第五章:神妙なる旋律

5-1.Gute Nacht~おやすみ~

 事故による孤立性逆向健忘。貞樹さだきがそう診断されたのは事故に遭った二日後だ。


 幸いと言うべきか体にほとんど後遺症はなく、首を多少むち打ちしたくらいで済んでいる。演奏家として手に麻痺がなかったこと、そして死者も出していなかったことに、少し胸を撫で下ろす。


 ウェクスラー成人知能検査やMRIなどを朝から受け、今はもう月曜日の夕方。疲れた。事故後の手続きなどは妹の葉留はるに任せている。そもそも自分がどうして事故に遭ったのか、それすらも曖昧なのだが。


 購買でコーヒーを買い、病室に戻る。ベッドに座り溜息をつく。


 目覚めたのち、葉留に現在の年と月日を聞いて驚いたことは記憶に新しい。四年前から時が止まっている。すなわち、ミュンヘン国際音楽コンクールに出る直前のことまでは思い出せたが、それ以降はさっぱりだ。


(……あの黒髪の女性。泣いていましたね)


 温いコーヒーに眉をひそめながら、思う。「わたしのことを覚えてませんか」と何度も透き通った声で聞かれた。貞樹は冷静に接する他なく、それが涙を誘ったようだ。


瀬良せら……理乃りの


 泣きじゃくりながら繰り返された彼女の名を呟いても、ピンとこない。葉留曰く、理乃はどうやら自分の恋人だというが、全くもって自覚することができなかった。


 日本で音楽教室を開いていることだけでも驚いたのに、恋人とは、と唇が歪む。


 昔、女性には手酷い目に遭っている。顔と金銭目的で近付いてきた女性と付き合い、以来、異性全般に不信感を抱いていたのだ。ピアノとバイオリンの演奏、そしてクラシック音楽だけに情熱を注いでいたはずだったが。


 備え付けのごみ箱に紙コップを捨て、ベッドに寝そべる。葉留が来るまで眠っていようかと考えを振り払った、その時だ。


「失礼します……」


 病室の横ドアが控えめに開かれた。入ってきたのは、今まさに脳裏に思い浮かべていた女性――理乃だ。彼女は水色のスカートを揺らして、周りの患者たちに一礼する。手には青緑のバックと紙袋があった。


 理乃がこちらを見て痛ましげなおもてを作る。どこか責められたような気がして、貞樹は思わず表情を消した。


「貞樹さん、こんにちは」

「……どうも」

「あの、これ、お見舞いです。焼きアーモンド……クリスマス市で買ってきたんです」

「お気遣いなく」

「あ、あと、これは貞樹さんが読みたがっていた本です」


 本と袋がローテーブル形の床頭台に置かれた。半身を起こし、本を手に取ってみる。自分が好むミステリー小説ではない。日本の幻想文学だった。


「読みたがっていた、と言っても私は覚えていないのですが」

「そう……ですよね。ごめんなさい。ミステリーにすればよかったです」


 ふむ、と小さく唸って本を戻す。どうやらある程度、理乃はこちらの嗜好を把握しているようだ。ドイツの主流スイーツである焼きアーモンドに、ミステリー小説。なくなった記憶の中に彼女の好む本を借りる約束があったのか、それすらさっぱりだ。


池井戸いけいど先生は……?」

「葉留ならまだ来ていません。座って待っていたらどうですか」

「ありがとうございます」


 ほっとしたように、理乃が泣き笑いにも似た笑顔を浮かべた。うれいのある笑みは彼女の素朴さに艶を出させる。冬に近い秋にも似た、落ち着いた雰囲気があるなとぼんやり貞樹は思う。


 無言が二人の間に降りた。患者同士の声が密やかに響いている。理乃はうつむき加減で、必死に話題を探そうとしているみたいだ。貞樹はそんな彼女をつぶさに観察してみた。


 白い肌、黒髪のボブ。伏せがちの目は茶色に近い。美女と言うよりも可愛らしさのあるタイプだ。年は二十代半ばだろうか。年齢よりも若々しく見えるので、なんとも言えない。群青色のセーターと水色のスカート、青系統でまとまった出で立ちは清潔感がある。


「あなたの年齢はいくつですか」

「……今月、十二月の二十四日で二十六になります」

「イブが誕生日なのですね」

「はい……」


 理乃の返答に、密やかに嘆息する。貞樹は現在、三十二歳だと葉留たちに言われた。彼女は五歳以上も年下だ。今まで付き合ったことのある女性は数える程度しかいないが、皆、同い年だった。


