6-6.Pour que la nuit soit propice~夜が幸いであるために~

 年末最後の通院も終え、貞樹さだき葉留はる、そしてしゅんと共に教室の片付けをしていた。二十八日の午後。今日は天候もよく、雪は降っていない。


「バイオリンは全部ケースに入れたよ、さだ。手入れもばっちり」

「ありがとうございます。俊、あなたも忙しいのに申し訳ないですね」

「大したことはしていない。ピアノは来年、調律するのか?」

「ええ。今年中とも考えましたが、もしかすれば理乃りのとは休みの日に練習するかもしれませんから」


 貞樹たちへ水を配っていた葉留が、からかうように笑う。


「年末とかは瀬良せらさんと一緒に過ごすの?」

「そうですね。三日までは理乃を家に招いています。年末年始は彼女と一緒ですよ」

「五日から教室を開くんだったな。記憶の方は、どうだ?」


 俊の問いに、紙コップを握ったまま貞樹は頭を振った。記憶は全く戻っていない。札幌のことも理乃に多少案内してもらったが、不透明なままだ。それでも不安はなかった。


「記憶はいずれ戻ればいい、程度に考えています。あなたたちもいますし、これから先のことが重要ですので」

「あらら、随分変わっちゃって。それも瀬良さんのおかげかな」

「そうですが?」


 不敵に口角をつり上げる。ごちそうさまです、と葉留は言い、俊が笑った。


宇甘うかい女神ミューズは凄いものだな。ここまで君を変えることができるとは。さて、それじゃあオレはそろそろ失礼する。いい年を」

「ありがとうございました、俊。コンサートでお目にかかるかもしれませんが」


 俊は頷き、颯爽と教室を出て行った。後ろ姿を見送って、貞樹は葉留に向き直る。


「私たちも帰りましょうか。私はこれから、理乃の職場へ彼女を迎えに行きます」

「西十一丁目近くなんだっけ? 送ろうか?」


 葉留の申し出に少し悩んだ、その直後だった。


「こんにちはっ。宇甘先生、池井戸いけいど先生」

「あ、永納ながのさん」


 長い茶髪をなびかせて、美智江みちえが教室に入ってくる。我が物顔、といった様子で遠慮もない。屈託のない笑顔を向けられ、しかし貞樹は無表情を貫いた。


「年末のご挨拶にと思っちゃって。教室、まだ閉まってなくてよかった」

「これから閉めるところだったのよ。ね」

「ええ。私も葉留も用事がありますので。葉留、先に駐車場へ行っていて下さい」

「……わかった」


 何かを悟ったのか、葉留は軽い挨拶を美智江と交わし、外に出ていく。残された貞樹はごみ箱に紙コップを捨て、どこか落ち着かない姿の美智江を見た。


「あ、あのっ、宇甘先生……」

「なんでしょう」

「やっぱり……うち、先生のことが好きです。瀬良さんがいても、諦めきれません」

「諦めて下さい。私は理乃以外、興味がありません」


 息を詰まらせて悲しみの表情を作る美智江に、剃刀のような言葉を続けて投げる。


「正直、迷惑しています。生徒であるあなたにこのような言い方もするのも失礼ですが」

「けど前、気持ちと勇気は受け取ってくれるって言いましたっ」

「ああ……なるほど」


 泣き出しそうな美智江のおもてを見ても、何も感じなかった。それより昔の自分に腹が立つ。思わせぶりな態度をとったであろう、過去の自分に。


 ここらが潮時だろう。甘さを与えるのは恋人に対してだけでいい。言葉を剣に変え、鋭く彼女を切り裂くことに決める。


「私は猫を被っていたようですね。プライベートであなたとお付き合いする気はありません。気持ちも勇気もお返しします。どうぞ他の方と幸せになって下さい」

「……先生、なんか別人みたいで怖いですよ。どうしちゃったんですか」

「これが本当の私です。怖いと感じたなら、あなたは私の本質を見極めていなかったことになる。それでいて好意を寄せる、とはどしがたい」


 わざと笑ってみせた。歪みきった意地の悪い笑みを浮かべる。


 思いを抱かれることが苦痛だった。理乃以外から向けられる恋心が、こんなにも疎ましいとは思ってもいなかった。言い過ぎ、冷血、そう感じられても構わない。


