第20話 父親は俺だっ!


「あははは――」


 注文したカプチーノを一口飲み、伊藤はわざとらしく乾いた笑い方をする。


「――悪いけど、理解できないな。責任をとる? 赤ちゃんの父親でもなければ、六花ちゃんの恋人でもないキミが?」

「ああ、そうだ」

「社会人でもなく、大学生のキミが?」

「ああ、そうだ」

「驚いた。なんの関係もない人がそんなこと言うなんて」


 なんの関係もない――だと?

 こめかみの辺りで、血管がピクっと脈打つのを感じた。


「まさかキミは自分が六花ちゃんと付き合っている気にでもなってるのかい?」

「まだ付き合ってねぇよ」

「まだ、ね。つまり付き合いたいって願望はあるってことかい」

「だったら悪いか」


 最悪の告白だ。

 可能であればオレに演出できる最大限ロマンチックな場面で告白したかったのに、こんなタイミングで五稜さんに好意があることがばらされるなんて。

 五稜さんは驚いたような、戸惑ったような表情で、視線を彷徨わせている。

 これって迷惑ってことか? ならちょっと凹むな。だからってオレの気持ちに変化はないが。


「わからないな。キミは事実をちゃんと理解しているのかい? 六花ちゃんはキミを騙していたんだ」

「そりゃテメェが責任を放棄したから、他に選択肢がなかったってことだろ」


 今更確認なんてしないが、二人は付き合っていたのだろう。どこまで本気の交際なのかはわからないが、その結果五稜さんは妊娠することになった。

 そしてきっとオレに言ったようなことを言ったのかもしれない。絶対に産むという強い意思を。

 でも、その事実からこの男は逃げ出した。

 だから五稜さんは行動しなきゃいけなかったわけだ。

 赤ちゃんを無事に産むために、誰かに庇護してもらう必要があった。

 施設育ちで頼れる親も親戚もいない中で、それでも産むために考えた結果が――。

 四月二八日――酔いつぶれて漫喫で放置され、記憶を喪失しているオレを利用することだったのだろう。

 もちろんその間のことを覚えていれば成立しないことだから、酔いつぶれている間のことを覚えていないかは、賭けだったに違いない。


「そうだ。彼女にそうさせた責任はボクにある。でも、六花ちゃんがとった行動は軽蔑されてしかるべき行為だ」

「最も軽蔑されるのは妊娠させるだけさせて、逃げだしたお前だけどな」

「……否定はしない。だからこうして責任をとるために――」


 指摘されたところは一番苦痛に感じる部分だったのだろう。伊藤は表情が歪めた。


「今更おせぇんだよ」

「……遅くとも父親として責任をとる必要がある」

「悪いがオレはお前を父親とは認めない」

「こちらこそ悪いがキミにそんなことを言われる筋合いは――」

「ある」


 伊藤が最後まで言い切る前に、オレはハッキリと言った。

 オレに筋合いがない? バカなことを言おうとするな。オレ以外の誰に言う資格があるてんだ。


「お前知ってるのか? 五稜さんがつわりの時どんなに辛い思いしてたのか」

「それは……」

「知るわけねぇよな。その場にいなかったんだから。一日何回吐いてたとか答えられるのか?」


 オレも正確に把握してるわけではないので答えられないが、まぁこいつから返されることはないだろう。


「…………」

「何が食べれて、何か食べられなくて、苦しい時にどうしてほしくて何をしてほしくないのか、全部わかるのか?」


 答えられるはずがない。

 それは五稜さんと向き合ってきたオレしか知らないことだ。


「そんな状態で父親として責任をとる? 調子のいいこと言ってんじゃねぇ!」


 オレはこれまで自分に向けていた憎悪を、全て目の前の男に向けて怒鳴りつけた。

 当たり前だ。こいつは五稜さんを妊娠させたくせに、責任もとらずに逃げ出した、クズ中のクズだ!

 今更責任をとりたいなんて誰が認めるかっ。

 たぶん親権があるのは実際に血の繋がりのある子の男なのだろう。

 裁判になれば負けるのはオレかもしれない。

 でも、だとしても今更「はい、そうですか」と潔く引き下がる気はない。


「お前には絶対に父親なんて名乗らせないっ!」

「大林さん……」


 握っていた手がオレの手をギュッと力強く握ってきた。オレも応えるように握り返す。


「……キミに経済力なんてないだろ。どうやって六花ちゃんと子供を――」

「そんな問題はとっくにクリアしてる。お前に心配されることじゃない」


 親父の援助があっての話だけどな。

 オレ自身に二人を養う能力がないことは事実なので、口が裂けても言うつもりはない。だが、それだって一時的のことで将来的には確りと養えるはずだ。

 そうだ。オレの未来設計にはもう五稜さんと赤ちゃんが含まれている。

 この手を今更離せるわけがない。


「もう子育ては始まってるんだよ! 父親はオレだっ!」


 誰がなんて言おうとそうなんだよ。

 絶対に、絶対に譲らねぇからなっ!


