3-2.rabbia~怒り~
金曜日。勤務の最中、昨夜過分にとったアルコールが頭痛となって
頭痛を抑える薬を服用して楽になれば、今度は
(……恋)
パソコンと睨み合いながら、思い浮かぶ単語を振り払うように仕事へ集中した。上手くいかない。どうしても貞樹の声や手の感触、そして微笑みが頭から離れなかった。
(わたしが恋なんてしちゃいけない……)
素直になるだけ、と
(
嘆息し、窓の外を見る。雪が本格的に降り始めていた。白い粒を見るたび、苦しさだけが心の底に沈殿していく気になる。気持ちは鬱屈していくばかりだ。
幸い仕事は今のところ急ぎのものはない。明日は休みだが、久しぶりに休日出勤をしてもいいだろう。
昼過ぎに上司へ頼み、早退扱いにしてもらった。重い足取りで冬用の黒いコートを羽織り、鞄を持って会社から出る。足枷をはめられたかのように、歩みが遅いと自分で思う。
教室が終わるまでまだ時間はあった。本屋にでも向かおうかとも考えたが、どうにもそういう気になれず、適当な店で昼食をとる。時間を潰し、教室へ行くことに決めた。
いつものコースを辿り、教室につくと受付には
「あらっ、
「こんにちは、
「どうぞー。さだは今レッスン中よ。終わるまでまだ時間があるから、大分待つけど」
「いいです、それでも。椅子、借りますね」
頷かれ、隅っこの席へ腰かけた。鞄から翻訳された海外小説を取り出す。貞樹から借りたミステリー小説だ。理乃は普段、あまりミステリーなどは読まないのだが、ドラマ化された原作ということもあり、スムーズに読み進めることができている。
数ページ読んで本の世界へ没頭し始めた時、目の前のテーブルにクッキーとお茶が置かれた。顔を上げると、なぜか正面に葉留が座っている。
「瀬良さん。少し話しましょうよ」
「なんの話でしょうか……?」
「そりゃーもう、決まってるじゃない。あなたとさだの話よ。さだのやつ、いつの間にか恋人なんて作ってるんだもん。びっくりしちゃって」
「そ、そうですか」
頬杖をつき、笑顔を浮かべる葉留に理乃は気圧される。親しげな名前呼びを許す間柄、そこが少し気になった。
「池井戸先生と……貞樹さんは、長いお付き合いがあるんですか?」
「長い長い。嫌って言うくらいの長さよ。ねっ、二人はどこで出会ったの?」
「コ、コンサートホールです……半年前に」
「なるほどねー。さだのやつ、こんな可愛い子捕まえておきながら、あたしには内緒にしてたか」
可愛い、と言われて困惑しながらお茶を飲む。温かいほうじ茶だ。その間にも葉留はクッキーを頬張っている。
「瀬良さんはさだに個人レッスン受けてるんだよね? 来年の自主公演には出るの? あたしは伴奏で出るけど」
「ま、まだ悩み中です」
「クロイツェルでしょ、目玉の演目。さだがそれを担当するから、瀬良さんがバイオリンを弾くって聞いてはいたけど。なんだ、悩み中なのか」
「難易度が高い曲ですし……ちょっと勇気が足りなくて」
「さだのことだ、無理やり出させるよ。絶対。あいつはそういう男だ」
一人首肯する葉留を見て、理乃の胸に暗雲が立ちこめる。曲についてではなく、なぜか貞樹の全てを知っているような物言いに。つきん、と心臓が痛む気がした。
(二人はどういう関係なのかな……)
疑問を解消するには、あまりに自分は宙ぶらりんの状態だった。貞樹に告白されたわけでもなく、こちらが貞樹に抱いている感情もあやふやで。そんな中で問い質すこともできない。
「そうだ、瀬良さん。よければあなたの演奏聴きたいんだけど、どうかな」
「わ、わたしの演奏をですか?」
我に返したのは、唐突なまでの葉留の提案だった。突然の言葉に理乃は目を丸くした。
「うん。あたしが伴奏するから。さだが見定めたっていうくらいだもん。どんな感じで曲を弾くのか知りたくてね」
「でもわたし……まだリハビリ中ですし」
「曲は瀬良さんに合わせるから。ねっ、お願いっ」
懇願に
「やった。今日、バイオリンは貸すから。空いてるもう一室に行こう」
「あの、本当に期待しないで下さい……」
小さく呟くも、葉留は聞いていないようだ。颯爽と立ち上がって理乃を手招くものだから、荷物を持って後に続く。
