3-4.condolcemaniera~甘く、柔らかく~

 藻岩山もいわやま付近にあるカフェに、理乃りのはいた。眼前に札幌市中央部の夜景が広がっている。普段なら綺麗だと陶酔できただろう。貞樹さだきが頼んでくれた飲み物にもすぐに口をつけていたはずだ。だがとてもそんな気にはなれず、ガラス張りの風景を見つめるだけ。


 周囲には密やかな話し声とジャズの音が響いている。暖房の効き具合も丁度よかった。


「……何も聞かないんですね」


 呟くと、対面に腰かけている貞樹は静かにコーヒーカップを置く。


「あなたが話してくれるのでしたらうかがいます。しかし無理に話さずとも結構ですよ」


 理乃は車中で借りたハンカチで拭った顔を、貞樹へと向けた。相変わらず彼は穏やかな笑みを浮かべていて、直視するのが辛い。もう甘えてはだめだと頭では思うのに、与えられる慈しみが濁った胸の内をかき乱す。


「……酷い台詞、上江かみえさんと姉さんに吐いちゃったんです。大嫌いだって」


 ささやけば、せきを切るように言葉が溢れ出してくる。


「嫌いなのはわたし自身なんです。中途半端で何もできない自分が嫌で。それに」


 木製の机に置いた手を、強くきつく握った。本音を、真実を告げるのがとても怖くて。だが、今この機会を除けば、貞樹へ本当のことを話すチャンスはなくなるかもしれない。義理を欠くことだけはしたくない、と震える唇で続きを紡ぐ。


「わたし、宇甘うかいさんを利用してました。上江さんがまたピアノを弾いてくれるかも、って。わたしがバイオリンを弾くことができたら、上江さんの情熱を取り戻せるんじゃないかって……それでバイオリンを習うことにしたんです……」

「それのどこが、私を利用したことになるのですか?」

「だって。宇甘さんは真剣に、心からわたしとレッスンしてくれました。でも、結局わたしは自分のために習ってたわけじゃないし、宇甘さんの親切にも応えられてません……」

「私の方こそ、理乃。あなたに無茶を言ってお願いしていたのですよ。恋人のふりをね。おあいこだと思いませんか」

「そんなこと、ないです……酷いのはやっぱりわたしです」

「確かに上江君のため、というのは少し、傷付きましたね。あなたの心を占めるのが彼ということが特に」


 貞樹は苦笑し、形のよい顎に手を添えた。消沈する理乃を見て軽く頭を振る。


「私も卑怯でした。あなたを惑わせるような態度ばかりとってしまった」

「いえ、それは……」

「ですが、理乃。私があなたに与えた言葉に何一つ、偽りはありません。そしてこれからも私はあなたに嘘をつくつもりはない」


 貞樹がそっと、壊れ物を扱うような所作で、理乃の手に手のひらを被せてくる。


「理乃、好きです。私はあなたが好きなんです」


 微笑みと共に放たれた言葉が理解できなくて、一瞬理乃は、呆けた。告白された、とようやく頭が理解した時、心臓を鷲掴みされたようになる。


「わ、わたしなんか……」

「やはり思い出せませんか、私のことを」


 優しく問い質され、必死で頭の中の記憶を探る。多分、二年前。二年前が鍵となっていることは間違いない。しかしどうしても記憶が靄がかっている。


 困り果て、手を振りほどくことも忘れた理乃に対し、貞樹はスーツの懐から一枚のハンカチを取り出して机に置く。花柄の紫のハンカチだ。


 理乃には見覚えがあった。いつの間にかなくしていたと思っていた、自分のものだったから。


「どうしてそれを……あっ」


 ハンカチと貞樹の笑みを見比べた刹那、鮮やかに記憶が蘇る。


 二年前、姉が死んだ日――場所は家族と一緒に聴きに行ったコンサート会場だ。苦しそうに手を押さえ、隣の席で眉を顰めていた男。とても辛そうで、思わず手洗い場で濡らしたハンカチを渡した記憶が脳裏に思い浮かんだ。


 今ならはっきりわかる。その男性は――


「……隣の人……宇甘さん」

「はい、そうです。私たちは二年前に一度、札幌で会っているのですよ。もちろん、ミュンヘンでお姉さんを応援していた時のことも覚えていますが」


 微笑みを深めた貞樹に、しかし疑問に思う。貞樹の症状は朝に出るのではないのかと。


「二年前のコンサートは夕方でしたよね……? どうして手の痺れが」

「あの頃は、いい主治医と出会うことができていませんでした。リハビリも中途半端でして。一日中痺れに悩まされていたんですよ」


 貞樹の指が柔らかく、慈しむように理乃の手をなぞる。


「あなたはとても、楽しそうに……心から楽しそうに音楽を聴いていた。あの日のコンサートの演出は私の友人が担当していまして。アドバイザーが私だったのです。それを機に、音楽から離れようと思っていました。ですが」