「……って言ってもだ。五稜さんの意思を蔑ろにするわけにはいかないよな」


 伊藤に対して確固たる意思を示せても、だからって五稜さんの気持ちを無視することはできない。

 一番尊重されるべきは、五稜さんだろう。

 もし五稜さんがオレじゃなくて、この男を選ぶのであれば、悔しいが諦めるしかない。

 オレの数週間じゃ五稜さんの気持ちを動かすことはできなかったってことだ。


「キミが決めるんだ。父親はオレか、それともこいつか」


 最後の判断を下せるのは、オレでも伊藤でもない。


「六花ちゃん、ボクは間違った判断をした。でもそれはけしてキミのことが嫌いになったわけじゃない。キミのことは変わらずに愛しているし、今では赤ちゃんだって育てていけると考えている。今日はそれを伝えるために来たんだ」


 説得べきはオレじゃなくて五稜さんと切り替えたらしく、伊藤はそう言葉を並べていく。


「拓哉さん……」

「やり直すチャンスをくれないか? キミと赤ちゃんはボクが幸せにしてみせるから」

「……ありがとうございます。ようやくそう言ってもらえて、嬉しいです」


 少しの沈黙の後、五稜さんは勇気を出すように一度頷いてから、オレから顔を逸らすと、ニッコリと伊藤に微笑みかけた。


「…………」

「それじゃ――」

「本当に良かったです、そう言ってもらえて。これでこの子のことは誰に疎まれることもなく産むことができます。本当にその言葉が聞けてよかったです」

「えっと……それはどういう意味だい?」

「この子はわたしと違って必要ない子として生まれてくるわけじゃないってことです」


 だからどういう意味なんだ? と伊藤は首を傾げている。


「わたしは拓哉さんが好きでした」

「六花ちゃん……好きでした?」


 一瞬伊藤は嬉しそうに顔を瞬かせたが、確りと五稜さんの言葉を呑み込むと首を傾げた。


「あの施設で育ったわたしの面倒をいつも見てくれた、歳の離れた頼りになるお兄ちゃん、先生たちに怒られればいつも庇ってくれて、他の誰よりもわたしのことを大切にしてくれていたことが何よりも嬉しかったです」


 落ち着いた静かな声で五稜さんは語り始めた。


「拓哉さんが施設を出なきゃいけなくなった日、夕暮れまでずっと泣いてるわたしをあやしてくれたことは今も覚えています」


 そうか、この男も五稜さんと同じ施設出身なのか。

 なら、オレが考えているよりも二人の関係は、ずっとずっと親密なのかもしれない。


「そうだね。あの日のことはボクも忘れられないよ。半身を引き裂かれたような、そんな気持ちで一杯だった。本当は一緒に連れて行ってあげたかった」


 誰かの養子になることになったのだろうか? それとも年齢的の制限で施設を出ることになったのだろうか? そのどちらかは部外者のオレにはわかるはずがない。


「それでも拓哉さんは頻繁に会いに来てくれました」

「キミのことが好きだったから、もっと成長を見守ってあげたかったから、だからボクはキミに会いに行ってたんだ。そんなボクをキミは受け入れてくれたはずだね?」

「はい。拓哉さんはわたしの初恋の人で、大好きな人でした」

「っ……ならなんで、なんでっ、でしたなんて過去形で言うんだっ!」


 耐えられなくなったのか、それとも認めたくないのか、伊藤は声を荒立てる。

 しかしそんな伊藤に対して五稜さんは全く怯えることなく、微笑み続けた。


「それ以上にわたしは大林大和さんという男性が好きになったからです」

「「っ……」」


 オレと伊藤は違う意味で息をのんだ。

 五稜さんが再びオレの手をギュッと握ってくる。


「ボクと過ごしたキミの人生は、こいつとの数週間に劣るってことかい?」

「劣るなんてことは言いたくありません。けど、一番辛いときずっと側にいてくれたのはいつでも大和さんです。日中は大学にアルバイト、帰ってきたら甲斐甲斐しくわたしのお世話をしてくれて、夜に何度吐いてもその度に起きてくれて、落ち着くまで寝ずに見守っててくれるんです。自分の睡眠時間を削って、いつも何度でも」

