3-3.languendo~嘆き悲しんで~

 ――家に戻った理乃りのはコートと鞄をリビングに投げ出し、照明もつけず自室に向かう。加湿器を作動させ、隅に置かれているバイオリンケースを見つめた。夕方で、ほとんど外の陽射しも明かりもない中、黙ってバイオリンを見続けた。


「わたしは……バイオリンが好き」


 呟けば、本当に? ともう一人の自分がせせら笑う。


「バイオリンを弾くわたしが好き」


 嘘、と脳内に否定が響く。好きなのは、一緒に伴奏してくれる隆哉たかやだ。モーツァルトの甘い旋律に合わせ、莉茉りまと共に三人で笑い合っていたあの頃。もう戻れない過去。


 莉茉を褒め称える隆哉の言葉が、繰り返し思い浮かんだ。天才だ、美しいと。


 理乃はその場に膝をつき、近くにあったベッドのシーツを握り締める。完全に打ちのめされた気がした。死者の思い出はどこまでも美化される。それが愛するものなら尚更だ。


「……中途半端で馬鹿だね。わたしがバイオリンを弾いても、どうにもならないのに」


 でも、自嘲したあとに心の中で悔しさが頭をもたげる。緩慢に立ち上がり、バイオリンのケースを持ってリビングへと戻った。


 これごと捨てられたら、あらゆるものを諦められたらどんなに楽だろう。ケースを抱きかかえ、暗く冷えた室内、ソファの上で縮こまる。


「悔しいな。頑張ることしかできないのに。それしかできないのに、わたし」


 ささやきが無音の中に溶けていく。バイオリンを抱き、何度も同じ言葉を呟いた。


 どのくらいそうしていただろう。完全に夜となった。鈍い動きのまま、ソファにバイオリンを置いて部屋のカーテンを閉める。外では大粒の雪がちらちらと舞い踊っているのを見て、小さく溜息を吐き出した。


 その時、鞄から微かな音がする。スマートフォンのアプリだろう。しかも通話だ。もしかしたら貞樹さだきからかもしれない。やはりゆったりと、足を引きずるように投げ出した鞄の方へ向かい、スマートフォンを取り出した。


 画面には貞樹からの通話連絡が浮かんでいる。


(……今は出たくないな)


 なぜか、思った。貞樹に甘えてすがりたくない。それを許される立場にないだろうから。


 通話を知らせる音だけが、無機質に室内で鳴り響く。画面を眺めたまま向こうが諦めてくれることを理乃は待った。


 一分が長く感じた。通話が切れる。その前にも文面での連絡が来ていたようだ。だが、既読をつける気にもならない。安堵と自己嫌悪で再び嘆息した、瞬間だ。


 インターホンが鳴る。こないだ通販で買った服かもしれず、やむなくスマートフォンを片手にカメラ画面を見た。


「え……」


 画面越しにいたのは宅配員ではなく、隆哉だ。薄赤のダウンジャケットを羽織った彼は、どこか気難しそうな顔をして玄関と画面を交互に見ている。


 何か用があるといっても、連絡もよこさず来るのは珍しい。しかも見た目は素面だ。怖々とボタンを押し、理乃は返事をする。


上江かみえさん……なんでしょう」

「莉茉の録画がほしい。部屋に入れろ」

「……はい」


 鍵を開ける。音を確認してだろう、画面から隆哉が消えた。理乃はしばらく誰もいない入口を眺めていたが、明かりもつけていないことに気付く。気が乗らないがリビングの照明をつけた。


 再度インターホンが鳴り、隆哉の到来を告げる。落ち込んだまま玄関のドアを開けた。


「入るぞ」


 横柄な態度で玄関から入ってくる隆哉に、理乃は何も言わず頷く。リビングが冷えているのをいぶかしんだのか、隆哉は眉を寄せて理乃の方を見た。


「暖房つけてないのか」

「……さっき帰ってきたばかりなんです」

「莉茉の録画、全部よこせ。ここにある分だけでいい」


 ついた嘘にも隆哉はなんの反応もしない。莉茉という目的だけを欲する彼に、それでも理乃は無言のまま、テレビの近くにしゃがみこむ。


「デッキ、買ったんですね」

「ああ。これでいつも莉茉と一緒にいられる」


 数枚のDVDを取り出す理乃とは違い、隆哉はどこか嬉しそうだ。これを渡せば、もう彼は理乃の家に来ることはなくなる。前までだったら寂しさや悲しみが胸を襲っていただろう。しかし不思議とそんな感情は込み上げてこなかった。


