2-7.lusigando~甘く、優しく~

 時間は無情に過ぎていく。驚くほど早く五日が経過した。月・水・金に貞樹さだきと約束していた恋人のふりなんてまともにできず、今日は土曜。レッスン日だ。


 隆哉たかやは二日前、ようやく自失状態から一時立ち直り、夜中に無言で理乃りののマンションから出ていった。


宇甘うかいさんに悪いことしてる……)


 水曜日、金曜日、両方とも教室に行けなかった。隆哉の面倒を見るのに手一杯で。


 貞樹からは毎日、朝と夜に、欠かさず挨拶のメッセージが来ていた。教室に行けない旨を伝えた時も、理乃を責める文面など一つもなかった。それがまた、申し訳なさに拍車をかける。こっそり溜息をこぼした。


 面倒を見た、といっても隆哉を我に返したのは莉茉りまの動画だ。自分は何もできていない。ただレトルトのスープなどを用意するくらい。どうしようもない虚しさが胸を占める。


「理乃、どうかしましたか?」

「あ……い、いえ、なんでもないんです」


 貞樹の問いかけに首を振り、苦笑を浮かべた。周囲には子ども連れの家族、その楽しそうな声が響いている。


 理乃がいるのは札幌の青少年科学館、一階にあるプラネタリウムだ。昨日の夜に貞樹から連絡が来て、レッスン前に付き合って欲しいと頼まれた。


「本当にごめんなさい……恋人の真似をするはずだったのに」

「お気になさらず。今日で二日分、取り返しますから。今日もまた一日、私にお付き合い下さい」

「は、はい。わかりました、宇甘さんに付き合います」

「貞樹、ですよ。理乃」


 微笑まれ、また口の中で転がすような小さな声で「貞樹さん」とささやく。隣の席に座る貞樹は理乃の小声を聞き取ったのか、ようやく満足したみたいだ。


 白の長いニットにグレーのパンツ。そして黒のシューズと、貞樹はいつもよりラフな格好をしているが、それも似合うとぼんやり理乃は思った。


「素敵ですね、その服」

「あ、ありがとうございます……これ、友達に選んでもらったんです」


 褒められて、はにかむ。自分にしては珍しく爽やかな色、薄藍のワンピースを着ていたのだ。Vネックのワンピース。首には青緑のストールを巻いてある。友人の千歳ちとせが「たまにはお洒落でもしろ」と合わせてくれた一品だった。


「いつもの格好もいいですが、あなたには青が似合う気がしますね。色彩には詳しくないので完全な私見なのですが」

「そうでしょうか……? 少し派手かな、って思っちゃうんですけど……」

「いつもとは違うあなたを見られたようで、私としては嬉しい限りです。ご友人は見る目がある」

「友達はアパレル関係の仕事をしているんです。人の服を選ぶのが得意で……」

「いいご友人をお持ちですね」

「はい、わたしにはもったいないくらいの友達です」


 友人を褒められるのは嬉しい。素直に笑顔が浮かんだ。貞樹も微笑みを深めてくれる。


 その時、館内放送が流れた。そろそろプラネタリウムのショーが始まるようだ。空いていた席へ他の観客、家族や恋人たちが腰かけていく。


「星を見るなんて何年ぶりでしょうか」

「う……貞樹さんは、あまりこういうところは?」

「ええ。図書館にはたまに行きますが、大抵はコンサートホールでして。理乃は?」

「昔、高校の授業で。わたし、理系だったんです。物理の課外授業でここにも来たことがあります」

「なるほど、そうでしたか。今日は授業ではないので、リラックスして楽しみましょう」


 理乃が頷くと、同時に入口が閉められた。暗闇が辺りを制していく。


 暗い中というのは少し、寂しい。画面を、莉茉りまを見続ける隆哉を連想してしまうから。


 ううん、と頭の中から陰鬱いんうつな思い出を追い出す。静かに呼吸を整えて天を見上げた。今は貞樹に借りを返す時間だろう。せっかく誘ってくれたのだ。楽しまなければ失礼になる。


 ナレーションが入り、目一杯に星空が広がった。柔らかいオルゴールの音と共に彗星が流れていく。満天の星空に、オーロラ。そして地球の画像が理乃の目を奪う。


(綺麗……)


 吐息が漏れた。月並みな表現だが、心が洗われていくようだ。アルトの落ち着いた声音、目の前に広がる星々。南西の空には秋の四辺形が見える。反対側には冬の大三角形――特にオリオン座が眩い。


 椅子の手摺へ置いた手に、ふと冷たい感触がした。視線をやれば、自分の手の上に貞樹の手のひらが置かれている。貞樹の横顔を見た。光に照らされた端正な横顔は、気のせいか少し、赤い。


 そう気付けば、理乃も自分の頬が熱くなるのを感じた。男性が無造作に肌へ触れているというのに、全く嫌悪感や違和感を覚えない。


(不思議な人。凄く……落ち着くし……)


