6-4.Belle nuit, ô nuit d'amour~美しい夜、おお、恋の夜よ~

 デート当日。貞樹さだきはストライプ柄、グレーのスーツに身を包んでいた。一方の理乃りのは、写真の通り瑠璃色の総レースドレスと低いパンプス。薄い化粧は変わらないが、着飾った彼女は普段よりも遙かに美しく貞樹の目に映った。


「たくさん食べちゃいました……」

「美味しかったですね。肉も柔らかかった」


 夜景を見ながら上の階で食事を終え、今は一階にある専用のクラブラウンジにいる。橙の電灯に観葉植物。洒落た内装は大人の空間を醸し出していた。


「本当にごちそうさまです、貞樹さん」

「いいえ。あなたが喜んで下さるのなら安いものですよ」


 腹へ手をやる理乃の言葉に、貞樹は薄く笑んだ。ウイスキーを一口飲みながら。


 貞樹はベンロマックの十年ものを、理乃はグレープフルーツジュースを使った特別なソルティドッグをそれぞれ注文している。


 琥珀色の液体を香りと共に味わいながら、貞樹は用意していたネックレスの袋をテーブルの上に載せた。


「誕生日おめでとうございます。これは私からの贈り物です」

「え……で、でも前にオードトワレをもらいました」

「それは記憶にないものですから。きちんと、今の私からあなたに贈りたいのです」

「……いただいても、いいんでしょうか?」

「ええ。あなたのためにと買いました。気に入って下されば嬉しいのですが」

「ありがとうございます、凄く嬉しい……」


 酔っているのか興奮のためか、理乃の頬は紅潮している。どうぞ、と開けることを勧めた。頷いた彼女は、丁寧な手つきで中の箱を手に取る。群青色の箱から現れたのは、八ミリサイズの真珠のネックレスだ。


 理乃は驚いたように目をまたたかせ、ネックレスと貞樹を交互に見た。


「こ、こんな高そうなもの、いいんですか? 本当に」

「構いませんよ。そのドレスに似合うものをと思いまして。気に入りましたか?」

「はい……綺麗。ちゃんとわたし、貞樹さんのお誕生日にお返し、しますね」


 箱を握り、泣き笑いのような顔で彼女は言う。返答の代わりに貞樹はふむ、と一つ呟くと、ウイスキーのグラスを置いて椅子へと背中を預けた。


「お返しですが。二つほどいただきたいものがあります」

「なんですか? わたしに返せるものだといいんですけど……」


 理乃が箱を袋に戻すのを見計らい、眼鏡を押し上げる。


「一つは、あなたがまだ、今の私に言っていないこと全て……あなたと上江かみえ君との関係、私との本当の関係を教えていただきたい」

「あ……」


 理乃の顔がかげりを帯びた。不安と、怯え。きゅっと唇を噛みしめ、顔を背ける彼女は辛そうだ。目をつむり、何かを思案している。だが、何かを決意したように小さく頷くと、再び瞼を開けた。視線が合う。