 昔の記憶をまさぐるように、貞樹が瞼を閉じた。少しの間を置いて開かれた目はどこまでも優しい。


「瞳を輝かせ、微笑みながら曲を聴くあなたの姿を見て……もう少し音楽と関わろうと思えた。音楽を心から愛する人がいるならと。私が今、こうして講師としていられるのは、理乃。あなたのおかげなのです」

「わたしが……」

「ええ、そうです。私の音楽の女神ミューズ。それはあなたなんですよ、理乃」


 熱情的な視線と台詞に理乃はうろたえ、視線を外す。女神ミューズだなんて、と面映ゆく、顔が熱くなるのがわかった。


「あなたによって私は救われた。あそこまで音楽を愛している人がいるなら、そのために生きてみようと思えたのです。それに……」

「ま、まだあるんですか……?」

「もちろん。札幌にいれば、もう一度あなたと会えるかもしれないと思ったので。ハンカチを返す前に、あなたは途中からいなくなってしまいましたから」


 そうだ、とうつむき加減のまま、段々記憶が戻ってくるに任せる。


 休憩の際、莉茉りまが心配でホールから外に出て電話を入れたのだ。返事がなく、嫌な予感がしてタクシーに乗り、急いで自宅に戻った。あとは覚えているとおりだ。


「ごめんなさい、忘れていて……あの日、丁度姉が死んだから……」

「それは……そうでしたか。ならばショックで忘れていても仕方ありませんよ」

「……宇甘さんは、音楽教室で会った時から……その、わたしのことを?」

「ええ。これはチャンスだ、とも思いましたね。あなたをもう逃がしたくなかったので」

「でもわたし、さっきも言ったとおり……自分のためじゃなくて」

「わかっていますよ。今すぐにとは言いません。上江君のためではなく、これからは私のためにバイオリンを弾いてはくれませんか? あなたを惹かれている私のために」

「宇甘さんの、ため……」


 切なげな言葉に息を飲み込む。


 自分の足を繋ぎ止める過去という鎖。貞樹の言葉は確実に、重い鎖に亀裂を入れてくれる。隆哉のためではなく、自分を思ってくれる人のために楽器を手に取るということ――それはどこか、内心の暗闇に新たな方向から光を与えられた気がした。


 ただ一人、心から思ってくれる人に音楽を捧げるというのは、今まで生きていた中で経験がない。自分のため、姉のため、隆哉のためにとずっと無理をし続けていた気がする。


「頑張り方を間違えていたのかもしれないです……わたし」


 知らずのうちに苦笑が浮かんだ。「尊敬は恋とは違う」と千歳ちとせの言葉が脳裏に響いた。安らぎと温もり、それらを与えてくれる貞樹の思いに応えたい、と素直に感じる。


 理乃の独白に頷いた貞樹がふと、首を傾げた。


「頑張ると言えば。昼間は葉留はると何かあったのですか?」

「あ、えっと……池井戸いけいど先生は悪くないんです。わたしが自信なく弾いたから、それを指摘されて、ショックで」

「……あれには強く言っておく必要がありそうですね」

「い、いえ。池井戸先生は本当に、正直に感じたことを言ってくれたんです。このくらい……これからは必要になってくると思うから。強くならないといけないんです、わたしが」

「私以外の人間にそう思わされた、というのはなかなか堪えるものがありますね」


 どこか憤然とした様子の貞樹は少し子供じみていて、理乃は小さく笑う。


「理乃、笑っていますが。大体あなたは私だけの生徒なんです。そこを無視してあなたへ指導するなど、あれには百年早い」

「……あの」

「なんですか?」

「い、池井戸先生と……長いお付き合いなんですよね? それは、その」

「妹です」

「……はい?」

「葉留は私の妹です。既婚者なので名字が違うだけで」


 妹、という単語を理解した瞬間、なぜかほっとした。ほっとして、気付く。間違いなく自分が貞樹に惹かれていることを。


 安堵した顔を見たのか、貞樹が不敵に唇を釣り上げる。


「少しは心配してくれたようで何よりです」

「……宇甘さんって、ちょっと意地悪ですね……」

「そうでしょうか。それより、また名字呼びになっていますよ。名前で呼んで下さいね、理乃。それと、告白の返事はまた改めて聞かせていただきますので」

「や、やっぱり意地悪です……」


 ますます縮こまる理乃の手は、貞樹にがっちり固められていた。これでは赤くなる頬を覆うこともできやしない。それでも重ねられた手、冷たさの中にある温もりが、心をどこまでも解きほぐしていく気がした。


 外を見ればもう、大粒の雪はやんでいた。


 止まっていた理乃の季節――永遠の冬が今、動き出す。

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