5ー2.V mlhách~霧の中で~

 ――どのくらいの時間が経過したのか、眠っていた貞樹さだきにはわからない。密かな話し声で目が覚め、しかし身動ぎもせず背中越しに聞こえる会話へ耳を澄ます。


「さだ、四年前から今の記憶がないって先生が言ってた。だから瀬良せらさんのことを忘れてても仕方ないと思う」

「はい……」

「こういうのって、リハビリしながら回復を待つみたい。記憶が戻るかはわからないけどね……辛いことになるよ、きっと。それでも瀬良さんはさだの側にいる?」


 消沈した葉留はるの問いかけに、聞いていたこちらの心臓が跳ね上がる。理由などわからないのだが。


「わたしは、側にいたいです。すぐ近くで貞樹さんと一緒に歩いて行きたい」

「そっか。いや、さ。さだ、女関係で荒れてた時期があってね。被害者側だったんだけど。女性に不信感抱いてる頃とぴったりだから」

「そんなことがあったんですね……」

「そ。もしかしたら瀬良さんにも、冷たくて酷い態度をとるかもしれない。それでも一緒にいられる?」


 今度は間があった。これ以上会話を聞いていたくなくて、貞樹はわざとらしくないように小さく、唸る。


「さだ? 目ぇ覚めたの?」


 葉留の言葉のあとに体を動かし、向けていた背中を元に戻した。首に巻いた柔らかいネックカラーが邪魔くさい。上半身を起こそうとすると、葉留が手を添えてくれた。


「すみませんね、葉留。今は何時ですか」

「十七時前ってとこ。被害届とかの手続きは済ませたから安心して。教室の方も全員に休業って連絡したし、父さんと母さんにも話はしてあるから」

「助かります。……ところで私はどんな事故を起こしたのでしょう」

「この冬道で自転車に乗ってる馬鹿がいてさ。その相手がスリップして避けようとしたみたいだよ。保険適応なんかになるだろうって弁護士さんが」


 はあ、と一つ大きな溜息をつく。自転車がまた相手らしい。手の痺れといい、自転車との事故につくづく縁がある。


「あ、あの……貞樹さんのご両親もお見舞いに来るんですよね?」


 葉留の横に座っていた理乃りのが、口を開いた。首を振りたかったが代わりに葉留が「いや」と返事をしてくれる。


「記憶飛んだって話したけど、あの二人は多分、海外公演を先行にするんじゃないかな。もうウィーン入りしたって言ってたし」

「そんな……大変な状況になってるのに」

「そういう人間なんですよ、私たちの両親は。今更気にもしてられません」

「そっ。期待するだけ無駄だよ」


 葉留は焼きアーモンドを食べつつ、肩をすくめた。


 貞樹たちと両親の仲は、薄い。昔から音楽の方を優先されてきた。今ならクラシックへ情熱を向ける気持ちも多少わかるが、よく音楽を憎まずいられないでこれたと思う。尊敬はしているが、信頼などこれっぽっちもしていなかった。


