4-4.acceleramente~急速に~
「……明日の準備しなくちゃ」
は、と我に返る。いつまでも余韻に浸っている場合ではない。
(
水道の水の冷たさに負けないほど、体が熱くなっている。聞かせてくれた歌声、慈しむような抱擁、そして、熱烈なキス。どれもが心を弾ませた。
ティーカップを洗い、備え付けのタオルで手を拭く。それからリモコンで動画を探した。ヴィヴァルディ作曲の『四季より春』があったので、それをリピート再生にする。爽やかな陽光を思わせるリズムは、聴いていてとても心地いい。
「今なら……こういう曲も弾けるかな」
明日のレッスンで貞樹に提案してみようと、一人で頷いた。
明るめだったり、情熱的だった曲をなるべく避けてきたものの、クロイツェルを弾くならばどの楽曲も糧となるはずだ。何しろ王者の風格を備えた、と説明にあるくらいなのだから。
「よし、まずは手入れから」
曲を流しつつ、自らの寝室に置いておいたバイオリンケースを引っ張り出す。
バイオリンの手入れは、基本拭くことが重要だ。
顎当て、指板、ネックなどの部位を二枚目のクロスで丹念に、優しく拭いていく。全体の様子を見て、確認し終えたら次は弓だ。
緩めておいた弓毛はそのままに、
「……そろそろ弦は替え時かも」
ちゃんとした場所で交換してもらおうと決めた。出費も投資のうち、と言い聞かせる。手入れを終えたバイオリンを見て、自然と気が緩む。張り詰めていないという感覚は、どれだけ人を笑顔にするのだろう。
バイオリンをケースに片付けて、寝室に戻した。明日は夕方からレッスンだ。今更だが試したい曲がいくつも頭に思い描ける。
(貞樹さんのおかげ。わたしがわたしでいられるのは、貞樹さんがいるから)
そっと胸に手を当てた。心臓の脈が速い。未だに唇や頬が熱く感じる。本当に、熱烈なキスだった。思い出して一人照れ、ひゃあ、と小さく呟く。
馬鹿みたいに浮かれている。いい加減にしなさい、ともう一人の自分が言った気がした。しかし、抱き締められた時の体温や貞樹の心臓の音、放たれた台詞がどうしても頭の中で繰り返されてしまうのだ。
「……記憶力あるって、ちょっと嬉しい……」
一人はしゃぎつつ、軽い足取りで寝室のクローゼットを開ける。明日は何を着ていこうかと悩むのもまた、楽しい。しかし、それより今は着替えとシャワーが先だろう。
パジャマや下着、それからバスタオルなどを持って浴室へと向かった。
体を洗ったりする最中、シャンプーの匂いを嗅いでみる。シトラスの香りだ。甘い、と貞樹は言った。シトラスだったら爽やかと表現した方がいいのに、と疑問に思う。ボディソープも甘さとは無縁のものだ。
「……わたし、本当に甘いのかな、匂い」
シャワールームに呟きが反響する。体臭だったら嫌かも、などと色々考えつつ、タオルで体を隠して外に出た。
水飛沫を拭き取り、パジャマへと着替えを終える。髪を軽く擦っていたその時、あらかじめ、風呂に入る前に出しておいたスマートフォンが机の上で音を鳴らす。
スマートフォンの画面に浮かぶのは、知らない番号だった。
「……誰からだろう……」
少し疑問に思ったが、勇気を出して出てみることにした。
「はい、もしもし……」
「瀬良さんっ!」
語尾を遮って、女性――
「い、
「瀬良さん、瀬良さん……」
戸惑う理乃に対し、葉留は今にも泣きそうな声でこちらの名を呼んでいる。
「あの、どうかしたんですか?」
「落ち着いて、聞いて。あのね、さだが。兄貴が」
一瞬、思考が停止した気がした。兄貴、すなわち貞樹に何があったというのだろう。
「あ、あの、池井戸先生。貞樹さんがどうしたんですか?」
「……交通事故に遭って。さっき、病院に担ぎ込まれた」
スマートフォンが落ちそうになった。頭が真っ白になる。
――事故。誰が。貞樹。事故、死――
背筋が
「ど、こ……」
「あたしが悪いの、ケーキ買ってきてなんて言ったから……あのまま帰せばよかったのに」
「どこ、ですか」
「えっ……」
「病院はどこですか! すぐに行きますっ」
自覚した以上に大声が出た。声は震えていた。
「あっ、え、えっとね……」
混乱しているのだろう、それでも葉留は病院の名を教えてくれる。ここからそう遠くはない総合病院だ。頭の中に病院の名を叩きこみ、スマートフォンを肩と耳で挟みながら、早々に着替えを始めた。
「タクシーで向かいます。池井戸先生、貞樹さんは無事なんですよね?」
「頭打ったって……命に別状はないけど、意識が
「このまま通話しましょう。命があるなら、大丈夫……大丈夫です」
「そ、そうだね。あたし、今もう病院にいるから……」
理乃は適当に着替えて鞄を持ち、そのまま外に飛び出した。鍵をかけるのももどかしい。泣きそうな葉留の声に、息を切らしながら、叱咤となだめることを繰り返す。
コートも着ていない状態だが、寒さなんてこれっぽっちも感じない。タクシーもすぐに拾うことができた。
「瀬良さん、一度切るね。医者に呼ばれたから……」
「わかりました。わたしも、もう少ししたら着きます」
車通りが少なく、すぐに言われた病院に到着した。病院に駆け込み、看護師へ事情を説明すると、女性の看護師は冷静に貞樹の病室を教えてくれる。
(病室なら……病室にいるなら、軽傷。大丈夫、姉さんの時みたいじゃない)
「瀬良さん、こっち!」
「池井戸先生……っ」
暗い通路の中、葉留が手招いているのが見えて駆け寄った。先程から全力で走り続けていて、体中の空気がなくなったように辛い。
「さだ、さ、貞樹さん……は」
「今寝てるよ。外傷はほとんど見当たらないけど、頭、窓に打ったみたい。
「生きてる……よかった、本当に……」
「うん、さだ、生きてる……瀬良さん、中に入ろう」
なんとか息を整え、理乃は頷く。心配で胸が痛んでどうしようもない。
部屋の中、扉すぐのベッドに貞樹は目をつむって横たわっていた。解かれた髪に白い包帯が痛々しく理乃の目に映る。だが、微かに胸が呼吸と共に上下しているのを見て、安堵からその場に崩れ落ちそうになった。
「さだ……起きて、さだ」
名を呼ぶ葉留につぎ、理乃も貞樹の名を呼ぼうとしたその時だ。
「う……」
軽く身じろぎした貞樹が、閉じていた瞼を開ける。焦点が定まっていない視点は次第に我を取り戻し、しっかりとしてくる。その視線がこちらを捕らえた。
「……葉留」
「さだ。目、覚めたんだ! よかった……」
「ここは……私は、一体」
「事故だよ、事故に遭ってさ。心配したんだからねっ」
「事故……?」
眉根を寄せ、いぶかしむ貞樹へ、それでも理乃は泣き笑いの笑みを浮かべた。
「貞樹さん、よかった。無事で、生きていてくれて……」
「……すみません」
理乃を見つめる瞳が、細まる。これ以上なく冷淡に。
「あなたは、どなたですか」
その一言――たった一言は理乃の心身を凍らせるのに十分だった。
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