「それは……ボクだってキミといればそれくらい――」

「でも拓哉さんはわたしを……赤ちゃんを見捨てました。本当の父親なのに逃げたんです」

「っ……だから、それは……ボクにだって気持ちを整理する時間が……」

「その間、大和さんがいなかったら、わたしは一人ぼっちでした。気持ち悪くて、辛くてしんどくてもうイヤで……一人だったら、この子のことを諦めてたかもしれません」


 大学に五稜さんが初めて現れた時、五稜さんは力強くオレに赤ちゃんを産むと宣言した。

 その強い意思が折れそうになるほど、つわりは酷いものだったのだ。

 それを折らずに支えられたのは、オレとしても嬉しい限りだ。


「大和さんにとってはほんとに迷惑をかけました」

「確かに大変だった。きっとこれからも大変な日々が続くんだと思う。でも、元気な赤ちゃんを産みたい、赤ちゃんを守りたいって五稜さんが頑張ってたから、オレも頑張れたんだ」


 元々はオレが妊娠させてしまったって罪悪感が原動力だったが、オレ自身途中で世話を放り出さなかったのは、五稜さんの懸命な姿があってのことだ。

 つわりのピークが終わって、こうして出歩けるようになったものの、まだ終わったわけじゃない。寧ろ始まったばかりだ。

 オレはこれからも五稜さんを側で支え続けるだろう。


「だからって……関係ない人に面倒を見させるつもりなのかい?」

「大和さんは関係ない人なんかじゃありません。この子の――この子の父親ですっ」

「っ……キミも自分と血の繋がりのない子を人生をかけて育てるつもりかっ」

「血の繋がりなんて些細な問題だ。大事なのは五稜さんと赤ちゃんを守りたいって気持ちだろ」


 伊藤の言うことは理解できる。オレにだって少しの迷いもないと言えばそれはウソになる。

 でも言った通り守りたいって気持ちがあれば、そんなの問題にするほどのことじゃない。

 一般的な考えで言えばオレは間違っているのかもしれないが、一緒に苦楽を共にして今更オレの子じゃないからなんて無責任なことは言いたくもない。

 たとえ本当の父親が現れたとしても。


「……六花ちゃん、最後にもう一度聞くけど――」

「その必要はありません。大和さんが最後まで責任をとってくれるって言うなら、わたしは大和さんと一緒にいます」


 これってもしかして告白――いやプロポーズか? 

 生まれてこれまで彼女いない歴=人生のオレが初めて、女の子からアプローチされてる?

 真面目な場面でそんなこと気にしている状況じゃないのはわかっているが、オレの頭の中はもうそれで一杯だ。

 早く返事をしなきゃ。いや、でも前の男の前ではさすがに可哀想……いやいやでも、こういうのは即断即決じゃないと相手を不安がらせちゃうし。


「そうかい……」


 男は肩を下ろすと懐に手を入れて、黒い長財布を取り出し、そこから一万円札を抜くと机に置いた。


「ここの支払いはボクが持とう」


 三人の飲み物代はたぶん多く見積もっても千円くらい。一万円だと大分高いが――


「これで足りると思ってるのか?」


――オレはあえてそう言った。

 含ませた意味は当然、これまで赤ちゃんにかかって来た費用、これからかかる費用がこれっぽちで足りるはずないだろってことだ。


「キミが父親なんだろ?」


 正確に意図した意味を読み取り、そう返してくる。


「ふん、もちろん冗談だ。行くならいけ。二度とその面見せるな」


 もしかしたら五稜さんが心変わりするかもしれない。

 今は一時の気の迷いってこともあるかもしれないからな。

 だからさっさと引き下がってほしい。そして二度と会いたくない。

 器が小さい?

 うるせぇ、初めて出来るかもしれない彼女を奪われたくないって思ってなにが悪いっ!

 この手は絶対に離したくないんだよ!


「……さようなら、六花ちゃん」

「はい……さようなら、拓哉さん」


 ただの別れの挨拶ではなく、今生の別れのように聞こえた。

 たぶん、実際に二人はそのつもりで言ったのかもしれない。

 五稜さんが施設に入ったのは、生まれてすぐのことだと聞いている。その時からの付き合いだとすると、実に十七年になるわけだ。

 その歳月はまだ若いオレたちにとっては、とても長い時間だ。

 それだけの時間を共有した人と別れるのは、辛いことだろう。

 本当ならもっと別れの言葉を言いたかったかもしれない。

 でも、二人はそれ以上何も言わなかった。

 伊藤が静かに席を立って出ていく。その姿を五稜さんは静かに見送っていた。

 瞳には若干の涙が浮かんでいるように見えるが、そのことについて何も思うことはない。

 特別な人との別れだ。仕方ない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る