「……瀬良さんは、そんな先生でも好きなんですか」

「ええ。彼女なら受け入れてくれるという自信があります」

「うちの出番は、ないってこと……ですね」

「はい。残念ですが。あなた以外の女性だとしても、出番はありません」


 笑みを消して言い切る。過去の自分は理乃へ、優しさは毒になると言ったらしい。全くそのとおりだ。優柔不断でありたくはなかった。


 美智江は何も言わない。うつむいて体を震わせている。泣いているのかもしれないが、貞樹の琴線に触れることはなかった。


「……すみませんでした。迷惑かけて」


 今度は貞樹が黙る。慰めの一つもかけることをしてはならない。そう決めて。


 うつむき加減のまま、美智江は勢いよくきびすを返すと、駆け足で外へと飛び出していった。入り込んだ冬の風が、一瞬貞樹の髪をさらう。


(これでいい。一縷いちるの望みすら持たせてはならないのだから)


 溜息をついた。美智江はもしかしたら教室をやめるかもしれない。音楽に情熱があるなら続けるだろう。気まずさより腕を磨きたいのならば。


 気を取り直し、黒いコートを羽織って教室を出る。鍵をかけ、シャッターを下ろし、五日までの休業と記した紙を貼った。すでに美智江の姿はどこにもない。


 そのまま雪道を歩き、駐車場へと急ぐ。黄色い軽自動車の中には葉留がいた。どうやら送ってくれるようだ。助手席に遠慮なく乗った。


「待たせましたね、葉留」

「永納さん、泣いてた」

「冷たく言いましたからね。ですが、甘えさせてはならないのです。私には理乃がいる」

「まっ、これも一つの経験だよね。あたしだって旦那以外の好きはいらないし」


 肩をすくめた葉留の手で、車は発進する。思った以上に車通りは多く、理乃の職場まで時間がかかった。見慣れないオフィス街近くは新鮮だ。そこら中に退社したサラリーマンたちがいる。


 貞樹は一つのビル前に、葉留へ指示をして車を停めてもらった。


「このビルです。あとはもう大丈夫ですよ」

「はいはい。それじゃ瀬良さんによろしくね。いい年を」

「ええ、あなたも」


 言って、車から降りる。葉留の車はすぐに他の車体に紛れて消えた。


 見送ってからビル内に入ると、フロアに茶色のボストンバッグを持った理乃がいる。


「あっ、貞樹さん」

「お疲れ様です、理乃。迎えに来ました」

「ありがとうございます……あの」


 理乃が首を傾げた。貞樹の方へ近付きつつ。


「大丈夫ですか? 何か、あったんですか?」

「……どうしてそのように思うのでしょう」

「えっ、と。少し疲れてる感じがしたから……」


 遠慮がちな声に自然と微笑みが浮かんだ。彼女は内向的な分、人の心の機微に聡い。優しさと心配が込められた台詞は、心身を癒やしてくれる気がする。


「やはりあなたは私の特別ですね」

「え……えっ?」

「いいえ、こちらの話です。さて、荷物をお持ちしましょう」

「あ、でもこれ、少し重いから……」

「でしたら尚更ですよ。これから家まで歩くのですから、遠慮せず」


 じゃあ、とおずおず差し出されたバッグを手にした。女性では重いだろうが、男の自分には大したこともない重量だ。


 そっと理乃の横顔を見下ろす。落ち着きのあるメイクに長い睫。形のよい鼻梁びりょう贔屓目ひいきめに見ても彼女は可愛い。貞樹という彼氏がいると知っても、アプローチをしかけてくる男がいてもおかしくないだろう。


(そんな真似は私が許さないが)


 理乃の手をとり、強く握る。彼女は嬉しそうに、照れくさそうに微笑みを浮かべた。


 この休み――理乃が家に宿泊する間。一週間程度の時間で、彼女の体も心もがんじがらめにし、自分以外の誰もを見ないようにさせたい。思いは募り、欲が膨らむ。しかしとめどない独占欲をおくびにも出さず、ただ笑みを深めた。


「これから一週間、毎日楽しみですね、理乃」

「は、はい。楽しみ、です」


 頬を染める理乃を見て、愛おしさがより一層込み上げてくる。


 思いの丈はとどまりそうにない。

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