2-6.amaro~苦しい~

 隆哉たかや理乃りのに何かを頼むのは、莉茉りまの死以来初めてのことだ。だが、頼まれたって喜びやときめきなんてなかった。理乃の胸にあるのは焦燥と戸惑いだけ。それでも隆哉を見捨てることなんてできやしない。


 自分のマンションに隆哉がいることを確認しつつ、タクシーを拾う。ワンメーター程度の距離だが、運転手は快く乗車させてくれた。


 二人分のラーメン代を紙幣で払い、貞樹さだきとは別れの挨拶もそこそこに店を飛び出してしまった。別れ際、貞樹が真剣な面持ちで言ってくれた言葉を思い出す。


 「困ったら私を頼って下さい」と、どこまでも優しい声音が脳裏で繰り返された。多分、貞樹は気付いている。理乃が隆哉に呼び出されたことを。その言葉だけで救われるような気がした。事実、頼るかどうかは別として。


(ううん、頼っちゃいけない。宇甘うかいさんにこれ以上迷惑はかけちゃだめ)


 甘えのようなものを振り切る。隆哉と自分の爛れた関係に、貞樹を巻き込む真似はもう、したくない。


 タクシーが止まった。電子マネーで決済し、礼もせずに車外へ飛び出す。


 マンションのエントランス、そこで棒立ちになっている人影は間違いなく――


上江かみえさんっ」


 コートも着ずにいた隆哉が、まるで幽鬼の如く真っ青な顔でこちらを見た。理乃は急いで駆け寄る。自失しているのか、返答はない。


「上江さん、部屋に行きましょう……?」


 そっと腕に触れてみた。冷たかった。隆哉はどのくらい、理乃の帰りを一人で待っていたのだろう。長袖のシャツは秋風で冷え切っている。スマートフォンを持った手をだらりと下げ、ここではないどこかを見つめていた。


 こういうことは稀にある。アルコールに頼らないと、ほとんど人形みたいになってしまうのだ。この状態になると三日は飲み物以外を受けつけない。


 ある程度元に戻す方法を知っている理乃は、隆哉を引きずってマンションへと入った。


 自分の部屋へ向かう際に、隆哉の手を握る。冷ややかな感触が一瞬だけ貞樹を連想させた。しかし貞樹とは違い、指を絡めたりしてくることはない。


 静かな部屋は冷えていた。ぼうっとしたままの隆哉を玄関に置き、理乃はすぐさま暖房を入れる。それから古い型のテレビをつけた。DVDをセットし、流すのは姉である莉茉の演奏会だ。


 静寂にバイオリンの音が響く。精密で、哀愁のこもった音階。ロマのメロディだ。サラサーテ作曲の『ツィゴイネルワイゼン』。画面には長い黒髪を結った、ドレス姿の莉茉が映っている。


「……莉茉」


 玄関から物音と微かな声がした。気付けば靴もそのままに、フローリングを踏んだ隆哉がリビングに入ってきている。


 汚れなんて気にすることもできず、理乃は硬直状態の隆哉をソファへ座らせた。


 画面の中で生きている姉の姿を、隆哉は凝視している。他に光源もない中、暗闇に隆哉の呆けた横顔だけが照らされていた。


「上江さん、靴、脱がします」


 部屋が暖まるまで、と理乃はコートを脱いで隆哉の肩にかける。それから弛緩したままの足を持ち上げ、ローブーツを脱がせた。


 玄関へ靴を戻し、リビングの照明をつける。隆哉が僅かにこちらを見た。


「……髪、切ったのか。莉茉」


 力ない笑みと言葉が理乃の胸を締めつける。頭を振り、キッチンへと向かった。


「わたしは理乃です、上江さん」

「莉茉ならなんでも似合う。長いのもよかったけどな」

「……理乃、なんです」

「今度、映画に行かないか? なんだっけな、お前に似てる女優が出てくるやつ」


 会話が全く噛み合わない。理乃はお湯を沸かしながら、紅茶を入れる準備を始めた。


 この状態になるといつもそうだ。隆哉はそこに莉茉がいるかのように振る舞う。理乃を通して莉茉を見る。もはや病気と言ってもいい。


 カウンセリングにも最初は通っていたと理乃は知っている。だがいつしか隆哉は通院をやめてしまった。隆哉の自失を立ち治せることができるのは、死者である姉の動画だけ。


 DVDは実家を出る時、両親に内緒で数枚持ってきた。隆哉はプレーヤーを購入していないため、必然的に映像を見るのは理乃の家でということになるのだ。


(わたしのバイオリンじゃ、まだだめ……)