「あなたと私は恋人同士だと聞きましたが」

「……そう、です」

「どちらから告白し、どのくらいの間、お付き合いしていたのでしょう」


 理乃が顔を上げた。悲しげで、困惑している顔つき。覚えていないことが悲しみを誘ったのか、それとも何か、言えないことでもあるのか。


「どうしました?」

「い、いえ……あの、貞樹さんから告白されて……数ヶ月です、まだ」

「出会いはどこですか」

「コンサートホールです、札幌の」


 確か札幌には、パイプオルガンが有名なホールがある。納得して頷いた。住んでいたミュンヘンと札幌は国際的な姉妹都市でもある。話程度に聞いた記憶は確かにあった。


「わたしは……貞樹さんに、バイオリンも習っていたんです。そこまで立派な生徒じゃありませんけど」

「……葉留が言っていましたからね、私が音楽教室を開いていると。そこの生徒だったと」

「はい。個人レッスンをお願いしてました」

「個人で、ですか」


 貞樹は疑問に思った。個人レッスンをしていたというなら、よほど自分が認めた奏者なのだろうかと。だが理乃は不出来な生徒だと話した。謙遜している、とも思えない。空白の数年で、一体何があったというのか。全くもって思い出せない。


(葉留が結婚していたことにも驚きましたしね)


 あの勝ち気な妹が、と思わず苦笑を漏らした。


「貞樹さん?」

「ああ、いえ。こちらのことです。お気になさらず」


 どうにも苦手意識で、声が固くなる。自分でもかなり硬質的な声音を放ったと感じた。けれど理乃は、意に介した様子など一つも見せない。


「今更聞くのも変ですけど、体は大丈夫ですか?」

「……軽いむち打ちと、記憶障害だけです。手の痺れが朝にありますが」

「それは別の事故のだって聞いてます。自転車事故での後遺症だって」

「なるほど。すぐに治まるのですが。二回も事故に遭うとは、我ながら情けない」


 自転車事故のことは今知った。ついていない、と長い溜息を吐き出す。


「でも……生きていてくれて、よかったです」

「記憶障害でいいも悪いもありませんよ」


 理乃の言葉に多少、苛立ちながら声を発した。だが、彼女は頭を振る。強く、何度も。


「死んだら何もできません。記憶がなくても……生きていてくれただけで、いいんです」


 やけにリアリティのある言い分に、貞樹は押し黙った。だが、心情は複雑だ。四年もの記憶をなくし、今どの程度ピアノなどを演奏できるかわからない不安。情熱的に打ち込んできた事柄に対する懸念が胸をさいなむ。


「私はあなたのことを忘れましたが、それでもいいと?」

「……わたしが覚えてます。だから……」


 意地の悪い台詞に対し、理乃の顔がまた、泣くような面になる。


「だから、やっぱり嬉しいんです。生きていてくれたことが」


 気丈に微笑む理乃が、どこか痛々しく貞樹の目には映った。そっと視線を外し、軽く肩を落とす。


「あ……貞樹さん、髪の毛に糸くず……」


 言われた瞬間、理乃の手が伸びて自身の頭頂に静かに触れた。途端、芳しい香りが貞樹の鼻をつく。清涼で甘やかな香り。香水よりも優しい、控えめな匂いだ。


「……コロンですか?」

「え?」

「いえ、今、何かの香りがしたものですから」


 理乃が微笑む。ちょっと恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに。


「オードトワレです。貞樹さんが買ってくれたんです」

「私が?」

「はい。わたしの大好きな匂いです」


 満面の笑みを浮かべる理乃に、しかし贈った記憶のない貞樹は軽く首を横に振った。


「覚えていません」

「そ、そうですよね。ごめんなさい、嬉しかったから、本当に」


 小さく縮こまり、糸くずをティッシュに包む理乃を見つめる。ふと、昨日は昼から姿を見ていなかったことに今更気付き、口を開いた。


「昨日はあなたを見かけませんでしたね。お仕事でしたか」

「……いいえ。姉のお墓参りに行ったんです。今日は仕事でしたけど」


 ふむ、と内心で納得する。死んでほしくないという理乃の言葉や思いは、きっと、肉親を亡くしたことがあるからリアルに聞こえたのだろう。


「貞樹さんもお墓参りに来てくれる、って約束があったんです」

「あなたのご家族と親交があるほど仲が深まっていたのですか? たった数ヶ月で?」

「い、いえ。姉さんの件は別です。それに……」

「それに?」

「……なんでもないです。貞樹さんは優しいから、気遣ってお墓参り、一緒にしてくれようと考えてくれていたと思います」


 優しい、と聞いて貞樹は目をすがめた。自分はどちらかというと、冷静沈着だと自負している。贔屓ひいきもしないし、それが理由で付き合ってきた女性の方から振られていた。


 数ヶ月くらいしか付き合いのない理乃へ、自分はどれだけの思いを持ち合わせていたというのだろう。冷徹とも揶揄やゆされてきたこちらが心を許すには、あまりに期間が短すぎるような気がした。


 思い出せないこと――理乃への思いも記憶もないことが、とても歯痒く、苛立ってくる。


「私は少し休みます。お相手できないので、今日はお帰り下さい」

「池井戸先生が来るまで、ここにいちゃだめですか」

「……ご自由に」


 貞樹は冷たく言い放ち、ベッドに横たわると、理乃へ背中を向けて目を閉じた。


「お休みなさい、貞樹さん」


 柔らかなソプラノの声が、静かに背中へ投げかけられる。返事はしなかった。

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