第7話 痛いのは嫌です!


「「………………」」


 恋人と疑われたオレと葵は、お互いの方を向いた。

 そりゃ葵と恋人に――なんて妄想はもう数えきれないほどしてきた。

 でも葵はこの通りの美女で多くの男たちがその周りに群がった。その中にはオレなんかよりも断然、顔も性格も将来性のある輩がいた。

 結局その誰とも付き合わずにきたわけだが、だからってオレが付き合えるわけじゃない。

 葵はオレが触れていいような奴じゃない。まさに高嶺の花だ。

 きっと葵の方こそオレなんてごめんだろう。仲良くしているのはあくまで幼馴染みだからであり、そこに恋愛感情はない。


「いや、違うけど」

「いえ、違うわよ」


 オレたちは合わせるわけでもなく、同じタイミングで五稜さんの方へ向き直って否定した。


「息までピッタリなのにっ!」


 さらに驚きの顔を浮かべているが、違うものは違う。


「そりゃ恋人として息があってんじゃなくて、幼馴染みとして息があってるだけだ。もう十七年は一緒にいるからな」


 幼稚園に通い始めたのが三歳くらいだったか? もしかしたら四歳だったかもしれないが、大体その辺りだったはずだ。


「そうそう、一七年ただの幼馴染みしかしてないから、あたしたち」

「……途中で恋人だったこともないんですか?」


 今じゃなくても過去は? そういう意味の質問だ。


「「ないない」」


 オレと葵はまた同じタイミングで否定した。


「……まぁ、お二人の関係がただの幼馴染みと言うのであれば構いません。流石に略奪のようなマネはしたくないので」

「こんなので満足できるなら、どうぞご自由に」

「こんなのってなんだよ」

「あんたなんてこんなので十分でしょ。万年恋人とセックスのことしか考えてない変態なんだから」

「バカっ、そんなの男なら当たり前だろっ」


 男は結構頻繁に発散しなきゃいけないことがあんだよ。女のお前にわかるのかよ、一人で処理する虚しさが。

 せっかくならまだ見ぬ彼女に処理してもらいたいと思って何が悪いっ!


「大和サイテー」


 また心の中を読んだか。

 まぁ、口にしてないから何も言わないがな。

 オレはなんのことだ? とすっとぼけたように首を傾げることにした。


「……ずずずっ――ってすっぱ! えっ、しょっぱい? なんですかこれ!」


 疑いの視線を向けながら、五稜さんは葵が入れたお茶を飲み、度肝を抜かれたような表情を浮かべ、湯呑みとオレたちを何度も交互に見ては「まずいっ!」と舌を出した。


「お子ちゃまにはわからない味わいよね」


 なぜか勝ち勝ち誇り、見せつけるように葵はマグカップに口をつける。


「なにしょうもないマウントとってんだ? これは梅昆布茶だ。集中力がアップする」

「梅昆布茶っ、年寄りクサイですっ!」


 本当に口に合わなかったのか、五稜さんは若干涙ぐんでいた。大袈裟な――と思いつつ、可愛いなとオレも梅昆布茶を啜った。


 ◇


 その後、五稜さんは二度と湯呑みに口をつけることはなかった。

 オレたちはベッドと勉強机の間に置いた一人暮らしようの小さなテーブルにコップを置いた。


「とりあえず今後のことをどうするか決めるわよ。はい、大和は床に正座」

「なんでだよ」

「強姦容疑のかかったあんたが椅子やベッドに座れるとでも?」


 そう言いながら、葵はベッドの向かい側にある勉強机の椅子に腰をかけて足を組んだ。 


「お、お前、オレのこと信じるって言ってたくせに」

「容疑がはれるまでは容疑者よ」


 それホントに信じてくれてるのか?

 内心疑問に思いながらも、オレ自身否定し切ることができないので、渋々床に正座することにした。

 あ、このアングル、葵のスカートの中が見えそうで――見せないっ!

 太ももとかはバッチリだが、その奥が薄暗くてはハッキリとしない。

 いや、別に覗きたいわけじゃないぞ。うん、葵の下着姿は数えきれないほど見てきてるし、あぁ、でもこの見えそうで見えない感じ、もどかしいっ。


「それじゃまず五稜さんに改めて聞くけど、本当にあなたを襲ったのはこいつなのよね? 他の誰かと間違えてる、そういう可能性はないの?」

「説明した通りです。四月二八日、漫喫の二八ブースにいたわたしのところに酔っ払った大林さんが入ってきて、そのまま襲われました」

「それを証明することはできる?」

「できるわけないじゃないですか。大林さんの痕跡はシャワーで全部洗い流しちゃいましたから。残ったのは赤ちゃんだけです」


 痕跡って、つまりはその……子種的なあれのことか?

