第16話 六週目でした


 葵との通話を終えたオレは待合室に戻った。

 偶々今日は受診者がいないのか、オレ以外には誰もいない。

 病院じゃない産婦人科はこんなものなのだろうか? それとも日本全体の産婦人科がこんなものなのだろうか? もしそうなら日本に未来はないと本気で心配になる。

 そんなことを考えていると、ペタペタとスリッパ特有の足音が聞こえてきた。

 音がしてきた診察室に続く廊下から、俯いた状態の五稜さんがこちらに向かって歩いてきた。

 何やら不穏な雰囲気を感じ、オレは思わず椅子から立ち上がった。


「どうしたんだ、五稜さん? 何か問題でも――」


 あったのか? と聞こうとしたら、五稜さんは無言のままオレに抱きついてきた。


「えっ……」


 いきなり何だ?

 オレと彼女はそんな抱き合うような関係じゃないはずだ。

 なのにいきなりこれは……。

 五稜さんと唐突な行動に、オレは戸惑い、思考が停止する。

 すると、抱きついてきた五稜さんの身体が小刻みに震えていることに気づいた。


「……何かあったのか? もしかして赤ちゃんに……」


 五稜さんがこんな風になるなって赤ちゃんに何かあったのかもしれない。

 妊娠初期は非常に不安定な状況で、赤ちゃんが流産しやすいと聞いたことがある。

もしかして――と一瞬頭をよぎった。


「いいえ、赤ちゃんに問題はありませんでした」


 オレの懸念を五稜さんは首を横に振って否定する。

 だとしたらどうして? と余計に混乱してしまう。


「……股、開かされました」

「……え?」

「何か変なのを入れられました」

「……それは……」

「とても恥ずかしかったです」


 どうやら診察内容に問題があったらしい。

 詳しくはわからないけど、アレだろうか?

 クスコで膣内を覗かれたとか、そういう診察を受けたのだろうか?

 初診でいきなりそこまでするとは思わなかったな。


「えっと……よく耐えたね?」


 オレはブルブル震える五稜さんの背中に腕を回して、軽くギュッと抱きしめ返した。

 女子高生にこんなことをしていいのかわからなかったが、オレにできることはこれくらいしか思いつかなかった。


「っ……落ち着くまでこのままでいてください」

「あぁ、好きなだけしててやるから」


 トントンと子供をあやすように背中を叩きながら、オレたちはしばらくの間抱き締めあった。

 もし他にも受診者がいたら、恥ずかしくてできなかったかもしれない。五稜さんはそれ以上に恥ずかしい思いをしたのだろうけど。


 三分くらいして、五稜さんの気分が落ち着いてきたのか、小さな声で「ありがとうございます」と呟くと、少し照れ気味でオレから離れていった。

 それからどういう診察をしたのが説明してくれた。


「妊婦さんで赤ちゃんの様子を見るって言ったら、エコーだと普通思うじゃないですか? お腹に当てるアレです」

「ああ、定番だよな」


 果たして定番が正しい言葉なのか、自分で言っていても疑問だったが、オレは言いながら頷く。


「でも、今の段階だとまだ赤ちゃんが小さすぎるから、普通のエコーじゃ見えないらしんです」

「まぁ、そうかもしれないな」

「なので経腟法? でしったっけ? 指くらいの細い棒状の器具を……その、入れられたんです」


 聞いたことのない単語だ。五稜さんもうろ覚えなのか首を傾げつつ、どういう物だったか教えてくれた。

 けしてどこに入れられたかは言わないが、推測するのは容易い。赤ちゃんが出てくるところを考えれば一つしかない。それにさっき股を開かされたとも言ってたしな。


「そっか……それを使うことで赤ちゃんの様子がわかるのか?」

「それもエコーらしいです。子宮のすぐ近くを見ることができるから、妊娠初期はそれを使うらしくて……あの、今のは忘れてください」


 説明している途中で、五稜さんはハッとすると、顔を下にして耳を真っ赤に染めた。

 子宮と聞けば、どこに入れられたのかはハッキリしてしまう。

 濁しても察しはついてるが、年頃の女の子からすれば耐え難いことだろう。


「……それで赤ちゃんの姿も見えたのか?」


 オレが何も答えずに話を進める。


「はいっ。とっても小ちゃくて何が何だかわからなかったんですけど『これが赤ちゃん』って教えてもらいました」


 誤魔化すように元気に頷き、五稜さんはこれくらいと右手で小さな丸を作った。

 オレも見てみたかったな。写真みたいにプリントしてもらえるのだろうか?


