも受けさせようと考えていた葵と喧嘩することになったわけだ。
「オレの状況確認なんてどうでもいいだろ。要件を言えよ」
「そうだね……六花ちゃん、あの時はボクが間違ってたよ」
優しい声音で話しかけると、ずっと俯いていた五稜さんがおずおずと顔を上げて、伊藤の方を見た。
「拓哉さん……」
「いきなり妊娠したと聞かされて、しかも産むと言われて、気が動転したんだ。ボクはまだ親に覚悟なんて出来てなかったし、生活地盤だって盤石じゃない。そんな状況で子供なんて育てられないと思ったんだ」
「…………」
「一度離れれば諦めてくれる、そう思ってたけど……キミは諦めずに赤ちゃんを産むことにしたんだね。でも、それに他人を巻き込むべきじゃない」
他人――他人か。確かに他人だよな。
オレと赤ちゃんに血の繋がりがない以上、五稜さんとも当然そうなる。
「ボクも覚悟が決まったよ。二人で赤ちゃんは育てよう」
伊藤はそう言って、五稜さんに微笑みかけた。
まるで安心して、帰っておいでと呼びかけるように。
五稜さんは伊藤からオレに顔を向けた。
その表情はこれまでに見たことのない、酷く怯えた様子だ。
無理もない。今までずっとオレのことを騙してきて、それが唐突に暴露されてしまったのだ。
オレが怒っていると考えるのが普通だろう。
きっと凄まじいストレスがかかっているはずだ。
赤ちゃんのことを考えれば、いつまでもそんな状態でいさせるわけにはいかない。
「大丈夫だ五稜さん、何も変わらないから。なにも」
そう言ってオレは夏にもかかわらず、冷え切った五稜さんの手を握った。
「……大林さん」
「どういう意味かな?」
「どういう意味かだって? そんなこと聞く必要があるか? 言葉の意味のままだぞ」
「だから、どういう意味で言ったのか聞いてるんだよ。まさかキミ――」
「五稜さんのことも赤ちゃんのこともオレが責任をとる。お前は呼ばれてねぇんだよ。さっさと帰れ」
オレはゴミでも払うように手を振った。
当たり前だ。
五稜さんにこれ以上ストレスを与えないためにも、ゴミはさっさと片付けるべきだ。
そのタイミングでマスターが注文した飲み物を持ってきた。
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