6-5.Liebesfreud~愛の喜び~

 ……結局貞樹たちが睦み合い、眠ったのち身支度を整えてくつろぎ始めたのは朝の九時頃だ。貞樹は備え付けのマシンでコーヒーを入れ、ソファで縮こまっている理乃にカップを渡す。顔は真っ赤だった。


「どうしました?」

「い、いえ……コーヒー、ありがとうございます……」


 肌を交えたことに照れているのだろう、声もか細い。ドレスに包まれた首元には赤痣がいくつもあり、レース越しにそれを確認した貞樹はほくそ笑む。


「腰が砕けたのではないですか?」

「さ、貞樹さんっ」

「いえ、無茶をさせたと思いまして。節々が痛んだりはしていないでしょうか」


 意地悪い問いに、理乃は大きく首を横に振った。小さな笑い声を零して彼女の隣に座る。


「今日はクリスマスですね。朝食をとったのちに少し、町を案内して下さい」

「はい……か、体は大丈夫ですから……」

「なるほど、では次はもっと激しくしてもよさそうだ」


 笑ってみせれば、理乃が、うう、と返答にならない呻きをあげた。すっかり萎縮してしまっている。多少困らせすぎたかもしれない。頬に手を添え、安心させるように撫でた。


「可愛らしかったので、つい。……そんなあなたの姿を上江かみえ君も見た、というのは本当に妬けますね」

「さ、貞樹さんだって……永納ながのさんに笑顔、向けました」

「おや、やきもちを焼いてくれますか。あれはバイオリンの技巧に納得しただけですよ。他意はありません」

「でも、永納さんは諦めないって……」

「上江君もあなたを諦めないそうですよ。全く、困ったものだ。私には理乃が、あなたには私がいるというのに」


 頬から手を離し、溜息をついた。どうすれば二人を納得させることができるのだろう。理乃以外の女性に興味はない。理乃だって、隆哉たかやからの告白を蹴ったと言っていたのに。


「わたし……クロイツェルを上手く弾けたら、上江さんにもう一度はっきり言います」

「そうですね、それがいい。私は……」


 頷きつつ思案する。こうなったら行動で示した方が早いかもしれない。教室では生徒へ平等に接したい。だが、美智江みちえが何度もアプローチをしかけてくるというのなら、話は別だ。元々女性除けに理乃へ偽の契約を持ちかけていた事実もある。


 ふと理乃の放った言葉が気になり、貞樹は軽くうつむかせていた顔を上げた。


「それでは理乃、あなたは来年まで上江君を放っておくと?」

「上江さんだって演奏家ですし。わたしの演奏……クロイツェルを誰に向けて演奏しているかわかると思うんです。わ、わたしのクロイツェルは、貞樹さんに捧げたいんです」

「嬉しい言葉ですね。私に捧げてくれるというのは」

「は、はい……まだまだ勉強しなくちゃいけないですけど」

「私がいますよ、理乃。二人で素晴らしいクロイツェルを完成させましょう」


 理乃は喜びを面に出して、微笑む。その笑みにはうれいもかげりもない。純粋な微笑みに、貞樹の心臓はときめいた。


 温もりを分かち合い、愛をささやきながら二人で幾度となく絶頂に果てた。なのにまだ足りないと思いを募らせる自分がいる。貪欲なまでの感情は、クラシック音楽に向けるものと同じ以上に強い。


 コーヒーを飲み干し、理乃の手を優しく取る。


「そろそろビュッフェに向かいましょう。このまま部屋にいると、またあなたを抱きたくなってしまいますから」

「貞樹さん、やらしいです……」

「本音を口にしただけですよ。それともこんな私は嫌いですか?」

「意地悪……」


 視線を逸らす理乃の顔はやはり赤い。それも愛しく、可愛らしいと思う心があった。


 荷物を持ち、二人で部屋をあとにする。一階のビュッフェで遅めの朝食を済ませ、ホテルからチェックアウトした。


 札幌駅から大通駅まで戻り、都市中心の大通公園で開かれているミュンヘン市へと赴く。出店では馴染みのドイツ製品や小物、飲食物が売られている。雑踏の中、故郷を思わせる空間に貞樹の気持ちは少しばかり落ち着いた。


 小物に目を輝かせていた理乃が、不意にこちらを向く。


「そう言えば、今日から教室はお休みなんですね」

「ええ。来年からまた始めます。理乃、年越しや年明けはどう過ごすのですか?」

「うぅん……実家に帰る予定はないですし、四日からは仕事なんです。だから、家でおそば食べて、神宮にお参りに行って……」

「仕事が終わるのはいつでしょう」

「仕事納めは二十八日です。忘年会は今年出ないって、欠席を伝えてますし」

「では、よろしければ休みの間、私の家へ泊まりに来ませんか?」


 理乃の体が固まった。突然の提案に戸惑うと言うより、恥じらいが先行しているようだ。


「で、でも。わたし、味噌汁くらいしか作れませんし、お邪魔になっちゃいます」

「邪魔だなんて思いませんよ。それにあなたの味噌汁を飲んでみたい。コンサートのチケットもしゅんからもらいましたし、一人で過ごすのには寂しすぎる」


 普段、単身コンサート行くのには慣れているはずだ。だが貞樹の心には、理乃をもっとよく知りたいと思う部分があった。下心ももちろんあるのだが。


「それじゃ……あの、えっと、お泊まり……します」

「また楽しみが増えますね、理乃」


 繋がった彼女の手を強く握り、笑みを深めた。頭痛も痺れもなく、今はただ気分が高揚している。清々しいまでの心地よさ。苛立ちすらも感じない。


 記憶より、そう、なくなった記憶よりも、理乃と歩くこれからを大事にしたい。そこまで思わせてくれる大事な恋人に、より一層愛しさが募った。

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