「……話します」


 真摯な声で、理乃はぽつりぽつりと、ゆっくりだが全てのことを話してくれた。


 隆哉たかやと姉の莉茉りまの関係。彼女が抱いていた尊敬と思慕の念。彼に体を許した過ち。隆哉からの告白。そして、貞樹との関係性――「恋人のふり」をしていたことを。


 全てを聞かされ、理解し、納得できた。


「なるほど。だから上江君は、私とあなたがまだ恋人関係にないと言ったのか……」

「はい……お墓参りの時に、上江さんに会ったんです。その時にわたし、上江さんに貞樹さんとのことも話しました」

「上江君に告白された、とあなたは言いましたが、どう返答を?」

「気持ちだけは受け取りましたけど……優しさは毒だ、って前に貞樹さんが言っていたので。はっきり、断ってます」

「それでもまだ諦めていませんよ、彼は」

「さ、貞樹さんだって永納ながのさんに告白されてます。諦めない、らしいです……」


 しゅんとした様子で、理乃は膝へ置いた手に力を込める。貞樹は口角をつり上げ、静かに拳へ片手を重ねた。


「私はあなたに告白した。それは間違いないですね?」

「は、はい……」

「では、その返事をいただきましょう。あなたの口から、はっきりと聞かせて下さい」


 理乃はうつむく。何度か口を開閉させたのち、頬を染めながらおもてを上げた。そして、微笑む。うっとりとした、いつもとは違う愛に溢れた笑みだ。


「好きです。わたしは……わたしも、貞樹さんのことが好きです」


 ああ、と貞樹は吐息を漏らす。心臓が跳ね上がるのを感じた。手から伝わる温もり、柔らかなソプラノの声で紡がれた告白。そのどれもが全身に血を巡らせる。


「だから、その、ふりはもう……やめて、下さい」

「……今の私には記憶がありません。薬で抑えられているとはいえ、苛立つことも多くなりました。そんな私でも構いませんか?」


 意地悪い、しかし真剣な問いかけに、それでも理乃は嬉しそうに頷いた。


「私は、これからも貞樹さんと一緒に歩いて行きたいです。み、未熟な部分もあります。でも、わたしが貞樹さんの支えになりたいんです」


 どこまでも奥ゆかしく、それでいて暖かい答えに、自然と微笑みが浮かぶ。


「私もあなたを愛しています。記憶になくても、あなたに抱いた思いは本物です。あなたに支えられて歩く道程は、きっと素晴らしいものになるでしょうね」


 手をとり、指を絡めた。アルコールのせいもあるのか、熱い。だがそれすら愛おしい。


「さて、もう一つをいただきたいのですが」

「は、はい。なんですか?」

「今夜……あなたを抱いてもいいですか。理乃」


 ささやきに、理乃が目を見開く。呆けたような表情を作り、それから照れたのか面を真っ赤にして微笑を浮かべた。


「……貞樹さん。記憶を失ってから初めて名前、呼んでくれました」

「ようやく気持ちの整理がついたので。いつも独り言では呼んでいるのですが」

「わたし……わたしで、いいなら。貞樹さんが求めてくれるなら、わたし……」


 口ごもりながら小さく呟く彼女へ、貞樹は心からの笑みを浮かべる。他の誰を求めるというのだろう。ほしいのは、手にしたいのは理乃だけだ。


「部屋に行きましょう。ああ……その、申し訳ない、余裕がなくて」


 理乃が笑い声を零した。繋いだ手を愛おしそうに見つめ、今度ははっきり首肯する。


 手をそのままに、互いにコートや荷物を持って立ち上がった。貞樹の心臓は今にも破裂しそうなほど脈打っている。自分でこうだ。理乃はもっと緊張しているに違いない。


 フロントを横切り、エレベーターで二十一階、スイートの部屋へと向かう。


 室内へ二人で入る。中央には灰色と青を基調としたソファがあった。茶色の机にある白いメッセージカードを見つけた理乃が、ネックレスの袋を置いてそれを手にする。


「お祝いのカード……これ、持って帰ってもいいですか?」

「ええ、どうぞ。理乃、コートを」

「あ、ありがとうございます」


 クローゼットに自分のコートとジャケット、理乃のコートを掛け、袋にカードを入れる彼女の背後へと近寄る。そのまま、壊れ物を扱うように小さな体を後ろから抱き締めた。柔らかく、温かな肢体。愛おしくてたまらない。


「……理乃」


 肩を掴み、そっと振り向かせた。理乃がこちらの胸板へと手を添え、潤んだ瞳で見上げてくる。微笑には愁いがない。ずっと、その優しい笑顔がほしかった。


 逃がさない――獰猛な思いを隠し、静かに唇を重ねる。柔らかな感触で、甘い。芳しい香りが理乃から立ち上った瞬間、貞樹の理性は消え失せた。


「さ、貞樹さん。待って、お風呂」

「待ちません。逃げられないと思って下さい」

「そんな、んっ……」


 戸惑う理乃をもう一度抱き締め、キスをした。深く、情熱的なディープキスを。次第に理乃の顔がとろけていく。


 今まで以上に首へ強く吸い付いた。所有の証拠を残すために。理乃が甘い喘ぎを漏らす。


「理乃。理乃……私の、理乃」


 たゆたう香り。官能的な嬌声。滑らかな肌。どれもが自分のものだ。血が、欲がたぎる。


 紳士の真似などできそうにない。凶悪なまでの衝動に身を委ね、理乃をベッドに押し倒すようにいざなう。


 ――そして貞樹は、理乃の体に溺れた。二人でどこまでも溶け合う。何度も欲を放つ。同時に理乃を法悦の頂きへと導く。愛をささやきながら。

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