「ま、あたしたちがどうにかするから。さだは一週間の入院でゆっくり休んでよ」

「あたしたち、とは?」

「あたしと瀬良さん」


 けろりと言われ、貞樹は胡乱うろんげな視線を理乃に向けた。理乃は縮こまるように体を萎縮させ、それでも気丈に笑みを浮かべてみせる。


「わたし、頑張ります。貞樹さんの記憶が戻るように」

「数ヶ月しか付き合いのないあなたが、役に立つとも思えませんが」

「こら、さだ。瀬良さんに冷たくしない。さだと瀬良さん、凄く幸せ一杯だったんだぞ」

「そう言われても覚えていないので」


 貞樹が冷徹に言い放てば、葉留はがっくり肩を落とし、理乃は悲しげなおもてを作る。葉留の様子はともかく、理乃の表情が苛立ちにも似た不快感を覚えさせた。


「そろそろ面会時間は終わりでしょう。お帰りになったらどうですか」

「……そう、ですね」


 理乃はベージュのコートを持って立ち上がる。冷たく接する自分を責めることもしない。


「また来ます。貞樹さん、池井戸先生、わたしは失礼しますね」

「ん、気をつけて帰って。もう外も暗いからさ」

「はい。大丈夫です」


 貞樹は何も言わなかった。ただ、病室を出て行く理乃の背中を見送る。


「さだ、瀬良さんに冷たすぎ」


 咎められるように言われ、面倒臭いと返すみたいに溜息をついた。


「仕方ないでしょう。私に恋人がいるなんて、考えられなかったのですから」

「瀬良さんはいい子だよ。少し内気だけど、頑張り屋で。音楽教室の自主公演だって、さだと瀬良さんがクロイツェル弾く予定だったんだからさ」

「クロイツェルソナタ……ベートーヴェンのですか? それほど彼女は素晴らしい演奏家なのでしょうか」

「いや……音は結構正確だけど……」


 アーモンドを口一杯に頬張ったためか、それとも言いにくいことがあるのか、葉留は声を小さくする。貞樹は唇を歪め、鼻で笑った。


「その様子だと、あまりレベルが高い人間ではないようですね」

「リハビリしてたんだよ、さだと一緒に。お姉さんが死んで二年間、バイオリン弾いてなかったって聞いてる。覚えてないだろうけど、さだが出たミュンヘンのコンクールでバイオリン部門二位を取ったのがその死んだお姉さん」

「それは残念ですね。……一位は当然私でしょう?」

「はいはい。そうです、一位はさだだよ」

「その実感もないですがね。今住んでいる家に、何か痕跡があればいいのですが」

「今のさだの家、軽く見てきたけどどうだろ……瀬良さんに聞いてみれば?」


 言われて、黙る。彼女が家に来たことがあるのか、それすら定かではない。


「葉留、コンクールの録画はありませんか。ドイツでの国営放送でも構いません」

「えっ。ああ、そう言われたら……ちょっと調べてみるわ。実家にあるかも」


 アーモンドの袋を床頭台に置き、葉留が床に置いていた袋を膝に載せる。


「机に下着とシャンプー、それから日用品入れておくわ。貴重品は鍵の場所に。それとこれ、スマートフォン。無事だったから渡しとく」

「どうも」


 手渡されたスマートフォンと鍵。とりあえずスマートフォンを操作し、アプリを起動してみた。友人と思しき誰かのルームトークの上、一番上の場所に理乃の名前がある。


 内容はなかなか長い。挨拶から本の感想などのやりとりが、こまめに保存されていた。可愛らしい猫のスタンプと兎のスタンプが、場違いみたく目に映る。確かに兎は幼少の頃から好きだったが、と顔をしかめた。


 色々な文字の中で、特に気になったのは自分が送った文面だ。


 「大丈夫ですか」「何かあったら私を呼んで下さいね」


 一体その日、理乃に何があったというのだろう。それに対する彼女からの返答はなく、既読だけがつけられ次の日になっている。


 「ごめんなさい、今日は教室に行くことができません」


 次の日の返事はこれだ。やはり思い当たる節はなく、考えているうちに頭が痛くなってきた。


(私を呼んで下さいね……)


 何か、大切な呼びかけだった気がする。こめかみが痛み、思わず箇所を手で押さえた。


「さだ? 大丈夫?」

「……少し色々と考え過ぎたのかもしれません。葉留も帰って大丈夫ですよ。あとはどうせ食事をして、薬を飲んで寝るだけですから」

「わかった。明日も来るけど、なんかほしいのある?」

「特に何もありません。明日検査があるので、また昼過ぎにお願いします」

「ん。じゃ、ね。ゆっくり休んで」


 言って、葉留も立ち去っていった。姿が見えなくなったことを確認し、鍵を枕の下に入れておく。横になった貞樹の視線の先、理乃が置いていった本がある。


 幻想文学に興味はないが、何もしないよりましだろう。食事の間まで、と決めて本を読み始めた。脳裏に一瞬、理乃の悲しそうな顔が浮かぶ。


 それを嘆息で追い出して、読書へと集中した。

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