「ちゃんとわたしの中で育ってるんですよ」


 五稜さんは目を細めて微笑みながら、愛おしそうに自分のお腹を撫でた。

 まだ大きくなってなくて、見た目では妊娠していることなんてわからない。でも、そこには確かに新しい命が芽生えているのだ。

 その姿を見て微笑ましいと感じた。

 すでに五稜さんは母親の顔をしている。きっと今彼女の中では、母性本能が花開いているのだろう。

 それからオレたちは、名前を呼ばれるまで赤ちゃんについて話をした。


 ◇


「ただいまです」


 診察を終えたオレたちは、今一度オレの実家へと向かった。

 玄関を開けるなり、五稜さんはまるで自分の家に帰ったかのように、当たり前のように「ただいま」と声をかけた。

 昨日も少し思ったが、この子の適応力半端ないな。

 オレが同じ立場なら、とてもじゃないが気楽に「ただいま」なんて言えない。


「六花ちゃん、お帰りなさい。それでどうだったの?」


 オレたちの帰宅に気付いたお袋が、これまた当たり前のように「お帰り」と顔を出す。

 今日会ったばっかりなのに、二人がもう馴染んでいることに驚きを隠せない。

 この分だと嫁姑の確執とか問題なさそうだ。


「六週目でした」

「そうなの」

「予定日は一月の中頃になるって言われました」

「年明けね。長いようであっと言う間ね、きっと」


 一月か――つまり今年度中にオレは父親になるわけだ。


「忙しくなるし、賑やかになるわね。うちは大和一人だけで少し寂しかったから、楽しみだわ」

「大和さん一人っ子なんですか?」

「ああ、言ってなかったか?」

「聞いてませんよ」


 家族構成なんてわざわざ言うもんじゃないし、話してなかったかもしれないな。


「それなりに頑張ったんだけどね、なかなか恵まれなかったのよ」

「お袋、そういう生々しい話を息子の前でしないでくれ」


 親の営みなんて聞きたくないわっ。

 あの親父が頑張ってたとか、そんなこと聞いてどんなリアクション取れってんだよっ!


