第17話 始まったみたいです……
五稜さんがオレの前に現れて「あなたの赤ちゃんを妊娠しました!」と爆弾発言をし、親に紹介してから一週間ほどが過ぎた。
大学ではちょっとした騒ぎにもなり、女子高生くらいの女子を妊娠させたクソ野郎がいる。見つけ出せみたいな空気があったが、幸いオレは目立たないタイプなので特定されることはなかった。だが、隣に朝顔葵がいたことで、同期である翔太と勇気からは疑いをかけられた。結局はしらを切り通したが。
葵も誰かに告げ口するようなこともなく、概ねオレの大学生活に変化はなかった。
それでも変わったと言えば、帰ればオレの赤ちゃんを妊娠しているらしい可愛い女子高生が部屋で待っていてくれていることと、アルバイトが増えたくらいだ。
親父は赤ちゃんにかかる費用諸々は借金ではあるものの、支援してくれると言ったが、オレと五稜さんの生活費に関しては自分で何とかしろとのことだった。なので大学の勉強に支障が出ない範囲でアルバイトを極力増やし、友人たちとの遊びは控えるようになった。
「ただいま」
今日も増やしたアルバイトを終え、オレは愛しのマイ・エンジェルが待つ我が家に帰ったーーいや、冗談だ。さすがに彼女に対してそんな感情はしばらく抱けそうにない。
恋愛感情よりも、どうしても罪悪感が優ってしまう。
「…………」
部屋に向かって声をかけるものの、返事がない。
いつもならすぐに五稜さんが「お帰りなさいっ」と新妻のように顔を出してくれるのに。
もしかして散歩にでも出かけているのだろうか? でもリビングの電気がついている。つけっぱなしってことも考えられるが、彼女は普段つけっぱなしにするようなことはしない。
まぁ、今は偶々って可能性は十分にある。
少し前までは出迎えなんてないのが当たり前だったのに、少しだけ寂しく思いながら靴を脱ぎ、家に上がる。
そしてリビングに向かう途中で――
「うえぇぇぇ……」
――トイレのドアの前で、何からうめき声のようなものが聞こえてきた。
どうやらトイレに入っていたらしい。でも、何でうめき声? もしかして特大の難敵と格闘中なのだろうか?
もしそうなら嫌なタイミングで帰ってきてしまったかもしれない。
もし今五稜さんが出てきたら、きっと恥ずかしそうに顔を赤らめるに違いない。
「……もう少し外にいてあげるか」
お帰りなさいって言ってほしいしな。
こっそりと気遣いのできる男として、オレは一度家を出た。
五分、十分適当に辺りを散歩でもしよう。
オレは夕日の沈んだ、薄暗い空の下、外灯が灯る見慣れた近所をぶらぶらと歩いた。
「ただいま」
余裕をみて一五分が過ぎた頃、何も知らない顔で再び帰宅する。
「…………」
しかし、また返事は返ってこなかった。
リビングも変わらずに電気がついている。
「まだトイレにいるのか?」
さすがに長い気がする。便秘にでもなったのだろうか? それとも逆に下痢?
どちらにしろ少し心配になる。
改めて靴を脱いで家に上がり、トイレの前に立ち寄ってみる。すると中から僅かに、「いぐっ、っくっ」としゃっくりにも似た声が聞こえてくる。あるいは泣いているのを我慢しているような声だ。
「五稜さん大丈夫? どうかした?」
しゃっくりなら取り越し苦労。泣いているならその理由があるのだろう。しかもトイレの中で泣くような理由が。
オレは咄嗟にトイレのドアを叩いてしまった。
女性のトイレ中なんてデリカシーがないとが、ほとんど反射的だったので許してほしい。
「え、あ、大林さんですか?」
「あ、うん、オレ……なんか泣いてるようなしゃっくりしてるみたいな声が聞こえてきたんだけど、大丈夫か?」
トイレの最中を邪魔したいわけじゃなく、心配してるんだよとアピールしておく。
「……えっと、大丈夫……とは言えないかもしれません」
「っ! 何かあったのか? もしかして隣人に嫌がらせでもされたか? それとも新聞? NHKか?」
うちは新聞とらない、テレビは無いって言ってるのにまた来たのかっ!
「そういうわけじゃ……うえぇぇぇ」
苦しそうな声と一緒にボドボドボドっと何かが水面に落ちるような音が聞こえた。
あれ? もしかしてこれって……嘔吐?