 部屋に流れる姉の音色は美しく、豊かに感情が込められている。作られた経緯を理解し、作曲者の秘めた思いと自らの感情を乗せて奏でられるバイオリンは、今の理乃が到底及ばない高みにあった。


 ハーブティーを二つ持ち、一つをリビングのテーブルへと置く。隆哉は手をつけようとしない。ただ食い入るように、画面の中の莉茉を見続けていた。


 立ったままお茶を飲み、理乃もテレビの画面を眺める。


 赤いドレスを揺らし、音色に集中する莉茉。とても楽しそうに、時に哀しげに、バイオリンを弾き続ける姉の姿を見て小さく溜息をつく。


「莉茉はやっぱり天才だ」


 ぽつりと呟かれた隆哉の言葉に、また胸が苦しくなる。莉茉は技巧だけじゃなく曲への造詣ぞうけいも深かった。音楽の神に愛されていた、と言っても過言ではないだろう。


 双子なのに、どうしてここまで違うのか。妬みはないが疑問がある。


「そうだ、莉茉は天才だ。なのに……どうして」


 もう一度溜息をつこうとした時、隆哉の声が震えていることに気付く。我に返ったのだろうか。顔を見ると、その青白い面が涙に濡れていた。


「俺を置いて、どうして逝った? なんでお前が苦しんで死ななきゃいけない」

「上江さん……」

「俺は生きてる。莉茉のいない世界で……全部がモノクロだ。苦しいんだ、莉茉」


 コートを握って震える隆哉を見て、理乃は顔を逸らした。手を差し伸べることも、肩を抱くこともしてはならない。一夜の過ちを繰り返すにはいかないのだから。


 サイドテーブルにコップを置いた時、隆哉がコートを落とす音がした。怖々と理乃がそちらを見れば、恐ろしいほどぎらついた瞳とかち合う。


「どうしてお前が生きてる」

「あ……」

「莉茉は死んだ。なのに俺もお前も、どうしてまだ生きてるんだ?」


 悲しみを怒りへ、理不尽なまでの怒りに昇華させ、なじる隆哉に容赦はない。


 生きていること、それ自体が罪だと言わんばかりの詰問に、理乃は唾を自然と飲み込む。そんなこと、と聞かれない程度に呟いた。


「……そんなの、わたしが知りたいです……」


 ささやいた声は哀愁混じりの曲にかき消される。顔を背け、苦しくなる胸を服の上から押さえつけるように握り締めた。赫怒かくどを込めた視線が外れるまで、ずっと。


(神様に愛された人は、早く天に召される)


 以前、テレビか何かで聞いた言葉。頭の中で思う。姉は今も、天国でバイオリンを弾いているのだろうかと。そんなこと、誰一人として望んじゃいないのに。


 横目で隆哉を見た。彼はまた呆けた顔で画面に集中している。テレビの中、微笑む莉茉だけが全てというように。


 完全に二人だけの世界だった。誰も入ることを許されない世界だ。蚊帳の外に置かれた理乃は、苦しむ胸を堪えて静かに鞄を持ち、自室へと足を運ぶ。


 立てかけておいたバイオリンを目に留めた際、タイミングを見計らったかのように連絡アプリが音を鳴らした。緩慢な動作でスマートフォンを手にする。


 「大丈夫ですか」「何かあったら私を呼んで下さいね」


 貞樹からのメッセージを見て、閉めた扉へと背中を預けた。そのまま尻を突く。甘く、優しい文面に少しだけ目が潤んだ。


「私を覚えていませんか……」


 ぽつりと呟く。出会った時、貞樹に聞かれた言葉だ。未だに貞樹のことは思い出せない。ミュンヘンのコンクールで顔を合わせたかもしれない、としか考えられず、しかしそれは正解ではないようだ。


 「お休みなさい、理乃」


 兎のスタンプと共に送られた文字を見て、考える。やはり貞樹と出会った記憶はない。


 取り柄の記憶力も活かせず、バイオリンすらまともに弾けない自分が、情けなくてたまらなかった。


 隆哉と莉茉、二人の世界はリビングで未だ続いている。理乃を置き去りにしたままで。

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