「なによ。大和だって六花ちゃんとしたから赤ちゃんができたわけでしょ」

「そりゃそうだけど……」


 チラっと五稜さんの様子を窺うと、産婦人科の時のように俯いたりはしていないが、頬がやや赤くなって気恥ずかしそうな感じになっている。

 オレ相手に言うだけならいいが、女子高生の本人を前にして言うことじゃないだろ。言うにしたってもう少し言い方ってもんがあるだろ。


「そういえば二人はいつから付き合ってるの? 前に葵ちゃんに聞いたらまだ春は来てないって言ってたんだけど?」

「うっ、それは……」


 まずい。付き合ってる設定にしてくれとは言ったけど、具体的にいつから付き合っていることにするか、決めてなかった。

 前に葵に聞いたと言うのがいつのことかもわからないし、答えるのに窮してしまう。

 葵が偶にお袋にオレの失恋話を知っているので、適当に答えるとボロが出るかもしれない。


「大体二か月前です。わたしが痴漢に遭ってたところを大和さんに助けてもらったんです」

「あら、そうなの? 痴漢に?」

「はい。春になると虫みたいに変態も多くなるから嫌です」

「あらあら、それは大変ね。六花ちゃんみたいな可愛い子には変態も群がってきちゃうのね」


 五稜さんの咄嗟の作り話にお袋は仕方ないと相槌を打つ。


「じゃ、二人の出会いはそれがきっかけで?」

「はい。助けてくれた大和さんに一目惚れでしたっ」

「…………」


 下手にオレが口を挟むより、五稜さんに任せた方がいいかもしれない。

 話に乗ってあれこれ言って矛盾するようなことになれば、疑われるきっかけになるだろうし。


「そうなの。うちの人は警察勤めだから、大和が小さい頃から色々厳しくてね。そのおかげか昔から困ってる人を助けられるように育ってくれたのよ」


 そりゃ学校でいじめがあって、見て見ぬふりをしたらオレが親父に無視されたりしたからな。助けるしかなかっただけだ。


「そうなんですか? 大和さんって頼り甲斐のあるいい人ですよね」


 屈託のない笑みを浮かべる五稜さんの言葉が胸に突き刺さる。

 頼り甲斐のあるいい人――それはオレが女性陣にフラれる時の常套句。

 そして葵曰くどうでもいい人ということらしい。

 そりゃオレたちの間に恋愛感情なんてないけど……やっぱりそうなんですね……。


「旦那の教育の賜物よね」

「お義父さんに感謝です」


 笑い合う二人だが、オレの心情としては「やめてくれ」だった。

 すげぇ、惨めな気持ちになるから今すぐにでも話題をそらしたい。


「あぁーそういえばなんで妊娠六週目なんだ? した日で考えると四週目くらいだろ?」


 葵の計算通り、五稜さんがなぜ六週目七日わからず、オレは話題を逸らす意味も込めて二人に問いかけた。

 五稜さんの言う通り、四月二八日が原因なら、今は四週目のはずだ。


「大和、あんたその歳にもなって、そんなこともわからないの? だから彼女ができなかったのよ。ごめんなさいね、六花ちゃん、こんなバカな息子で」


 そんなこと知ってたって、彼女はできねぇだろ――なんて言ったら余計にバカにされそうだから、言い返したい気持ちをグッと堪える。


「いえ、男の人ですから、そういうの知らなくても仕方ないですよ」


 二人の会話を聞いている限り、どうやら間違っているのはオレらしい。

 でも六週前って五稜さんと出会ってすらないわけなんだが?


「えっとですね。妊娠の数え方って、その……えっちなことをした日や受精した日から数えるわけじゃないんです」

「どういうことだ? 赤ちゃんができた日から数えるんじゃないのか?」

「妊娠の数え方は妊娠する前の最後の生理が始まった日から数えるんです」

「生理の始まった日?」


 何で?

 生理って子作りと直接的な関係ってあるか?

 そりゃ古くなった卵子を身体の外に出す現象なわけだから無関係ってことはないだろうが、別物だろ?


「何でそんな紛らわしい考え方をしてるんだ?」


 どうしてセックスした日より前からカウントする必要があるんだ?

「排卵日って周期である程度分りますし、体調の変化でそろそろかな? って思ったりもします。でも間違いなく今日だってわかる人って……いるかもしれませんけど、わたしにはわかりません。そんな状況でこの日に妊娠したって断言することってできますか?」


 それは……無理かもしれない。


「でもセックスした日がわかってれば、それ以前ってことにはなるよな?」


 精子って女性の中で何日か生きてるらしいが、少なくとも前ってことはないだろ。

 別にセックスした日が妊娠した日って考えでもいいんじゃないか?


「考え方を変えてみなさい。例えば毎日イチャイチャしてたとしたら、いつかなんてわかるの?」

「……無理だな」


 そうか。オレは四月二八日ってわかってるけど、中には毎日お盛んなカップルがいてもおかしくない。

 そういう連中からすればいつ妊娠したかなんて判断できるはずがない。


「排卵した日もわからない、受精した日もわからない。でも生理が始まった日なら普通わかるわ。だからそれを目安として考えるようにしてるのよ」

「……なるほど、実際に妊娠してるかは関係なくて、あくまで目安って考え方なのか」

「はい。実際は大和さんの言う通り四週くらいが妥当です。でもわたしの場合だと六週目になるんです」

「ふ~ん……」


 理屈はともかく、とりあえずそういう考え方をするってことは理解できた。

 そのことを知っていたから、昨日葵はパッと計算できたのか。


「保健体育で習わないの? 男子は」

「どうだったかな? 習ったような習わなかったような……」


 高校の時に教わった記憶はない。いや、きっと習ったんだろうが忘れてしまったのだろう。

 考え方がややこしくて面倒だったのかもしれない。

 今ですら面倒だと思ったくらいだ。自分には直接関係なかった男子高生なんて、テストが終われば忘れていても不思議じゃない。


「大丈夫ですよ。きっともう二度と忘れないですよね?」


 フォローするように微笑みかけてくる五稜さんにオレは「ああ」と頷いてみせた。

 こんなことになって忘れられるほど、オレはバカじゃないつもりだ。

 妊娠の数え方は最後の生理から――うん、覚えたバッチリだ。

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