 意識しないように努め、手を解くこともせずに天を仰いだ。惑星の側を駆け抜ける流れ星、煌々とまたたく星の美しさに酔いしれる。


 珍しく何も考えなかった。広大な宇宙を見ていると、自分がちっぽけに思えてくる。悩みも悲しみも苦しみも、全てが洗い流され、溶けて消えていく。


 あっという間の時間だった。四十分のショーが終わり、周囲の客が席から立ち上がっても、目に焼き付いた星空がそこにあるように天を仰ぎ続けた。


「理乃?」


 優しい声音で我に返る。横を向けば、心配そうな貞樹の顔があった。


「ご、ごめんなさい。凄く綺麗で、少しぼうっとしちゃって……」

「何か辛いことがありましたか」

「いえ。本当、何もないんです。見とれてただけで」


 嘘をつくことが心苦しく、苦笑に変えた。隆哉や姉のことは言えない。言いたくない。貞樹にはこれ以上、自分の醜い部分を見せたくなかった。どうしてそう思うのかなんてわからないけれど。


「……それならいいのですが。朝よりかは少し、元気を出してくれましたね」

「そんな酷い顔、してました……?」

「していましたよ。ここに来て気分が晴れたならよかった」


 貞樹が手をとったまま、ゆっくり立ち上がる。鞄を肩にかけて理乃も席から立った。


「それでは次に行きましょう。喉も渇いたので食事にしましょうか」

「あの、貞樹さん……手」

「これも二日分だと思って我慢して下さい」


 微笑まれて、気恥ずかしい思いを抑える。やはり顔が熱い。化粧でごまかせていればいいと思うのに、指を絡めとられてはますます頬が火照る。


 その日、教室に行くまでの間――カフェやレストランを回って歩く中、ほとんど手は繋がれっぱなしだった。


 一日が早い。驚くほど早く夕方になる。レッスンの時間となり、これまた手を繋いだまま教室に赴いた。誰もいない教室で、二人きりの稽古が始まる。


 今日の課題曲はエルガー作曲の『愛の挨拶』だった。前よりはまともに弾けたかも、と理乃は感じたが、音が固い、と貞樹に指摘されてしまう。


「テンポも音の取り方も正確ですが、やはりまだ、感情が追いついてませんね」

「はい……」

「今度からは、少し曲調を変えたものを課題として出しましょうか。どうも、こう……」

「なんでしょう……?」

「情熱的な曲が弾けていない、いや、弾くのを拒んでいる気がしましたので」


言われて、バイオリンを片付ける手が止まった。ピアソラの『リベルタンゴ』に『アメイジング・グレイス』。それぞれは自由を奏でる、そして愛を奏でる曲だ。自由と愛。その単語が頭によぎり、胸が痛む。


 そんなものは自分にないような気がした。不埒な愛に死者に囚われている現在。自由と愛とはかけ離れた生活を送っていることに気付き、うなだれてしまう。


瀬良せらさん、気を落とさずに。芸術家はおしなべて精神的なものに左右されやすい。それを乗り越えるために自信をつけていくのですが」

「そう、ですよね……頑張ります……」

「足りないものがわかっているなら、あと少しですよ。道は見えています」


 黙って頷く。ケースを両手で持って立ち上がった。


「今日もありがとうございました、先生」

「こちらこそ。お疲れ様です。さて、稽古も終わりましたし送りますよ」

「まだ七時ですから、一人で帰れますけど……」

「私があなたを送りたいのです」


 厳しいおもてから一転して微笑みを作る貞樹に、引いてくれる様子はない。小声で謝辞し、結局甘えることになった。いつものように貞樹と一緒に教室を出る。


 今日は晴れているためか、宵の空に星がよく見えた。プラネタリウムもいいが、肉眼で見える星もまた、抗いがたい美しさを秘めている。


「今日もとても楽しかった。付き合って下さりありがとうございます」

「こ、こっちこそ。星を見るのなんて久しぶりでしたし、楽しかったです」


 車内であそこの紅茶は美味しかった、などと今日一日の感想を言い合った。例え恋人のふりだとしても、近しい人と食の好みが合うのは、純粋に嬉しい。


 そうしている間に、車は理乃のマンションへと辿り着く。


「ありがとうございました……すみません、本当に送りまで……」

「いいえ。好き勝手にやっていることですので」


 笑う貞樹に苦笑し、理乃は車から降りる。貞樹まで運転席から降りたものだから、小首を傾げた。


「あの、何か……?」

「……理乃」


 返事をする前に、肩に優しく触れられる。屈んだ貞樹の頬が頬に触れ合い、吐息が一瞬耳元を掠め、唇の鳴る音がした。


 何が起きたのかわからず、硬直する理乃から離れた貞樹が、微笑む。


「お休みなさい、理乃。また月曜日に」


 何をされたのか全く理解できず、固まったままの理乃を置き、貞樹は車を走らせて去っていった。


(あれ。今、の。今のって……)


 キス? と理解した瞬間、心臓がバクバクと鳴り響く。全身の血液が頭に上がっていくようで、恥ずかしさのあまり思わずバイオリンを落としそうになった。


 正確に言えば唇をくっつけてはいないのだから、キスにはならないのだろうが――


「……ひゃぁ……」


 情けなく小さな悲鳴が、誰もいないマンション前に響いた。顔が、体が、とても熱くて堪らない。


 秋風に負けないほどの熱は、部屋に戻っても残り続けた。

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