「はぁ、はぁ、はぁ……」
乱れた呼吸を整える息遣いの後、ゆっくりとトイレのドアが開いた。
中には勉強にもたれ掛かるように床に座り込む、五稜さんの弱々しい姿があった。
それから数秒遅れて、鼻に異臭がつく。
トイレの嫌な匂いではなく、酒を飲み過ぎて最終的にリバースした時の、酸味のある酸っぱいような臭いだ。
「……始まったみたいです……」
何が? とは聞いたりしない。
いくら妊娠の数え方を知らなかったとしても、それくらいの常識は知っているつもりだ。
始まった――つわりのことだろう。
五稜さんは今七週目に入っている。個人差はあるにしろ、いつ始まってもおかしくない時期だから五稜さんの体調の変化は気にかけるようにと、お袋にアドバイスされていた。
「そっか……えっと、どうすればいいんだ?」
事前に言われていたにもかかわらず、オレは動揺を隠せなかった。
何をしたらいい?
「ふぅ……別に何もしなくて大丈夫ですよ。ただ気持ち悪いだけですから。大林さんは気にせずに休んでください。勉強にアルバイト、疲れてますよね?」
一度深く息を吐いてから、五稜さんは無理に笑みを浮かべようとするが、気持ち悪いのか笑いきれていない。
とてもじゃないが気にせずに休んでなんていられそうにない。
「五稜さんこそオレのことなんて気にするなよ。とりあえず水飲めるか?」
「……はい。それじゃお水をください」
「待ってろ、すぐに持ってくるから」
オレは荷物を放り出して、キッチンに向かいコップに水を入れてトイレに戻った。
五稜さんは気だるそうに便器にもたれ掛かったままだ。
オレは腰を下し、コップを渡す。
「ありがとうございます……」
この一週間、常に明るく元気な五稜さんだったが、今は別人のように弱々しい。
ゆっくりコップを受け取ると、慎重に口元に運んで、一口含んでぐちゅぐちゅとゆすいでから吐き出し、それから改めて水を飲んでいく。
「……はぁー、少しさっぱりしました」
水程度で本当にさっぱりするのかわからないが、頑張って笑おうとする五稜さんにウソだろなんて言えるはずもない。
「もしかして今日一日中そんな感じだったのか?」
「いえ……気持ち悪くなってきたのは、少し前からです。それまで何ともなかったんですけど、急に」
「そういうものなのか?」
つわりの症状は人によって全然違うとも聞くし、五稜さんの場合は酷いのだろうか? それとも他の人よりも――いや、他の人なんて関係ない。現時点で五稜さんが辛そうにしているんだから、オレはできることをしないと。
「まだ吐きそうか? 落ち着いたようならベッドまで運ぶぞ」
「そう……ですね。胃の中の物は空な気がします。もう胃液しかでなくて」
「それは大丈夫なのか? 何か食べた方がいいよな?」
「はい。でも食べたらまた吐いちゃうかもしれません」
「そうかもしれないが、赤ちゃんに栄養をあげるためにも何か食べないと」
妊娠中は赤ちゃんを育てるためにエネルギーを使うはずだ。そんな状況で胃の中が空ってのはまずいだろ。
「とりあえずベッドに行こう。そしたら何か作るから」
「はい……」
五稜さんは便器に手をついて、ゆっくりと立ち上がるとトイレの水を流した。
オレはトイレから出てきた彼女に右手を貸して、空いている左手は腰を支えるように添えて、五稜さんの速度に合わせてリビングに移動する。
もともと一人暮らし用の部屋なだけあって廊下が非常に狭いっ!
五稜さんと一緒に暮らすようになってから、掃除なんかはオレがいない間に済ませておいてくれるので、部屋の中はキレイでスムーズに歩ける。
もともと葵がちょくちょく課題なんかで寝泊まりに来るので、綺麗な割合は多かったが、一人になると服を脱ぎっぱなしにすることもあり、歩くのに邪魔になっていた。
今日も五稜さんが片付けてくれていたようで、助かった。
「ほら、ゆっくり座って。倒れないように気を付けて」
いきなり倒れたりしないように気遣いながら、ベッドに座らせる。
「ありがとうございます……ふふ、大林さんはやっぱり優しいですね」
お礼を言うと、五稜さんは唐突に笑いだした。
「こんなの普通だろ?」
トイレであんなに辛そうな顔をしてた女の子を無下にできる男なんているのかよ。
「普通じゃないですよ。少なくとも今はまだ介護が必要なくらい辛いわけじゃありません。なのにこんなに寄り添ってくれて……もっと症状が重くなってきたらお姫さま抱っことかされちゃいそうです」
クスクスっと上品に口元を隠しながら、上目遣いで見上げてくる。
「必要ならするぞ。お姫さま抱っこでもおんぶでも好きな方を」
「…………それは体調に合わせてお願いします」
「ああ、それで何か食べられそうなものはあるか?」
こういう時はやっぱりおかゆだろうか?
でもつわりは普通の体調不良とは違うか? もっと栄養があるようなものがいいのか?