 そりゃ赤ちゃんができてるわけだから、オレはその……五稜さんの中に……。

 ゴクリ――と思わず生唾を飲んでしまう。

 記憶になくとも、こんな美少女にそんなことをしたと考えると、多少なりとも興奮してしまう。

 なんて浅ましい生き物なんだ、オレっ!


「あ、そうそうこれをお返ししておきますね、大林さん」


 思い出したように、五稜さんはワンピースのポケットから、何かを取り出し、オレに差し出してきた。


「うん? あ、これ無くしたと思ってた学生証」


 泥酔した日の後から見当たらなくなっていた大学の学生証が五稜さんから返還された。


「どうしてこれを五稜さんが?」

「大林さんがわたしを襲った際に落としていきました。これのおかげで名前と大学がわかったんです」

「なるほど……」


 どうしてオレ名前と大学のことを知っていたのか、不思議に思う精神的な余裕がなかったから考えてもいなかったが、そういうことらしい。


「襲われた証拠にはなりませんけど、わたしと大林さんに接点があることくらいは信じてもらえましたか?」

「そうね……でも、あなたが言う通り証拠にはならない。同じ漫喫にはいたかもしれないけど、拾っただけかもしれないわよね? だからあたしたちは決定的な証拠を要求するわ」

「決定的な証拠?」

「赤ちゃんのDNA鑑定」

「なっ!」


 赤ちゃんの父親が本当にオレなのか、ハッキリさせるにはこれしかない。

 五稜さんは目を見開いて、驚いた。その表情には明確な動揺が浮かんでいた。


「なんですかそれ! そこまで信じられませんか、わたしのこと!」

「信じられるわけないでしょ。いきなりあなたの赤ちゃん妊娠しました、責任とってくださいって言われて、どれほどの人が信じられるの? ましてこいつにはその時の記憶がない。認知できない以上、信じられる証拠が必要でしょ?」

「言いたいことは分かりますけど! でもだからって赤ちゃんのDNAなんて――」

「大丈夫よ。今の時代、妊娠八周から十週程度で母体の血液から赤ちゃんのDNAは採取できるの。あなた今は六週目くらいよね? ちゃんと採取できるように後四週は待つとして、その後結果が出るまで遅くても二週、六週間後には結果が出るわ」 


 葵はオレに説明したことを五稜さんにも改めて説明する。

 それを聞いた五稜さんは愕然とした様子だった。


「仮に本当に赤ちゃんがこいつの子だとわかれば、こいつだって父親としての責務を全うするために覚悟を決められる。でも父親じゃないなら、あなたとはなんの繋がりもない赤の他人でしかない。責任をとる必要もない」

「…………」

「十二週ならまだ堕ろすこともできる。なかったことにできる」


 そう言った瞬間、五稜さんは顔色を変えて葵を睨みつけた。


「なかったことになんてできません! この子は生きてる、見捨てることも見殺しにすることもしないって、さっき言ったはずです!」

「産みたきゃ勝手に産めばいいよわ。でも大和が父親じゃなかった場合、こっちは責任を取らないって言ってるの!」

「なんであなたが決めるんですか! わたしと大林さんの問題です!」

「わからないわけじゃないでしょ。大和が父親じゃなかったら、大和の問題ですらないのよ」


 二人は引き下がらずにお互いを睨みつける。

 本当はオレが言わなきゃいけないことのはずなのに、葵が汚れ役を一手に引き受けてくれたようだ。

 万一、本当にオレが父親だった場合、こんなやりとりをしたら後でシコリになるかもしれない。それを案じてのことだろう。


「むむむぅぅ、大林さんはどう思ってるんですかっ! さっきは責任をとるって言ってくれましたよね!」

「もちろんオレが父親なら責任をとるつもりだよ。大学をやめて働く覚悟も……する」


 子供が生まれるのに、呑気に大学生なんてやってる余裕はないだろう。

 出産のための通院費や入院費諸々かかるわけで、日々の生活費くらいしかアルバイトで稼いでいないオレに用意できるはずがない。


「でもやっぱりオレには記憶がないんだ。キミを襲った決定的な記憶が……だからやっぱり確証は欲しいな」

「そんな……」

「あくまで大和が父親って言いはるなら、問題ないわよね?」


 直接は言わないものの「疑ってるわよ」という雰囲気を隠すこともしない。

 できることならこの場で白状させたい、そんな思惑があるのかもしれない。


「……嫌です」


 少し間を空けてから、五条さんは小さな声で拒否の構えをとった。


「嫌ってあなたね、こっちにだって本当に大和の赤ちゃんか知る権利が――」

「嫌なものは嫌です!」

「そんなわがままが通用するとでも思ってるの! もしあなたの言ったことが全部ウソだったら、大和の人生滅茶苦茶よ!」


 卒業後はできれば大手の設計事務所に就職したいと思っているが、途中でやめてしまえば当然その夢は難しくなるだろう。仮に叶ったとしても高卒と大卒じゃ、給料も出世も色々と変わってくるだろう。

