5-3.Geist~幽霊~
一週間後の十二月二十一日。
これからはリハビリと定期的な通院をするよう、医者には言われた。四年間の間に培った人間関係を注視するように、とも。会話も含め音楽、場所なども鍵となってくるらしい。
だからというわけではないが、貞樹は今、開設していたという自身の音楽教室にいた。
「どう、さだ。何か思い出せることある?」
「残念ながらいいえ、ですね。葉留、あなたもここで講師を?」
「ピアノだけ。あとは事務作業」
頷き、周囲を見回してみる。黒のアップライトピアノに様々なポスター。モノトーンでまとめられた室内はモダンに作られているが、何一つ頭に響くものがない。
昼過ぎの曇り空、外では雪が盛んに降り続いている。葉留があらかじめ暖房を入れてくれていたおかげか寒くはない。ミュンヘンも冬は雪が降るし、気候は札幌と似ているようだ。夏はどうだかわからないが。
「
「彼女が来ても何も変わらないと思いますが。他の部屋を見ても?」
「……さだの教室だし、好きにすれば?」
なぜか不機嫌になった葉留に目をやるも、彼女はスマートフォンをいじっていて視線を合わせようとすらしない。溜息をつき、とりあえず奥の部屋を見て回った。
バイオリンに楽譜が収められた部屋。簡単な給湯室。そして、グランドピアノがある防音室は二つ。ここで生徒と共に、和気
(演奏家をやめたのは、きっと手の痺れが原因だったのでしょうね)
考え、一回りして受付へと戻ってくる。葉留はウォーターサーバーから水を汲み、こちらへと差し出してきた。紙コップを受け取って無味無臭のそれに口をつける。
「なんも思い出せなかった、って顔してる」
「簡単に記憶が戻るなら苦労していません」
「ですよね。ピアノでも弾いてみたら? 何か思い出せるかもしれないよ」
「ふむ」
一理ある、と貞樹は紙コップをテーブルに置き、アップライトピアノへと近付いた。鍵盤を軽く叩き、音を奏でる。正しい音だ。調律はきちんとされているらしい。
ピアノの前に腰かける。楽譜を見た。ベートーヴェン作曲『ピアノ三重奏曲第五番』、通称『幽霊』の譜面がある。一八〇八年に作られたこれは、シェイクスピアの悲劇『マクベス』のワンシーン、そのスケッチに楽曲を流用しようと作曲されたらしい。
ただ、通名とは違って、現代の聴衆からしてみるとそれほどおどろおどろしくなく、第一楽章も明るめの旋律だ。
すう、と息を吸い、鍵盤を叩いた。指は、動く。思った以上に軽やかに。痺れもない。テンポよく、リズムに乗せてピアノを弾いた。楽しかった。久しぶりに晴れやかな気持ちとなり、心が軽くなる。
葉留が立ち上がり、楽譜を捲ってくれる。しばらくの間、貞樹は自身のピアノを堪能した。自分の音色に感情が突き動かされる。五分程度のところで一度、中断した。
「……やはりピアノはいいですね。バイオリンももちろん好きですが」
「気分転換になった?」
「ええ。手を動かすのに演奏は丁度いいですし、これからも弾いていきたいですね」
葉留に軽く笑んだ、その時だ。
「すみません」
教室内に誰かが入ってきて、貞樹は葉留と共に振り向いた。そこには長い茶髪の女性がいる。
「あっ、
「こんにちは、
「えーっと……今はお休みなんだ。前に連絡したよね?」
「急病、って聞いてましたけど。宇甘先生、お体がよくなったみたいでよかったです」
永納と呼ばれた女性は、貞樹の方をちらちら見ながら笑う。
しかし、当の貞樹に彼女の記憶はない。冷めた様子で彼女を見つめる。視線が合うと、どこか嬉しそうに照れられてしまい、困惑した。
「永納
そんな自分の様子を見て取ったのか、葉留がこっそり耳打ちしてくれる。貞樹は心の中で名前を復唱してみるも、やはり何も思い出すことはできなかった。
しかし優秀な生徒と聞いて好奇心が勝った。どのくらいのレベルなのか、気になる。
「永納……さん。お暇でしたら、私と伴奏しませんか」
「えっ」
葉留と美智江の声が綺麗に重なった。葉留は目を丸くしてこちらを見ているが、一方の美智江は瞳を輝かせて頷く。
「はいっ。家でも練習してたんで、足は引っ張らないかと思います!」
「葉留、バイオリンを貸してやって下さい」
「で、でも、さだ……」
「早く。私がどれだけのレベルで、生徒たちにレッスンしていたのかを知りたいのです」
「……わかった」
小声でささやきあう中、美智江はいそいそと
「ふふっ。宇甘先生と二人で伴奏できるなんて嬉しいですっ。いつも皆と一緒だったから」
「そうですか」
