4-3.amabile~甘美~

 調子を整えるため、動物の動画を鈍い動きで音楽へと変えた。ベートーヴェン作曲『御身を愛す』のピアノソロが流れる。


 穏やかで、なだらかな音階がリビングに響いた。


 音楽に背中を押してもらうように、理乃りのおもてを上げる。


「わたし……上江かみえさんに一度だけ、抱かれたことがあるんです」


 ぽつりと小さく、雨垂れのような台詞を漏らす。声は震えていた。それでも一度口を開けば、言葉が洪水みたく溢れ出してくる。


「上江さんが悪いわけじゃないんです。姉さんが死んで、どうしようもなくなったんだと思います。体を許した私も馬鹿でした」


 貞樹さだきは何も言わない。体を震わせる理乃の頬を無言のまま、優しく何度も擦ってくる。温もりに絆され、理乃はぎゅっと目をつむった。目が熱い。涙が出そうになる。


「ずっと昔から、上江さんのことを尊敬していたんです。なのに……わたしは姉さんを裏切って、抱かれて。貞樹さんと恋人のふりをしている時も、上江さんの面倒を見たり。教室にだって最初、上江さんのためにって思って入会しました」


 懺悔のように喋り続けた。胸の内をぶちまけるように、全て。情けなさと後悔で涙が零れる。熱い涙は貞樹の指を濡らしていくが、それでも頬から手のひらが離れる様子はない。


「こ、こんなわたしが、貞樹さんの恋人になんてなっちゃだめなんです。さっきの生徒さんの方がよっぽど、まっすぐで純粋な心を持ってるから」

「それは違いますよ、理乃」


 穏やかな声に、それでも肩が無条件に跳ね上がる。瞳を潤ませながら静かに瞼を開けた。先程と変わらない、柔らかな笑みを浮かべた貞樹の顔が、視界の中で歪んでいる。


「よく話してくれましたね。辛かったでしょう、今まで」

「辛かった……」


 そうだ、と思う。自分で招いたこととはいえ、辛い時が続いていた。隆哉のピアノへの情熱を取り戻せなかった事実も、莉茉りまの身代わりのように純潔を捧げてしまったことも。苦しかった。悲しかった。


 その二つが暗い心中を抉る中、貞樹の笑顔だけが柔らかな月光のように道しるべとなる。


「あなたが何度、他の男に抱かれていたかなんて私は気にしません。理乃、あなたが最後に私の側にいてくれればそれだけでいい」

「貞樹、さん」

「私はあなたの強さも、弱さも、全て受け止めます。受け入れて、一緒に歩いて行きたい」


 貞樹の腕が理乃を包み、そっと、これ以上なく柔らかく抱き締められた。温かな言葉にまた、涙が出る。落涙が彼のシャツを濡らすことも気にすることができなかった。


「あなただって十分純粋で、優しい。まっすぐに進もうと努力する姿も、私は好きです」

「貞樹さん……貞樹さん、貞樹さん……っ」


 シャツのポケットから立ち上る、お揃いのオードトワレ。清涼で甘やかな匂いと貞樹の心が、全てを許してくれる気がした。過去というしがらみから、自分を解き放ってくれる気がした。


「……理乃」


 面をまた、持ち上げられる。貞樹の唇が頬の涙を吸い取っていく。官能的な口付けに、理乃の胸は疼いた。愛おしさと喜びで。


 頬だけでなく額や頭頂部にまで、キスの嵐が降り注ぐ。そして貞樹の唇は、理乃の唇と重なった。深く、熱い口付けに全身が痺れる気がする。心身を包む情熱的な抱擁とあいまって、理乃の体から力が抜けた。


「ん……」


 貞樹の唇が移動し、首の横筋を吸う。吐息が漏れた。


「理乃……愛しています。あなたのことしか考えられないくらいに」


 再度の告白に、胸が弾む。全身の血が一気に心臓に集まり、脈となる。


「わたしも……わたしも、その」


 思いを連ねようとしたその時、貞樹の人差し指が理乃の唇を封じた。いつの間にか乾いていた目をまたたかせれば、少し意地悪く笑った貞樹が口を開く。


「理乃の誕生日に、本心を聞かせて下さい。そうでなければ」

「……なければ?」

「このまま続きをしてしまいそうですから」


 ひゃ、と理乃は小さく悲鳴を上げた。抱き合っている格好、そして首筋に注がれる、ついばむようなキス。否応なしに先の展開を想像してしまい、顔が真っ赤になる。


 慌てて離れ、貞樹とは逆の方向を向いた。両頬に手を当てながら。全身熱を帯びている。でも嫌な感じはしない。ふわふわとした感覚が体を包み、まるで雲の上にいるようだ。


「本当にあなたは可愛いですね、理乃」


 くすりと笑う貞樹の腕が伸びて、背後から抱きすくめられた。貞樹はそのまま理乃の髪の毛に顔を埋め、鎖骨付近を抱き留める腕に力を込めてくる。すっかり縮こまった理乃は、小動物――それこそ兎みたく身動ぎもできなかった。