 五稜さんのお腹の赤ちゃんが本当にオレの子ならば、それはオレの責任でそうなるのも仕方がない。でももし違うのであれば、葵の言う通り人生滅茶苦茶になりかねない。


「それとも無理な理由があるの? 本当は父親が大和じゃないって――」

「そんなことありません! この子父親は大林さんですっ! わたしが嫌って言ってるのは……注射ですっ!」

「は、はぁ? 注射?」

「そうです! 血液から採取するってことは注射で血を抜くってことですよね? そんなの嫌です」


 注射が嫌なのはわからなくもない。

 子供の頃は注射に何度も泣いた覚えがある。でも最近の注射はチクってするレベルでそれほど痛くない。もちろん感じ方は人それぞれだから一概には言えないが。


「注射が嫌って……あなたこれから赤ちゃんを産もうとしてるのに注射ごときで嫌なんて言ってたら赤ちゃんなんて産めるわけないでしょ!」

「赤ちゃんはいいんです! 赤ちゃんのためならわたしはどんなことにも耐えます! でも注射は赤ちゃんのためじゃなくて、あなたたちの証拠ほしさですよねっ! どうしてわたしがそんなことのために痛い思いしなきゃいけないんですかっ」

「人の人生がかかってるのにそんなことのためにって」

「わたしを妊娠させたのは大林さんです! 悪いのは大林さんですっ!」

「だから本当に大和のせいか、それを確認したいってわからないのっ」

「痛いのは嫌です!」


 どうやら五稜さんは相当注射にトラウマがあるようだ。

 それとも葵が疑うような理由なのか。

 どちらにしても強引にするわけにもいかない。


「このっ、万が一大和が父親ってことを考慮して下手に出てれば」

「全然下手じゃないですよね! 寧ろ偉そうです」


 当事者であるはずのオレそっちのけでバシバシ言い合ってる。

 できればもう少しトーン抑えてもらえませんかね? ご近所にオレが妊娠させたやら赤ちゃんがどうやらって聞かれると今後のご近所付き合いに影響が出るかもしれない。しかもその相手が高校生なんてバレたら、関係ないところから通報されるかもしれないだろ。


「妊娠の検査で血なんて今後何度も抜かれるわよ」

「赤ちゃんのためならいいんです! でもあなたたちのためはお断りですっ!」


 あくまで赤ちゃんのためなら――五稜さんはそう主張する。

 これは平行線だ。

 今DNA鑑定させろと言ったところで、五稜さんが頷くとはとても思えない。なら、この言い合いに意味はないとオレは判断した。


「葵、そこまでだ」

「……どういう意味よ」


 ギロっと効果音が聞こえそうな目付きで睨まれる。

 こえぇよ。オレのために頑張ってくれたんじゃねぇのかよ。まるでオレまで敵対してるみたいになるだろ。


「五稜さんは身持ちなんだし、あまり興奮させるなって、な?」

「あんたね、誰のためにあたしが――」

「わかってるから」

「…………」


 オレは葵の肩に手を置いた。

 葵はオレの顔と手を交互に見ると、少しして溜め息を吐いた。


「はぁ……わかったわよ」

「悪いな」

「ホントにね」


 多くは語らず、このやり取りだけでお互いに何を言いたいのか伝え合う。


「キミが注射を嫌がってるのは理解した。だから無理にとは言わない」

「そう……ですか……」


 五稜さんはホッとしたように胸を撫でおろした。

 仕方がない、今は一旦諦めよう。

 オレたちは今日顔を合わせたばっかりで、お互いのことを何も知らない。

 何も知らないのに一方的に強引な要求をするわけにはいかないよな。

 時間はまだある。

 葵の計算では五稜さんは現在妊娠六週目らしい。DNA鑑定がちゃんとできるようになるまで待つ予定だから、あと四週は鑑定したくてもできない。なら、その時間を使って説得していくしかない。

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