「紙袋に入れますから、待ってて下さい」

「お前、まだバイオリンを宇甘うかいのやつに習ってるのか」


 ソファの方をじっと見て、隆哉がささやいた。理乃もソファへ視線を向ける。


「宇甘も見る目がないやつだな」

「……宇甘さんは親切で教えてくれてるだけです」

「それが馬鹿ってことだ。せっかくの才能をお前に使って何になる」


 棘が含まれた台詞に、否定も肯定もしなかった。事実、そうだ。貞樹ほどの人間が自分にかける手間暇。向けてくれる情熱に応えられていない事実が胸を締めつけた。


「お前もお前だ。今更バイオリンなんて弾こうとしやがって」

「わたしは……」


 ディスクをテーブルの上に置き、嘲りの笑みを浮かべる隆哉を見た。隆哉の視線はどこまでも冷たく、氷柱つららみたいだ。


「わたしは、なんだよ」

「……上江さんがまた、ピアノを弾くきっかけになってくれたらいいな……って」

「俺が? ピアノを?」


 勇気を出した理乃の本音は、それでも一笑に付された。くつくつと小さく笑い、隆哉は肩を震わせる。


「お前のバイオリンなんかで、誰がまたピアノを弾くんだ。莉茉ならともかくお前のバイオリンで? 冗談にもほどがあるだろ」

「す、少しでも……わたし、上江さんに音楽への思いを取り戻してほしいから、だから」

「そんなの俺にはない。莉茉が死んだあの日から」


 あ、と吐いた息と共に理乃は理解した。理解してしまった。隆哉の視線は冷ややかだが、真摯だ。それでわかる。莉茉が、姉が、自らの命と共に隆哉から音楽への情熱を奪っていったことを。


(勝てっこない……わたしじゃ、無理なんだ。無駄なんだ)


 うつむいた。散らばったDVD、もうそこにしかいない姉の姿を思い描く。生者では決して取り戻せない思い、感情。一瞬にして力が抜けた。努力する意味を喪って。


「莉茉のいない世界でピアノなんて、弾きたくもない」


 吐き捨てられた言葉はとどめだった。目が熱くなる。でも、隆哉の前で泣いてもどうしようもない。独りよがりの期待と夢を抱いてはしゃいでいた自分は、本当に間抜けだ。


 涙を堪え、近くにあった――貞樹が以前くれた紙袋へ、雑にディスクを突っ込む。


「これ、あげます。それでいいですよね。残りは実家です」


 下を向きながら紙袋を隆哉へと押し付けた。手を震わせつつ。


 袋を受け取った隆哉は、また笑う。


「泣いてるのか、お前」

「泣いてません。泣きません」


 かぶりを振る理乃の顔が、隆哉の手によって強引に持ち上げられた。潤んだ瞳を見られた、と理乃は怯える。じっと理乃を見つめ、隆哉は唇を歪ませた。


「お前の泣き顔だけは、どっか莉茉に似てやがる。抱きたくなるな」

「……て」

「脱げよ。抱いてやるから。お前だって俺のこと」

「やめて!」


 理乃は叫び、顎を掴んでいた手を払い除けた。大声を出した自分に驚くが、それは隆哉も同じだったようだ。目を見開き、手と理乃を交互に見比べている。


 全てを吐き出すように、理乃は大声で続けた。


「わたしは姉さんじゃない。姉さんの代わりなんて誰もなれない!」

「……っ。お前っ」

「嫌い、大嫌い! 姉さんも上江さんも、みんな嫌いっ」


 本音なのかそうでないのかわからなかった。わからないままテーブルに置いていたスマートフォンを握り、脱兎の如くリビングから飛び出す。コートも鞄も持たずに。


「おいっ」


 焦燥しょうそうした隆哉の声にも振り向かない。靴を履いて玄関から外に出る。エレベーターも使わず、階段を駆け下りた。息を切らしながらただ、ひたすら。


 初めて姉と隆哉をののしった。でも、本当に嫌いなのは自分だ。中途半端で、努力もできないことに愛想が尽きた。涙が溢れる。悔しくて、苦しくて、何も考えられないまま無我夢中で歩道を駆けた。


「理乃!」


 角を曲がろうとした時、車のブレーキ音と自分の名を呼ぶ声が聞こえ、足を止めた。雪道で滑る。思い切りその場に尻餅をついた。はっきりとした痛みが体を襲い、ついでにスカートが濡れる感触もする。


 それでもその場でうずくまった。泣きじゃくりながら。こちらに駆け寄ってくる足音が聞こえる。


「理乃、大丈夫ですか。どうしたのですか」


 貞樹の声だった。唇を噛みしめ、涙で頬を濡らしたままおずおずとおもてを上げる。同じくコートも着ていない貞樹が、理乃の側に膝をついて肩に触れる。


「こんなに体を冷やして。何があったのですか」


 理乃は激しくかぶりを振った。何もない。ただ、自分の馬鹿さ加減に嫌気が差しただけだ。それでも貞樹は、理乃の肩に置いた手へ、優しく力を込めてくれる。


「家へ帰れますか?」


 帰りたくない、と伝えるのにも呼吸がままならない。理乃はまた泣きながら首を横に振る。


「……車に乗って下さい。さあ、立って。ゆっくりでいいですから」


 化粧も涙でぐちゃぐちゃだ。情けない顔をなぜか貞樹には見せたくなくて、うつむいたままのろのろと立ち上がる。


 腕を回し、体を支えてくれる貞樹の優しさ――


 そんなもの、自分には向けられる価値なんてないような気がした。

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