 緊張はある。心臓が早鐘を打っている。それでもどこか胸のつかえが取れた。凝り固まったしこりが綺麗になくなっていて、清々しい。


 腕に手をやる理乃の耳元で、顔を移動させた貞樹が艶やかな吐息を漏らした。


「理乃の匂いがします。甘い香りが」

「き、きっとシャンプーの匂いですよ」

「……ああ、だめですね。これ以上あなたに近付いているとおかしくなりそうです」


 陶酔しきった貞樹の台詞は、理乃の鼓動を速めるのに十分すぎた。火照りきり、固まった体から静かに貞樹が離れていく。理乃は元の位置に戻り、そっと貞樹を見つめる。


「大丈夫ですよ、今はキス以外何もしませんから」

「キ、キスはするんですね……」

「おや、嫌ですか?」

「……貞樹さんの意地悪」


 答えなんてわかりきっているだろうに、貞樹はそれでも笑みを深めるばかりだ。葉留はるの言葉が頭に浮かぶ。嫉妬心、執着心。貞樹の紳士的な態度の奥に隠された、少し複雑な性格が垣間見えた気がした。


 文句を言いつつ、嫌悪感を覚えないままに温くなった紅茶を飲む。


「ところで理乃。確認ですが、明後日の墓参りに上江君も来るのですよね?」

「はい。よっぽどのことがない限り……来るはずです」

「それは丁度いいですね。彼とまともに話がしたいと感じたものですから」

「まともに話……」


 カップを置いて考えた。よくよく思えば、隆哉とはほとんどろくな会話をしていない。いつも莉茉のことばかりで、自分の本心を打ち明けたのは最近のことだ。


「上江さんに……あの、実はわたし、上江さんに告白されたんです」

「ふむ。やはりそうでしたか」

「そう、って……?」

「彼はあなたに甘えている気がしました。一度だけしか会っていないので不確定でしたが。しかし、これではっきりしましたね」

「甘えるですか? 上江さんが、わたしに?」

「ええ、駄々をこねる子どものように。優しさは、時として甘美な毒になりますから」

「毒……」


 同じく紅茶を口に含む貞樹を見て、理乃はまた考える。


 隆哉を付け上がらせていたのは、きっと自分の甘さが原因だ。彼は言った。優しさがほしい、と。でも、こちらが優しくすればするほど、結局隆哉を腐敗させていくだろう。彼には立ち直ってほしい。ならば答えは一つだ。


「わたし……もう一度はっきり、心を言葉にします。上江さんを元に戻すために」


 それが指すのは、過去との決別。未だ莉茉の幻影という壁はあるが、隆哉へできることはもう、拒絶しかない。


「それを聞いて安心しました。少しずつ、辛い過去を思い出に変えましょう。誰にだって、そう、あなたにも幸せになる権利はあるのですから」

「……はい」


 貞樹の笑みにつられるように頷き、微笑む。


「そう言えば、今流れている曲の歌詞を知っていますか?」

「学校で習った記憶があります……ええと」


 曲に合わせるようにして、貞樹が、ん、と鼻でハミングした。


「私はあなたを愛しています、あなたが私を愛するように。

 朝も夕方も、一日もかけることなく、あなたと私は憂いを分かち合います……」


 音階にアルトの歌声が追加され、響く。滑らかな声に思わず理乃は拍手しそうになった。貞樹がまた、笑う。いたずらっ子のような顔つきで。


「この楽曲は、丁度よくあなたと私を示していますね。憂いを分かち合い、愛し合うという意味で」

「そ、そんなつもりは」

「私はそうするつもりですが……いや、だめですね、どうにも。不埒な考えばかりが頭を占めてしまいます」

「貞樹さん……」


 手をとり、貞樹がその甲へキスを落としてくる。治まったはずの鼓動がまた、激しく脈打つのを理乃は感じた。


「ちゃんとわたし、誕生日にお返事します……貞樹さんに。そ、そうしたら……」


 唾を飲んで、はにかんだ。頬を染めつつ、目を潤ませながら続ける。


「恋人のふりは、やめにして下さい……」

「ええ、もちろんです。あなたの誕生日を待ち侘びて過ごすことにしましょう」


 嬉しそうに頷いてくれる貞樹へ、理乃もまた、喜びを感じながら口元をほころばせた。


「もう、夜遅くになってしまいましたね。そろそろ私はおいとまします」

「あ、もうこんな時間……」


 時計を見ると、時刻は二十時を示している。あっという間の時間だった。とても充実した時間を共有できたことに喜びが募る。


 貞樹はジャケットを着直して、ネクタイを直すとソファから立ち上がった。


「今日はごちそうさまでした。お休みなさい、理乃」

「こちらこそ……ありがとうございます。気をつけて帰って下さいね、貞樹さん」


 玄関へ向かう貞樹を見送るため、理乃もソファから立った。


「それではまた明日。明日はピアノの調律があるので、夕方からになってしまいますが」

「はい、お稽古しに行きます」

「お待ちしていますよ、理乃」


 靴を履いた貞樹が、頬を擦り寄せてくる。なぜかまた、理乃に勇気という単語が浮かぶ。


 貞樹の頬に、心を込めて唇を押し付けた。チークキスではなく、口付けをする。


「お休みなさい、貞樹さん」


 珍しく呆けた顔を作る貞樹に、手を振った。途端相好を崩した貞樹が頷き、ドアを閉めて去っていったのちも、理乃はしばらく頬に手を当て、玄関で立ったままだ。


 温もりと優しさ、そして愛。どれだけ貞樹にもらったのだろう。


(今度は、わたしが返す番……)


 きっと今自分は、うれいのない表情をしているだろう、と一人、微笑んだ。

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