いつもとは違う防音室に通され、理乃は嘆息しながらコートを脱いで葉留を待った。バイオリンを持ってやって来た彼女は、どこか機嫌がいい。
「はいこれ。いつもとは使い勝手が違うだろうけど。曲は何がいい? 今ある楽譜は……」
バイオリンを渡され、いくつかの曲名を口に出された。どれもアップテンポ、明るめの曲だ。貞樹に言われた言葉を思い出せば、情熱的な演奏を弾くのはまだ早いかもしれない。
哀しく、うら寂しい曲――と記憶をまさぐる。すぐに見つかった。
「スメタナの『わが祖国』第二曲……モルダウはだめですか」
「え? いや、いいけど。ゆっくり弾いてもいい?」
「はい、大丈夫です」
「オッケ、わかった。楽譜あるから、その間にバイオリンの準備してて」
大量の楽譜を持ってまた出ていく葉留を見送り、理乃はバイオリンケースを開けた。
スメタナの曲の中で最も有名なのが、このモルダウだ。日本でも様々なCMで使われているし、合唱で耳にすることも多い。雄大な川の流れや幻想的さを連想させるこの曲は、頭に浮かんだ楽曲の中で、ある程度自分が弾けるくらいだと見越した。
「あったあった。交響曲のだから奥に置かれてた。ミスったら許してね」
言いつつ帰ってきた葉留は、先程までと雰囲気が異なる。明朗さは変わらないが、より覇気に満ち溢れていた。メトロノームや楽譜をセットしていく葉留を横目に、理乃もバイオリンを構える。テンポが原曲より少し遅いが、リハビリ中の身にとってはありがたい。
「じゃ、始めるよ。よろしく」
小さく頷く。ピアノの独奏が始まった。最初は静かに、そして次第に盛り上がっていく瞬間を聞き逃さない。タイミングよく弓を引く。手と体は上手くついてきてくれた。
広大な川、自然、妖精たちの踊り――今、イメージできる最大限の熱量を曲に乗せる。急がずに、森や渓流、昔動画で見たチェコの映像を想起しながら。
だが、タン、とピアノの音が唐突に途切れた。止まるのが遅れて、少し長引かせてしまう。葉留の音は間違ってはいない。自分も間違いなく弾けていたはずだ。どうしたのかと思い、バイオリンを降ろして葉留を見た。
「あ、あの……」
「……んー」
葉留は難しそうな顔で楽譜を睨んだのち、理乃の方に向き直る。その
「楽しくなさそうだね、なんか」
「え……」
「悲しみだけが強調されてるよね。モルダウの解説読んだりしたことある?」
「あ、ありますけど」
「じゃ、今の部分は哀愁じゃなくて『これから先の希望』を見据えた音にならないかな」
「……ごめんなさい」
「なんだろうね、瀬良さん。失礼だけど」
しょげてしまう理乃に、葉留は眉を寄せて言い放つ。
「瀬良さんて、本当にバイオリンが好きなの?」
鋼のような一言だった。鋼で作られた言葉の剣。それは冷たさを帯びて理乃の心を穿つ。思わず息を飲んで、しかし衝撃のあまり口から何も出てこない。全身から血の気が引く。
「こういうのもあれだけど、ここにないね、心。さだに言われてない?」
歯に衣着せぬ物言いは続く。そう、自分の心はここにない。そうだというのに、貞樹にバイオリンを習うなんて失礼ではないのか。不誠実極まりないのではないか。考えれば考えるほど、自分の顔から表情が消えるのがわかった。
何も言わずその場に腰を落とし、ケースにバイオリンを入れる。慌てたように葉留が立ち上がったが、そんなことどうでもよかった。
「瀬良さん、あのね」
「わたし、失礼します。今日と明日は会えないと貞樹さんに伝えて下さい」
「えっ。いや、それはさだに怒られるって、あたしが」
空洞な心のまま、バイオリンを片付け荷物を持った。コートも着ず、ベージュのスカートをなびかせて、防音室から逃げるように飛び出る。
「理乃?」
駆け出したとき、貞樹の声が後ろから聞こえた。理乃は返答も振り返ることもせず、そのまま駆け足で教室を飛び出し、少し暗くなった外の歩道を走り続ける。
葉留の言葉に言い返せないことが悔しかった。悔しいと思う自分に、そんな感情はどこで眠っていたのかと内心、自嘲する。無力ならば、精一杯努力して見返せばいいだけだというのに。
それすら今はできそうになく、自分の弱さに無性に腹が立った。
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