「そうですね……気持ち悪くてあまり食べたいって気はしません。お腹は空いてますけど、むかむかしてて」
「ちょっと待ってくれ。お袋に相談してみる」
わからないことがあれば迷わず経験者であるお母さんに聞きなさい――と自信満々に言っていたお袋に早くもすがろうと思う。
無駄に見栄をはって、五稜さんとお腹の赤ちゃんに何かあったら取り返しがつかない。
そんなわけで早速お袋に電話だ。
『もしもし? なに? 今夜ご飯を作ってる最中なんだけど』
「五稜さんつわりが始まったみたいで気持ち悪そうなんだ。どうしたらいい?」
悪いがそっちの夜ご飯よりもこっちを優先されてもらう。
前置きを省略して尋ねた。
『そう。症状は人それぞれだから絶対にこれっていう方法があるわけじゃないけど、とりあえず水分はちゃんと取らせなさい。中には飲み物がダメになっちゃう人もいるらしいから、そういう場合は水分の多い果物や野菜を食べさせるようにしてあげて』
「水ならさっき問題なく飲んでた」
『そう。他には当たり前だけどご飯をちゃんと食べさせるのよ。私がそうだったけど、吐くのが辛くて食べたくない時もあると思うけど、できるだけ食べさせるの。少し間隔が空いてもいいから。胃の中が空になるとむかつきが感じやすくなって余計に気持ち悪くなるわよ』
「少しずつでもいいんだな? 何を食べさせた方がいいんだ?」
ちょうど五稜さんも気持ち悪くて食べたくない、お腹は空いてるけどむかむかしてると言っていたので、ありがたい情報だ。
『あんたも聞いたことがあるでしょ、妊娠すると身体が変化して匂いや味で吐き気が出てくるものもあるから、本人が食べられるものをあげなさい。おかゆとかおにぎりとかが食べられるといいんだけど、あとパンとかうどんなんかもね』
「案外普通のを食べてもいいんだな」
『ホントに人それぞれよ。今言ったのが食べれない人もいるし、そもそもつわりなんて感じないで普通の食生活を送れる人もいるんだから』
「なるほどな」
つまりはあまり参考にならないってことか。
あくまで五稜さんに合ったものを見つけないといけないわけだ。
『それと身体を締め付けるような物は外させなさい』
「身体を締め付ける?」
別にSNプレーなんてしてねぇぞ?
荒縄で縛ったり、拘束具を身につけされたり、ボンテージでも着せてるとでも思われてるのだろうか?
とても心外だ。
『あんたにもわかりやすく言えばブラジャーね』
「最初からブラって言えよ。変な想像しちまっただろ」
『そんな発想が出てくるってことは、事前に何も調べてなかったんでしょ』
嫌味を言ったら的確な返しをされてしまった。
はい。その通り――とは、これから父親になろうとしている身では簡単には頷けない。
いや、オレにだって言い分はある。
まずは大学生の本分である日々の勉強。そしてその合間に短時間でできる配達のアルバイトなどもするようになって、あまり自分の時間が取れない日が続いている。
家に帰れば課題をやったりしていると、まだ始まってもいなかったつわりについて事前に調べる余裕がなかった。
『あんたの手に余るようなら様子見に行くけど?』
「……いや、いい。最初から手は借りない。どうしても無理な状況になったら頼むけど、今はまだいい」
この状況を作ったのは他でもないオレ自身だ。
もちろん泥酔していた間と言い訳したいが。
金に関しては親父に助けてもらうことになってるのに、他のことでも手を借りるわけにはいかない。
これはオレが責任をとらないといけないことだ。
『……無理だと感じたらすぐにいいなさい。あんたがの見栄やプライドを守るところじゃないわよ』
「そんなの言われなくてもわかってる」
『なら、いいわ。他にもいくつか注意点があるから必要ならメモとりなさい』
その後もお袋は色々と教えてくれた。
五稜さんの症状がどの程度で、どこまでが必要になるのかは今の段階では全くわからないが、できる限りのことはしようと胸に誓った。
通話を終えたオレはベッドの背もたれに寄りかかり、いつもの元気が無い五稜さんと目の高さが同じになるように、床に片膝をつけた。
「五稜さん」
「はい……何ですか?」
「ブラを外そう」
「……はい?」
オレの発言があまりのも予想外だったのか、五稜さんを気分の悪さを忘れたように、瞼を瞬かせて素っ頓狂な顔をした。
ブラを外す意味を説明すると――
「犯されちゃうのかと思いました」
――と五稜さんは苦笑いを浮かべた。
失敬な。そんなことするわけ……少なくとも今後は合意のないセックスなんて絶対にしない。
いや、もう何度も言い訳してるが、ホントに記憶にございせん。
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