「今日は……瀬良さんはいないんですね? あ、いつも夕方に来るんだっけ」
「……ええ」
理乃の話題を出され、貞樹の声が強張る。理乃の個人レッスンは土曜日で、他はグループレッスンだとは聞かされていた。
気を取り直し、楽譜を最初へと戻す。その時背後から清々しいほどまで、さっぱりした声が届いた。
「先生、うちはまだ諦めてないんで」
「は……?」
いぶかしむ。彼女、美智江とも何かあったのだろうか。それも思い出せず、とりあえず葉留を待つ。葉留はしばらくののちバイオリンなどを手にして、受付へと戻ってきた。
「永納さん、はい、これ」
「お借りしますっ。宇甘先生、何を弾くんですか?」
「楽譜はベートーヴェンの『六つのメヌエット』、持ってきたんだけど」
「いいですね。ではそれのト長調にしましょう。永納さん、準備を」
「はいっ」
飾られている譜面台に、葉留が楽譜をセットする。メトロノームを近くに置いた葉留は、なぜか大きい溜息をついた。
「では始めます。すぐに入るので注意して下さい」
それを気にせず貞樹は美智江へ顔を向ける。自信があるのか、彼女の顔は明るい。
リズムに合わせ、鍵盤を優しく叩く。同時に滑らかなバイオリンの音が流れた。どこか牧歌的な、小気味よい音。確かに自信げにしていただけのことはあり、美智江の音は正確で、ちゃんと明朗さと甘さが同居している。
(なるほど……いい音だ。ちゃんとバランスがとれている)
悦に
二分弱の演奏はすぐに終わる。実に満足できる音色に、貞樹は軽く微笑を浮かべた。
「いい音でした。永納さん、お疲れ様です」
「こっちこそありがとうございますっ。宇甘先生と二人で弾けるなんて、夢みたい」
手放しで喜ぶ美智江に、内心軽く肩をすくめる。
(一番上手い、このレベルなら納得できる……しかし)
楽譜を葉留に手渡しながら、疑問に頭を悩ませた。
葉留は言う。一番バイオリンが上手かった生徒だ、と。ならばきっと、理乃は美智江よりバイオリンを上手く奏でられないはずだ。なのにあのクロイツェルを、どうして理乃と弾こうとしていたのだろうか。
考えれば考えるほど、頭が痛くなる。こめかみを
こめかみに指を添える自分を見てか、葉留が慌てて美智江の元へと寄った。
「ごめんねー、永納さん。さだ、まだ本調子じゃないの」
「あっ、すみません。宇甘先生の体も考えないで」
申し訳なさそうに、美智江はバイオリンを葉留へと手渡す。それと同時だった。
「演奏……してたんですね」
入口のドアが開く。どこか震える声に貞樹は顔をしかめつつ、そちらを見た。
理乃がどこか虚ろな――幽鬼的な面で立っている。手に花束を持って。
「瀬良さん……お、お疲れ様!」
「お疲れ様でーす」
「……お疲れ様です、皆さん」
慌てたような葉留と不敵に微笑む美智江に、理乃はにこりともせずうつむき、中へ入ってきた。
「永納さん、今日はもうこのくらいで、ねっ? さだの調子も悪いし」
「……わかりましたー。宇甘先生、また弾ける時、楽しみにしてますっ」
「こちらこそ」
貞樹が美智江に軽く笑ってみせると、彼女の顔が仄かに赤くなる。コートを着直した美智江は鞄を持ち、全員に一礼して教室を出て行った。
「さだの馬鹿。アホ。間抜け。あんぽんたん」
「いきなりなんですか。全部意味が同じ言葉を使うのはやめなさい」
「退院おめでとうございます、貞樹さん」
呆れた貞樹をよそに、唐突気味に理乃が顔を上げ、花束を怖々と差し出してくる。
「……どうも」
立ち上がって受け取った。三本の白薔薇を中心に作られた花束を。白薔薇三本を相手に贈る意味は、愛を意味している。ヨーロッパでは比較的メジャーな贈り物だ。
どこか不安げに薄く笑う理乃を見て、貞樹の苛立ちに似た何かはますます頭痛を酷くする。しかし、それでもこめかみに指は添えない。代わりに口を開く。
「バイオリン」
「え……?」
「弾けますか、ここで今」
「ちょ、ちょっとさだ。いきなり何言ってんの」
「曲は『六つのメヌエット』ト長調。私が伴奏するので、あなたのバイオリンを聞かせて下さい」
「……わかりました」
理乃の顔は白さを越えて、青くなっている。だが、それでも彼女は
「結構。葉留、彼女にバイオリンを」
「知らんからね、あたしはっ」
貞樹は理乃の横を通り過ぎ、机へ花束を置く。葉留の抗議も無視し、ピアノの前にまた腰かけた。
(あなたとクロイツェルを弾く意味が本当にあるのか、見極めさせてもらいますよ)
内心で、どこか
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